分析
懐かしい風景だ。
暖かい風の中で揺れる稲穂は、さながら緑色の絨毯のよう。きっとそれはふわふわで、寝転がる事が出来たならば熟睡できるのではあるまいか―――幼少の頃はよくそんな事を考えていたものだが、近所の百姓の手伝いで田植えをするようになってからはそんな考えは消え失せた。
膝の辺りまで泥だらけになって、蛭に血を吸われ、兄たちのいたずらで泥だらけになりながらも手伝った百姓たちの田植えや収穫。だからこの緑の大地は、範三の脳裏にもっとも強く焼き付いた故郷の風景でもあった。
―――だからこそ、それを根こそぎ破壊したマガツノヅチを彼は憎悪する。
いつの間にか、目の前に幼き日の自分の後ろ姿と、地面に横たわった傷だらけの母の姿があった。
マガツノヅチの攻撃を受け、身体中に木片が突き刺さって血まみれになった母。その命の灯は今にも消えそうで、そうはさせまいと幼き日の自分が必死に身体を揺すっている。こうして呼びかけていれば、母の魂は現世に留まってくれる。まだ黄泉の国に逝くには早い―――目に涙を浮かべながら必死に母を呼ぶ自分の姿は、あまりにも痛々しかった。
実際、この時は自分でも理解していた。
母はもう助からぬ、と。
これが今生の別れである、と。
視線を空へと向けた。
もう、どこにもあの稲穂に満ちた美しい故郷の風景は無い。あるのはただ、根こそぎ焼き尽くされ、破壊され、赤々と燃え盛る、さながら地獄のような風景に様変わりしたかつての故郷だけだ。
火の粉舞う空を、三日月を背景に舞う1体の龍。
それが全てを奪っていった。
母の命を、父の命を、兄たちの命を―――全てを。
あの顔、あの姿、一度たりとも忘れたことはない。
マガツノヅチ―――倭国を離れ、遥か北のノヴォシアの地で相見える事となろうとは。
ここが自らの死地となるならば、それも良い。血飛沫舞う死闘の果てに、異国の大地に骨をうずめるのもまた一興であろう。
だがしかし―――自分1人で死ぬつもりはない。
赤く、暗い地獄への旅路―――煉獄の地への旅路には、道連れが欲しいところである。
腕を組んだまま、範三は夜空を見上げた。
幼少の頃、あんなにも遠くに見えた忌むべき龍の姿。
今はもう、こんなに近くにいる。
「ん……」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
はて、某は何をしていたか―――矢の如く頭の中を突き抜けていったずきりという痛みに、酒酔いの名残を見て、何があったのかを思い出す。
久しぶりの蕎麦の味を堪能し、パヴェル殿が拵えてくれた翻訳装置とかいうからくりのおかげで、皆の話すノヴォシアの言葉が分かるようになった。言語の壁が消え、意思疎通が容易となった事でつい喋り過ぎてしまったらしい。
そこにパヴェル殿がノヴォシアの酒を持ってきたものだから、そこで飲み比べというか、酒飲み対決のようなものが始まって、2人仲良く酔いつぶれて……。
「んー……シズルちゃーん……ぱぱでちゅよ~……」
寝言だろうか。
向かいの席で、酔いつぶれてもなおノヴォシアの酒(”うぉっか”というらしい)の瓶を手放す気配のないパヴェル殿。酔いが回って眠りに落ち、家族の夢でも見ているようだ。
このまま寝かせておこう、と席を立とうとすると、目の前に湯呑み(なぜか”はらしょー”と平仮名で書いてある)が置かれた。
「飲み過ぎよ」
「おお、雪船殿」
「”しゃもじ”って呼んで。皆にそう呼ばれてるから」
「う、うむ……しゃもじ殿」
なぜしゃもじ?
