災厄、極東より来たる
市街地の外周部のパトロールほど、生きた心地のしない任務は無い。
それほど性能が良いわけでもない車のサスペンションは地面から伝わる振動をほぼそのまま伝えてくるものだから、先ほどから助手席に押し付けている尻に蓄積された痛みと言ったら、幼少の頃に母に叩かれた時に匹敵するほどだ。
ベラシア憲兵隊に所属するエヴノ・モルコフ伍長は幼少の頃を思い出し、痛みに堪えながらも苦笑いを浮かべた。あれはまだ自分が5歳、弟が3歳の頃だったか。近所の家の庭に伸びるリンゴの木によじ登り、実ったばかりのリンゴを全部盗んで帰ってきた事があった。それを知った母の剣幕たるや、逆鱗に触れられた飛竜そのもので、その日のうちにリンゴを返しに行く羽目になった。
もちろん帰宅した後には、母にこれでもかというほど尻を叩かれた。兄弟そろって尻を赤くしながら泣いていたあの頃も、今となってはいい思い出である。
口からあくびを漏らし、カーラジオのチャンネルを回した。どの局もノイズばかりで、唯一聴こえてきた局の音楽も、どこだか分からぬ異国の音楽だ。陽気な曲調で、しかしそれを歌い上げる男性歌手の歌声にはどこか寂し気な雰囲気がある。
南米の方の曲だろうか。
「そーいやグール、お前んとこの妹結婚するんだってな」
「あ、知ってました?」
「おいおい、俺を誰だと思ってやがんだ? こう見えても情報通なんだよ俺はよ」
運転席でハンドルを握るアンドレイ・グール兵長は少し恥ずかしそうに頭を掻きながら笑みを浮かべた。彼から直接言われはしなかったが、既に部隊内部ではその噂でもちきりだ。中には結婚式の余興を真面目に考え始める隊員までいる始末である。
ベラシア地方では、人々は常に魔物や飛竜の脅威に晒されている。だから集落や村での住民の団結力は極めて固く、村や集落全体が1つの家族とまで言われる程だ。
だから同郷出身のグールの事も、モルコフはよく知っている。昔は鼻水を垂らしながら畑仕事の手伝いをサボり、よく蝶々を追いかけ回していた陽気な少年だ。そんな男が今では妻子持ち、更に1つ年下の妹も結婚が決まっている。
人間、どうなるか分からないものだ。
こういった他愛のない雑談も、パトロール中では数少ない楽しみである。いつどこから魔物が襲ってくるか分からない緊張感の中、こうでもしなければやってられない。一種のガス抜きであり、極度の緊張感の中で発狂してしまわないための知恵でもある。
雑談と音楽は欠かせない―――3年先に入隊した先輩の言葉は、まさにその通りだと言えた。
雑談に花を咲かせる一方で、ハンドルを握るグールも、そして助手席に座るモルコフも周辺への警戒を怠らない。銃身を切り詰めたカービン銃はその気になればいつでも発砲できるし、パトロール隊の車列も厳戒態勢を維持している。
彼らが乗るセダンは憲兵隊仕様のものだ。簡易的な軽装甲を搭載し、後部座席のルーフをくり抜いて、手回し式のガトリング砲を搭載した軍用モデルである。銃座には既に他の部下がついており、時折周囲を見渡しては魔物が居ないか索敵を繰り返していた。
セダンの後方には、巨大なカマキリを思わせる戦闘人形が続く。グレーの塗装に、ベラシア憲兵隊所属を意味するオレンジのラインが描かれており、それはさながら自然界における警告色を思わせた。
大型のブレードで武装した”機械のカマキリ”ともいうべきそれの後方を、モルコフたちの乗るセダンと同様の装備の車両がもう1両走行している。
居住地外周部のパトロール隊の一般的な編成だ。
「あ、折り返し地点です」
「よーし、ピャンスクに戻ろうか」
「了解です。そーいや今日、駅前の露店のドラニキ半額セールやってますよ」
「おーマジか。んじゃあ勤務終わったら行こうぜ、奢るから」
「あざす先輩!」
グールがゆっくりとハンドルを切り、セダンをピャンスク方面へと向ける。箱型の車体に流線型のシャーシを持つレトロなセダンが方向転換を始めたのを見て、後続の戦闘人形も、そして最後尾の守りを固めるセダンもそれに続く。
