『剣戟の果てに陽はまた昇る』
万事休す、という言葉が頭の片隅に浮かんできた。
刀は折れ、身体は傷だらけ。攻撃の手段は乏しく、共に満身創痍であるマガツノヅチは未だに余力を残している―――某を確実に屠り、黄泉の国へ追い落とすだけの力を、だ。
さて、どうしたものか。
だらりと垂れた左手の指先から滴り落ちる紅い雫を見下ろし、考えを巡らせる。刀は半ばほどから折れ、もはや刺突で攻撃する事は叶わない。斬撃を放つ事しかできず、しかもその刃は刃毀れを起こしていて、さながら鋸のようにギザギザと尖っている。
ふう、と息を吐いた。
マガツノヅチも傷だらけだ。眉間にはこの刀の折れた刀身が突き刺さり、身体中には爆風で炙られ変色した部位や、斬撃を受けて生じた流れ星のような刀傷がある。尻尾の先端も切断されていて、彼奴めもいつ力尽きてもおかしくない有様だった。
ふと空を見上げた。
夜明けは近い。空は紺色に染まり始め、あれだけ眩い輝きを放っていた星も、そして表面に蛇の這うような模様が浮かんだノヴォシアの月も鳴りを潜めている。
もうじき、異国の地より登る太陽が、赤く燻る大地を照らすのだろう。
その時―――陽の光を浴びて立っているのは某か、それともマガツノヅチか。
刀を握り、ふらふらする身体に鞭を打って走り出そうとしたその時だった。
「……?」
ブロロロ、と何かが迫ってくるような爆音が、某の鼓膜へと入り込む。この戦場へとやってくる際に、ミカエル殿や雪ふ……しゃもじ殿が乗っていた乗り物が発していた音だ。”じどうしゃ”というらしいが……。
未だ馬や飛脚、駕籠に人力車が主流の倭国では、あまり目にする事はない。あったとしても藩主や上様といった位の高い方の乗り物となっているであろう。
やがて、馬よりも速い速度で走り回る鋼鉄の猛獣が、某の背後にあった廃屋をぶち破って姿を現した。先端部の照明を爛々と輝かせつつ、某の一寸(約3.3cm)右を掠めて加速していったそれ。運転席には、やはり見慣れた人影があった。
「しゃもじ殿……!?」
アイヌ民族の衣装に身を包み、その上から奇妙な斑模様の防具を身に着けたしゃもじ殿が、円筒状の大きな荷台を連結させた乗り物(”たんくろうりい”と呼ぶらしい)の運転席に座り、何を血迷ったのか、そのまま脇目も振らずにマガツノヅチへと向かって突っ込んでいったのである。
以前から思っていたが、しゃもじ殿は何を考えているのか分からぬ時が時折ある。薩摩出身の武士とは付き合いが長いが、彼女の思考回路はどちらかというとエゾのアイヌ民族というよりも、薩摩の武士に近いものがある。
まさかあの”たんくろうりい”とやらをマガツノヅチにぶつけるつもりではあるまいか……円筒状の荷台の側面にはびっしりと瓦……というよりも羊羹のような、何とも言えぬ質感の物体がフジツボの如く取り付けられているのが分かる。
一対一の殺し合い、その戦場を乱されたことに苛立ったのか、マガツノヅチが吼えた。周囲に例の氷の槍を十重二十重に生み出しては、それをしゃもじ殿が操る”たんくろうりい”へと投げ放つ。
白濁した可燃性の槍衾が、次々に”たんくろうりい”を串刺しにしていった。荷台や運転席の周りに次々に突き立てられる白い牙。しかしそれでも、しゃもじ殿は止まらない。
激突まであと少しというところで、しゃもじ殿は運転席から飛び降りた。
「―――タンクローリーだッ!!!!」
ぐしゃあ、と金属がひしゃげるような轟音が耳を劈く。
鼻っ面からマガツノヅチの腹に突っ込んだ”たんくろうりい”。およそ6500貫(約25t)はあろうかという金属の塊が、怒り狂った雄牛の如き速度で突っ込んできたのだ、それを真っ向から受けたのだからマガツノヅチもただでは済まない。