分からん、名前の由来が分からん。
だって倭国で一緒に剣術の稽古をしていた頃は普通に”雪船殿”で許してくれていたではあるまいか。朝から日が沈み、寺の鐘が鳴るまで鍛錬用の木刀でボッコボコにし合った仲ではないか。
まあよい、と湯呑みを手に取った。ひんやりと冷たいそれの中身はどうやら水のようだ。それでとっとと酔いを醒ませ、という雪ふ……。
「しゃもじ」
……しゃもじ殿の粋な計らいなのだろう。
倭国にいた頃から常々思うのだが、何故彼女は某の心の中を当たり前のように読んでくるのか? 顔に出やすいのか、それとも雪……しゃもじ殿(むう、慣れぬ)が他者の心を読み、暴く類の妖術でも身に着けているからなのか。
酔いつぶれ、食堂車の食卓に突っ伏して眠っているパヴェル殿の身体をぐいぐいと窓際へ押していくしゃもじ殿。エゾのヒグマのような体格のパヴェル殿があっさりと窓際へと追いやられ、座る場所を確保したしゃもじ殿は、某の向かいに腰を下ろすと、手にしていた湯呑みを口へと運んだ。
「んぁ……きょうはサクヤのけっこんきねんび……zzz」
すっかり窓際へと追いやられ、寝言(多分奥方の夢でも見ているのだろう)を漏らすパヴェル殿。何だろう、ヒグマみたいな体躯の彼だが、なんだか今はこれ以上ないほど小さく見える。
「……範三、あなたまだあの龍を追っていたのね」
「いかにも」
何を言い出すかと思えば、そんな事か。
こういう話は何度も繰り返した。初めて出会った時も、そして修行のため身を寄せていた薩摩でも、だ。
「採石場の飛竜、ガノンバルドの死体を見た時に分かったわ。この飛竜を屠ったのはあなただ、って」
「ふっ、見破られておったか」
「飛竜相手にあんな傷を与えられるの、あなたくらいしかいないもの」
まったく、よく見ておられる。
雪……しゃもじ殿とは何度も手合わせをしたが、ついに決着がつく事は無かった。朝日が昇り、夕日が沈み、寺の鐘が遠くまで響くまで木刀で打ち合ってもなお、互いに一歩も譲らない戦いであった。
彼女の剣術は実に素晴らしい。流麗で、優美で、それでいて力強い。技と力が合わさった、実に非の打ち所がない剣術―――それでいてまだまだ伸びしろがある、と薩摩式剣術の師範に評される程で、雪船殿も向上心の塊のような女子だ。
「しゃもじ」
「アッハイ」
むう、慣れん!
「まあ、貴方の復讐を止める権利なんて私にはない……でも、ちょっともったいないなって」
「もったいない?」
「ええ」
湯呑みに入った水を一気に飲み干し、しゃも……雪ふ……いやしゃもじ殿(いかん相当混乱している)は寂しそうに言った。
「貴方ほどの剣豪が、復讐と引き換えに命を落とすなんて……ねえ、そうでしょう? 戦場での死こそ武士にとっての最高の栄誉だって事は分かるわ。でも、貴方の身に着けたその剣術を、貴方一代で潰えさせてしまう事になるわよ、それだと」
「……しゃもじ殿」
「なあに」
「お主ほどの剣術の使い手に限って、死が怖いなどという事はあるまい」
「いやフツーに怖いわよ」
「即答」
言うまでもあるまい、とでも言いたげな顔で即答するしゃもじ殿。正直、意外な返答であった。彼女の事だ、いつでも命を捨てる覚悟はできているものだと……ゆえに冒険者などという死と隣り合わせの道を選んだのではないのか?
「死ほど怖いものはないわ。私だって人の子ですもの、死からは逃れられない」
「ならばなぜ―――」
「逃れられないからこそ、”全力で生きよう”って思えるの」
「……」
全力で……。
全力で……生きる……?
「貴方の復讐を止めるつもりはない。でもね、刺し違えるんじゃなくて、キッチリ仇取ってから全力で生きるってのも悪くないと思うわ」
そう言ってから、しゃもじ殿は席を立った。
湯呑みを厨房の流し台に置き、そのまま客車の方へと歩いていく。
全力で生きる……。
人生50年、と倭国の武将も言い残していた。
某に、復讐を誓った某に、そのような生き方が今更赦されようか……?
もはや某に雪船殿のような生き方は……。
後戻りは出来ぬのだ、と思い詰めていると、ガラッ、と食堂車の扉が開いた。
向こうに立っているのは、やけに恐ろしい笑みを浮かべた雪……しゃもじ殿。
「……しゃもじ」
「アッハイ」
薄暗い部屋の中に、血盟旅団のエンブレム(剣を咥えた飛竜のイラスト)が、翼を広げて飛び立とうとするアニメーションが再生された。
映し出されているのはテレビでもPCの画面でも、壁面のスクリーンでもない。1号車の1階、その3分の1を占有するほど大きなテーブルに埋め込まれた、立体映像投影装置が生み出したものだ。
しばらく読み込みが行われてから、PCのデスクトップ画面が表示される。テーブルの反対側でノートパソコン(あれパヴェルのお手製らしい)を操作していたパヴェルが、マウスを移動させてとある動画ファイルをダブルクリックする様子を、おもちと範三、それからしゃもじがなかなか興味深いリアクションをしている。
SFチックな立体映像に目を輝かせるしゃもじと、ネコ科の動物っぽく(ホッキョクギツネだよね?)マウスを目で追うおもち。そして生まれて初めて立体映像を目にしたらしく、これは何かの妖術かと刀に手を近づけて臨戦態勢に入る範三。リアクションに性格が現れていて、見ててちょっと面白い。