今日もレポートには『特記事項ナシ』と記載される事になるだろう。例のガノンバルド襲撃の後、ピャンスク周辺は驚くほど平和な日々が続いている。ガノンバルドが周辺の魔物をあらかた喰い尽くしてしまったからか、それとも冒険者や憲兵たちの日頃の努力の賜物か……いずれにせよ、久しぶりに勝ち取った平穏だ。謳歌しない手はないだろう。
半額のドラニキとベラシア料理、そして安酒に酔う夜があってもいい筈だ。明日から彼らの班は休暇なのだから、多少は羽目を外しても許されるはずである。
異国の歌を口ずさみ始めると、バンバン、とセダンのルーフを乱暴に叩く音がそれを遮った。
ルーフに備え付けられたガトリング砲の銃座で周辺警戒を行っていたシャガールだ。
「どうした!?」
「伍長、11時方向の空に何か見えます!」
「何?」
11時方向―――進行方向から見てやや左だ。
ハンドルを回して助手席の窓を開け、空を見上げた。
「……なんだアイツは」
鈍色の空の中に―――”それ”は存在した。
蛇のように長大な身体をしならせ、さながら空を泳ぐように舞う異様な生物。空を飛ぶという事は翼を持つのが道理だが、しかしその生物に翼らしき部位はない。胸板の部分が左右に膨らむかのように張り出しているが、その部位で揚力を得ているとは考えにくい。
いったいどんな原理で空を飛んでいるのか、見当もつかない。
後部座席へと手を伸ばし、ラッパのようなストロボの付いたカメラを手に取った。電源を入れてカメラを空へと向け、モルコフは連続でシャッターを切る。
完全な新種だ―――あるいは外来種なのか。いずれにせよ、今までのベラシア憲兵隊の記録を見る限りでは、あのような種類の飛竜(そもそも飛竜であるのかも怪しい)との交戦事例はおろか、遭遇事例すら存在しない。
これは記録し報告しなければ、と憲兵としての使命感が身体を突き動かす。
しかしストロボの光が仇になったのか―――最大望遠のカメラ越しに、その正体不明生物とモルコフの目が合った。
「ひっ……」
爬虫類の、それこそ蛇のような形状の瞳。
さながらイライナ産の紅茶のように紅い瞳が爛々と輝く。そこから読み取れる感情はただ一つ―――”怒り”であった。
「伍長、撃ちますか!?」
「この戦力では勝てん! 最寄りの観測所まで撤退を―――」
視界の端で何かが光った。
日の光を反射しながら、凄まじい速度で投下された謎の物体―――言葉を途切れさせ、あれはなんだ、と口にしようとしたモルコフだったが、次の瞬間には鼻腔いっぱいに充満する可燃性ガスのような異臭と凄まじい衝撃、そして何かが潰れるような音に打ちのめされる事となった。
車内に何度も頭をぶつけながら彼が目にしたのは―――ボンネットに突き刺さる、氷のような物体。
巨大な氷柱にも見えるが、しかしよく冬場に建物の屋根の縁で目にするような氷柱と比較すると、それは真っ白に白濁している。氷というよりは雪を濡らして冷やし固めたようにも見えるが、何よりも異様なのはその物体が発する異臭だった。
メタンのような、あるいはニンニクに似た悪臭(アセチレンガスの特徴でもある)。氷からこんな臭いがするものかと思った頃には、ボンネットに深々と突き刺さったそれ目掛けて、はるか上空の飛竜が炎を吐き出した。
通常の飛竜のブレスとは違う―――炎を”放射”するのではない。何か、赤々と燃え盛る可燃物を散弾のようにばら撒いているような、一風変わったブレスだった。
さながら炎の雨のようなブレスだ。
「グール、シャガール、車を捨てろ!」
既にセダンはエンジンブロックを貫通されている。グールは必死にアクセルを踏み、ブレスを喰らうまいとハンドルを切っているが、車は慣性で辛うじて走っているに過ぎない。いつ爆発するか分からない車に部下を乗せておくわけにもいかず、モルコフは人命を第一に考え退避を命じた。
しかし―――それは叶わなかった。
落下してくる炎の雨が、突き刺さった氷柱に接近したその時―――彼らの視界を、純白の閃光が包み込んだ。
網膜を焼き尽くす猛烈な閃光、聴覚を殺すに十分な爆音。周囲の酸素を一瞬にして奪い去り、爆発的な勢いで燃焼したそれが、3人の身体を呑み込み、砕き、焼き尽くしたのは、僅か1秒足らずの事だった。
「はーい今夜は蕎麦ですよー」
「わーい」
「そ、SOBA?」
鰹節で出汁を取った汁の香りに、湯気の中に佇む灰色の細長い蕎麦。その上にはゆで卵とかまぼこがあり、ネギも散らしてある。