たんくろうりいの鼻っ面がマガツノヅチの腹にめり込み、大きくひしゃげる。苦しそうな呻き声を上げるマガツノヅチを尻目に、しゃもじ殿は、それはそれはもう嬉しそうな、それこそ無邪気に遊ぶ小童のような笑みを浮かべ、こっちに駆け寄ってきた。
そしてくるりとマガツノヅチの方を振り向き、手にしたからくりの小さな釦をカチリと押し込む。
その直後だった。たんくろうりいの後方に連結されていた円筒状の荷台。その表面をフジツボの如く覆い尽くしていた羊羹のような謎の物体が、点火した火薬の如く一気呵成に爆ぜ割れたのである。
溢れ出た炎はたんくろうりいの荷台に満載されていた油(”がそりん”と呼ぶそうだ)に瞬く間に引火、たんくろうりいとの衝突でもがき苦しんでいたマガツノヅチの巨躯を、瞬く間に煉獄の如き焔で包み込んでしまう。
あまりにも唐突なしゃもじ殿の乱入に、某は身体中の痛みさえ忘れて目を丸くする事しかできなかった。あんぐりと口を開けたまま、そっとしゃもじ殿の方に顔を向けると、彼女は笑みを浮かべたまま「いぇい☆ぴーすぴーす☆」と変な事を言って誤魔化そうとする。
「しゃ、しゃもじ殿」
「はーい?」
「な、何をしておるか」
「だからタンクローリーよ」
「たんくろうりい」
「タンクローリー」
「た、タンクローリー」
いや、訳が分からぬ。
相変わらず全力全開のしゃもじ殿。全力で生きている感じがして羨ましい限りだが、しかし戦の最中に某に加勢する余裕があったのだろうか?
奇妙な斑模様の防具に変わった形の鉄砲(火縄が無いがどうやって火薬に点火するのだろうか?)、そして両腰には大小拵えがあり、背中にも4本ほど刀を背負っている。
さながら、牛若丸の前に立ち塞がった弁慶のようだ。
「それよりも範三、これを」
「それは……?」
唐突に、しゃもじ殿は手にしていた刀を差し出した。
黒く染まった柄と鞘。鍔は些か小さめで、過度な装飾は無い。あくまでも刀としての機能を優先し、それ以外の無駄な要素を徹底して削ぎ落したかのような、無駄のない美しさがある。
それを受け取り、そっと刀身を鞘から引き抜いた。
白銀の刃は波打つ事無く、凪いだ海の如く穏やかだ。しかしその発する煌めきは刃物としての質感そのもので、指先を這わせるだけで切り刻まれてしまいそうな威圧感がある。
「満鉄刀よ」
「満鉄……刀?」
「寒冷地でも破損する事のない丈夫な刀よ。ノヴォシアは寒冷地だから向いてるかなって持ってきたんだけど……それ、貴方にあげるわ」
「しかしそんな大切なものを……」
「いいのよ。それに、そんな折れた刀で倒せる相手じゃあないでしょう?」
視線を落とし、折れた刀を見つめるしゃもじ殿。
父上がマガツノヅチに立ち向かい、吹き飛ばされた際に手にしていた大太刀だ。ここまで折れることなく、最後はあの龍の眉間に一矢報いるまでに至ったのは、きっと父上の最後の遺志だったに違いない。
ありがとう、父上。
彼女から満鉄刀を受け取り、鞘を腰に差した。代わりに折れた刀をしゃもじ殿に渡し、受け取った満鉄刀の刀身を眺める。
―――良い刀だ。
これまで多くの刀を目にしてきたが、これはよく斬れる―――そんな確信があった。
「……かたじけない」
「勝ちなさいよ」
「承知した」
背後から、獣に似た唸り声がする。
振り向かなくとも分かる―――魔物たちだ。某とマガツノヅチの血に誘われ、ついにここにまでやってきたか。
「背中は任せて」
「……頼む」
折れた某の刀をどこかへと仕舞い、代わりに鉄砲を構えるしゃもじ殿。
受け取った満鉄刀を構え、マガツノヅチを睨んだ。
「―――市村範三、推して参る」
「ご主人様、ご無事ですか」
「……ああ」
燃料切れで動かなくなった機甲鎧のコクピットを解放、右肩に腰掛けながら廃村の中心部―――範三たちが戦っている方角を眺めていた俺に、傍らへとやってきたクラリスが声をかけてくれた。