やがて動画ファイルが再生され始めた。映っているのはもちろん……黄土色の鱗で全身を覆われた、マガツノヅチの巨体だった。
パヴェルが放った監視用ドローンからの映像なのだろう。ノイズ交じりの映像には、地上を爆撃するマガツノヅチの姿が映っている。
「8時間前、ピャンスク郊外から平原までをパトロールしていた憲兵隊が消息を絶ったというニュースが発表された。そしてこの映像は12時間前。おそらくだが、憲兵隊はこのマガツノヅチによる襲撃を受けて全滅したものと思われる」
ソ連軍の将校用コートっぽい上着を羽織り、頭に赤いベレー帽を乗せたパヴェルが、いつもとは思えぬほど真面目な口調で説明を始めた。
「映像から色々と分析したが、マガツノヅチの全長は推定で333m。やはり翼らしき部位はない」
「どーやって飛んでるんだよコイツ……」
映像を見ながら呟くと、パヴェルがこっちに視線を向けた。
「実はお前らがシャワー浴びてる間、お前らの服を調べさせてもらった。
「!?」
「パヴェルさんそんな趣味が……」
「破廉恥ですよっ」
「うわ最悪……」
「アイヤー……」
「殺すわよ」
「話聞いてお願いだから」
俺、クラリス、シスター・イルゼ、モニカ、リーファ、そしてついにはしゃもじからの死刑宣告。集中砲火を浴びたパヴェルが調子を狂わされながらも弁明を始める。
「撤退する時、変な臭いのする氷を放ってきたって言ったな、ミカ」
「ああ、メタンハイドレートみたいな……」
燃える氷、メタンハイドレート。
その正体は可燃性のガスなのだという。どういう原理でそうなったのか、ミカエル君はあまり詳しくないから知らない。知りたい人は学校の授業を真面目に受けるか、お手元のスマホで検索するなり何なりして欲しい。
とにかく、マガツノヅチはそれに似た物体を投下してきた。そしてそれにブレスを放ち着火、即席のサーモバリック爆弾(爆発の衝撃波で殺傷するやべえ爆弾)として地上を蹂躙するという、恐ろしい龍である。
自然界にそんな生物が居る事がまず驚きだが……。
「そう、メタンハイドレート……同一のものではないが、お前らの服に付着した成分から、マガツノヅチが投下してくる氷は【未知の可燃性ガス】である事が判明した」
「未知の可燃性ガス?」
あの硫黄ともメタンとも言えない、異臭を放つ氷―――あれが可燃性のガスだって?
「化学式とかそういうのはまだ解析中だから分からんが、とにかくちょっとした火種でも燃焼するやべえガスだ。更に比重が空気より軽い」
比重が空気よりも軽いということは、空気中に放出されたガスは上へ上へと浮かぼうとする。建物の中であれば、それは天井付近に滞留することになる。
ははーん、なるほど。なんか読めてきたぞ。
なぜマガツノヅチが翼を持たないというのに、あんなに自由に空を舞う事ができるのか。
「つまりはそのガスを浮力として利用しているのか」
「その通り、さすがミカ」
やっぱりそうだ。
未知の可燃ガス―――小さな火種でも瞬く間に燃焼する危険物だが、空気よりも比重が軽いそれは、全長333mもの巨体を浮かせる魔法のガスというわけだ。飛行船と同じ原理を使って飛んでいる、というわけか。
浮力はそうだとして、推力をどうやって得ているのかは謎だが……おそらく、身体のどこかにガスか空気を噴射する器官があるのか、それとも気流に乗って移動しているのかは分からない。
「そのガスがどれだけの浮力を与えるのかは分からないけれど、333mもの巨体となれば防御自体はそれほどでもなさそうね」
腕を組みながら画面を睨んでいたしゃもじの言う通り、確かにその通りなのかもしれない。空を飛ぶ生物や飛行機にとって、重量とは特にシビアにならなければならない分野だからだ。重すぎて飛べません、では話にならない。
巨体で、その巨体にガスを生成し移動にも攻撃にも転用できる器官と生命維持に必要な臓器を詰め込んだとなれば、そのしわ寄せは当然ながら防御に行き着くのが道理だ。
実際、撤退直前の範三が放った斬撃を受け、浅い一撃ではあったもののマガツノヅチの身体に傷がついたのは確認している。少なくとも、防御力そのものは大したことはないだろう(それでも小銃弾では威力不足だろうが)。
「問題は機動性とあの爆撃ですわね」
「それだけじゃないわよクラリス。コイツ、地味に飛行してる高度が通常の飛竜より高くない?」
モニカがそう判断した根拠は、映像の後半だった。
憲兵隊を爆撃で殲滅した後、マガツノヅチは咆哮を発してから空へと舞い上がり―――雲の上へと消えていったのである。
通常の飛竜(ここでいう通常の飛竜はズミールである)であれば、せいぜい雲の下を飛ぶのが精一杯。中には雲の中へ隠れる事が出来る個体もいるが、それほど高高度までは上がれない、というのが飛竜の常識である。
マガツノヅチは、それを軽々と覆しているのだ。
「範三の”マガツノヅチは雲を好む”という証言にも何か関連性があるかもしれん。そこは引き続き解析するが……」
「コイツ相手に投入するべき兵器は決まったようなものだな」
腕を組みながらパヴェルの方を見ると、彼はウインクを返してきた。
どうやら俺らの思考回路は、同じ結論に行き着いたようだ。