意外かもしれないが、ノヴォシアやイライナ、ベラシアでは蕎麦自体は珍しいものではない。正確にいうと蕎麦の実が、だが。
というのも、ノヴォシア帝国では収穫した蕎麦の実を水や牛乳で茹で、塩とバターで味付けをして食べる”カーシャ”というお粥がメジャーな料理だったりする。農民や労働者の朝食だ。ミカエル君も小さい頃はよく朝食に食べたものである。
そういう食文化もあって、ノヴォシアでは蕎麦の実の栽培が盛んなのだ。
ちなみに前世の世界のロシアやウクライナでも同様である。
だからノヴォシア人からすれば蕎麦の実=お粥の材料、というイメージが根強い。だから朝食で最もポピュラーなカーシャの材料が、こうして細長い麺に生まれ変わった姿は、日本人や文化が同じ倭国人かすれば故郷の味だろうが、生粋のノヴォシア人からすれば異質なものとして映るのも当たり前である。
「な、なにこれ? ラーメン的なやつ?」
「アイヤー……変わったの出てきたネ」
困惑するモニカとリーファ。しかしそんな2人とは対照的に、しゃもじは目を輝かせながら箸を手に取っていた。
「あら、まさかノヴォシアで蕎麦が食べられるなんてね」
「蕎麦の実自体は簡単に手に入るんだが、出汁に使う鰹節の入手には手を焼いたよ」
早くも蕎麦をすするおもちの隣で、範三も意外なものがでてきたと言わんばかりの顔で箸を手に取った。そのまま手を合わせてから蕎麦を口へと運び、目を見開く。
「……信じられぬ。甲斐の国で食した蕎麦の味だ」
「どーよ」
ふふん、と胸を張るパヴェル。本当にコイツ何でも作れるよな、と思いながら俺も蕎麦を勢いよく啜った。
口の中に広がる蕎麦の風味。汁は少ししょっぱめなので、人によっては苦手かもしれない(おそらく運動して塩分を消費する事を前提に濃い目の味付けにしているのだろう)。
何の抵抗もなくずるずると蕎麦をすする倭国&日本勢。しかしお隣のテーブルで蕎麦を見下ろすノヴォシア勢はというと、随分と不慣れな手つきで蕎麦を口に運ぼうとしていた。
「ちょっと、これそうやって音立てて食べるものなの?」
「うむ、こうして食べるのが倭国流だぞモニカ殿」
ノヴォシア語で言うモニカに、流暢なノヴォシア語で返す範三。彼の両耳にはイヤーピースのような機械が取り付けられているのが見える。
パヴェルが突貫工事で製造した翻訳装置だ。倭国語とノヴォシア語に対応しているそうで、他の言語を翻訳するには別にデータをインストールしなければならないらしい。まあ、突貫工事なのだからそれは仕方ないが、そんな代物をスクラップから製造し、僅か30分でハードウェアとソフトウェアを完成させるパヴェルも相当おかしい(誉め言葉)。
ちゅるるー、と蕎麦を啜る音が隣から聞こえてくる。やはりクラリスもあんな豪快に蕎麦を啜るのには抵抗があるようだ。これは慣れ親しんだ文化が異なるから仕方がないところではある。
「あぁなにこれうっっっっま!!!(230dB)」
フラッシュバン投げ込まれた時に耳がキーンって鳴るアレ。唐突なモニカの魂の叫びに、いつも聞いている血盟旅団の面々はまあ平常運転だけど、事前情報のないしゃもじ、おもち、範三の3人は目を見開いたまま固まっていた。
ケモミミを両手で押さえながら身体を震わせるしゃもじ、ケモミミの先っぽまで毛を逆立たせてぶるぶる震えるおもち、そして白目を剥く範三。アレ大丈夫? 気絶してない? 範三? 範三さん?
そんなカオスな食堂車の一角で、パヴェルは先ほどから頻繁にスマホのような端末と、厨房にまで持ち込んだノートパソコンの画面をチェックしていた。俺が座っている場所からでも画面は見えるが、おそらくマガツノヅチ監視のために発進させたドローンからの映像だろう。
常時監視を怠らない―――そんな彼の姿勢から、かつての現役時代の姿が窺い知れる。
いずれにせよ、今は情報収集に徹しなければ。
図鑑にすら詳細な情報が載っていない、神話の時代の生物なのだ。対抗手段は対空兵器だろうが、あの燃える氷のような物体とブレスを組み合わせた爆撃はかなりの脅威となる。
間違いなく、ガノンバルド以上だろう。
今必要なのは、まず敵を知る事だ。