彼女の身に纏ういつものメイド服は血まみれだ。もちろん彼女の出血ではなく、ここに至るまでに仕留めた魔物たちのものだろう。ありゃあ洗濯が大変そうだ。ノンナに怒られるかも……などと考えつつ、もう一度マガツノヅチの方を見る。
しゃもじの奴、やっぱりタンクローリーを返してくれなかった。
あんにゃろう、タンクローリーにC4を親の仇みたいにペタペタと張り付けて、ガソリン込みで特攻をしかけやがった。さっきの爆発はそれらしく、炎属性に耐性がある筈のマガツノヅチの腹に、それはそれは大きな焦げ痕が刻まれている。
「よく見ておけよ、クラリス」
「はい」
「あれが侍の覚悟……俺たちには持ち得ぬものだ」
―――特に俺がな。
俺には範三のような覚悟は無い。一度何かを奪われ、絶望のどん底に突き落とされてみれば生まれるかもしれないが―――何かを対価にしてそれまで手にしよう、という強欲さは持ち合わせてはいない。
範三を突き動かしているのは、そういう類の覚悟なのだろう。
全てを奪われ、どん底へと突き落とされた彼は、そこから這い上がるべく力をつけた。全ては自分から全てを奪った相手、マガツノヅチ討伐のために。
その覚悟を、ぜひ見てみたい。
彼の持つそれは、俺には無いものだから。
目の前に構えた満鉄刀の刀身が、吐いた息で白く濁った。
周囲の大地は未だに燃えている。閻魔大王の裁きを受け、地獄へと落とされた罪人を焼き尽くす焔の如く。
煌々と輝く火の粉が、周囲を蛍のように舞った。
全ての音は聞こえない―――聞こえてくるのは、某の鼓動と息遣いのみ。周囲の廃村が燃える音も、しゃもじ殿が魔物たちを屠る戦の音も、全てが五感から締め出される。
燻る大地を蹴った。
まだこんな力が出せたのか、と自分でも驚いた。出血が過ぎ、今にも倒れそうだった某の身体。なかなかいう事を聞かない身体を衣のように脱ぎ捨て、魂だけにでもなったかのような身軽さに驚くが、しかし血まみれの手に感じる暖かさに、その驚きもすぐ鳴りを潜めた。
満鉄刀を握る某の手を、誰かの手がぎゅっと握ってくれていた。
母上だ。
父上だ。
兄上や薩摩の師範、兄弟子たちだ。
散っていった皆が、某と共に戦ってくれている。
某は1人で戦っているわけではなかったのだと、今の今になってやっと気付いた。
『ギュアァァァァァァァァァ!!』
苦しそうな咆哮を発しつつ、氷の槍を生み出すマガツノヅチ。致命傷を受けて向こうも覚悟を決めたのだろう、生命維持に必要な魔力まで動員したのか、今までに見た事のない大量の氷の槍を周囲に展開している。
その威圧感は、長篠で武田の騎馬隊を破ったという織田の鉄砲隊を思わせた。
相手がその命を捨てる覚悟を決めてまでかかってくるのだ―――ならば全力で、これを斬り捨てる事こそ武人としての礼儀であろう。
いざ勝負、と腹を括るや、それを見透かしたかの如くマガツノヅチは氷の槍を一斉に投げ放った。ごう、と空気を切り裂く音が前方から迫り、某のすぐ脇を、頭上を突き抜けていく。
―――見える。
どこに攻撃が飛来して、どこに落ちるのかが。
どう避ければいいのかが。
炎の中に落ちた氷の槍が爆ぜ、破片が某の左肩を射抜いた。満鉄刀を握る手から力が完全に抜け―――力どころではない。左肩が発する痛みすらも感じなくなった。
感覚が完全に死んだ左腕が、だらりと刀の柄から垂れ落ちる。
関係ない、まだ右腕がある。
半壊した廃屋の上に飛び乗り、そのまま屋根の上を駆けた。穴の開いた屋根を飛び越え、納屋の屋根に飛び移り、マガツノヅチの傍らにある風車を目指す。
性懲りもなく、マガツノヅチは炎の雨を吐き出した。小魚の群れを投げ網で一網打尽にするかの如く、広範囲を攻撃し一気に殲滅しようという腹積もりなのであろうが、そうはいかない。
降り注ぐ紅蓮の礫を満鉄刀で弾き飛ばし、熱波を浴びながらも先へと進んだ。
くるりと刀を逆手持ちにし、風車の壁面へと飛びかかる。煉瓦造りのその隙間に満鉄刀を突き入れて壁面をよじ登るや、回転を止めて久しい羽の隙間から、こちらを睨み上げるマガツノヅチへ真上から襲い掛かった。
あの脳天に、この刀を突き入れられればいい。それで勝負が決まる。
その首貰い受けた、と心の中で叫んだ次の瞬間だった。
ドズッ、と嫌な音―――肉に牙を突き立てるかのような音と共に、右肩が千切れそうになるほどの痛みが脳天へと達してくる。
視界の右端に、白く濁る塊があった。ニンニクのような悪臭を発するそれは、見間違えようが無い―――マガツノヅチの発してくる、あの氷の槍であった。
何のこれしき、と気持ちでは思っても、しかし身体が追い付いて来ない。左腕がそうなったように、右腕からも力が抜け、感覚が死んでいく。しっかりしろ、動け、とどれだけ頭が念じても、右腕はもうその声には応えない。
するり、と右手から満鉄刀が抜け落ちそうになった。
握り直そうにも、手が言う事を聞かない。
何という事だ、ここまでか。
これでは潔く、腹を切る事も出来ぬではないか……。
―――本当にそうか?
カッ、と目を見開いた。
腕が使えないだけで何だというのか。
まだこの身体は死んではいない―――魂までは滅んではいない。
某はまだ、戦える。
身体の中で何かが燃え広がると同時に、手から零れ落ちた満鉄刀の柄を、口でがっちりと咥えた。
まだ戦える、まだいける―――諦めるには早すぎる。
諦めとは、どれだけ考えを巡らせても策が思いつかぬ時に選ぶ事―――いや、それですらも誤りだ。
諦めとは、自ら敗北を選ぶことに他ならない。
命ある限り、生きている限り、戦には負けていないのだ。
ならば戦う他あるまい。どんなに策が尽き、刀が折れ、身体がボロボロであったとしても。
『ピギィィィィィィィィィィ!!』
「ぬぅぅぅぅぅぅぅぅぅあぁぁぁぁぁぁっ!!」
これが最期と言わんばかりに、大量の氷の槍を投げ放つマガツノヅチ。
大小さまざまな大きさの槍が、某の腹に、足に、肩口に深々と突き刺さった。さながら義経を守るべく、無数の矢に射抜かれて力尽きた弁慶の如く、身体中に氷の槍が突き立てられる。
意識が途切れそうになる。
もはや、痛みすら感じなくなる。
しかし―――三途の川は、今だ見えなかった。
代わりに光が見えた。
光の中で、微笑む皆の姿が。
死んでいった父上や母上、兄上たちの姿が。
口に咥えた刀が、何かを斬り付ける感触は確かに感じた。
朧げな視界の中、花弁の如く紅く舞い散る飛沫と、もだえ苦しむ黄土色の龍の姿が見える。
ドッ、と強い衝撃を受け、某は地面を転がった。
ああ、土の匂いだ。
不規則になった呼吸の中、視線をマガツノヅチの方へと向けた。
「お……おぉ……」
マガツノヅチの脳天から、腹に至るまで―――そこに大きく、紅い傷が刻まれていた。
某がやったのだと……最後の力を振り絞った甲斐があった、と満足している目の前で、マガツノヅチは暴れに暴れた。断たれた尻尾で廃屋を薙ぎ倒し、納屋を背で押し潰し、頭突きで風車を突き崩す。
まるでその痛みからの救いを天に求めるかのように、退化しかけの前足を空へと伸ばす。
しかし天は、何も応えなかった。
自分は見放された―――それを悟ったのか、マガツノヅチの目から光が消えた。
ずずん、と重々しい音を立て、炎の海へと落ちていくマガツノヅチ。
刀を咥える力もなくなった某の目の前には、蒼い空があった。
―――日の出だ。
山の向こうから顔を出した太陽が、空を、大地を、全てを照らし出している。
「は……はは……」
やりましたぞ、父上、母上。
皆の仇は……やっと、やっと……。
その思考を最後に、某の意識は途切れた。




