石の擂り鉢の底で
ビリンスク採石場という名称の頭に”旧”の文字が冠され、擂り鉢状に掘り進められた大地が今日に至るまで打ち捨てられる事が決定したのは、今からおよそ30年前。このミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフという不貞の証が母の腹に宿るよりも遥かに前……それどころか母が生まれるよりも前の事だ。
よくもまあ、こんな魔物が跋扈する魔境に、それも人里離れた辺境にこんな採石場を作ろうとしたものだとつくづく思う。今ではもう繁栄の名残を見る事すら叶わないが、当時は騎士団や憲兵たちが厳重な防御態勢を敷いていて、作業員たちはその完全武装の防衛線の内側で石を切り出し、内陸部へと運んでいたのだという。
より強力な外来種の魔物の流入や警備の人手不足、そして何よりもベラシア地方が豊富な木材の使用に路線を変更したことによって無用の長物と化したこのビリンスク採石場は、労働者たちの汗と警備兵たちの流血の果てに、擂り鉢状に掘り進められた大地と多額の借金だけを残して閉鎖された……らしい。
今となっては人の気配はなく、騎士団の観測隊が定期的な偵察で立ち寄る程度。魔物が巣を作るには絶好の物件と言えるが、よりにもよって今の住民はあの征服竜ガノンバルド。対戦車兵器の全力投入でやっと互角に戦えたレベルの、本当の意味での”魔物”である。
擂り鉢状に掘り進められたクレーターのような大穴の縁で停車したヴェロキラプター6×6の助手席から、窓を開け外の様子を伺った。
穴の底には捨て置かれたままの設備があった。採掘された細かい石を大穴の外へと運び出すためのものなのだろう、ベルトコンベアらしきものがある。設備を降雨から保護するために設置されていたトタンのカバーは長年の放置によってすっかり錆び付き、場所によっては大穴が開いていて、中にある劣化して硬化したベルトコンベアが覗いている。
設備を動かすためのモーターも、そして故障したまま放置されたと思われるトラックも、小石の山も全てがそのまま放置され、すっかり風景の一部となっていた。
ここで切り出された石はいったい何に使われていたのだろうか。貴族の屋敷の建築資材として使われていたのだろうか……そう思いながら、その中でも最も注目すべき物体を見下ろし目を細める。
擂り鉢状の大穴の底、錆び付いて放置されたダンプカーの車列の隣に、黒曜石のような外殻で覆われた異物が……否、巨大な竜が居る。
身体の4割を占める程巨大な、発達した筋肉を内包した”剛腕”と呼ばれる前足に、後ろ足と変わらぬサイズの普通の前足。頭部はティラノサウルスのような形状をしていて、さながら大蛇のように長大な尻尾の先端部からは、杭のように発達した外殻(骨か?)が突き出ている。
頭部から尻尾の先端部までの長さは目測で80m以上(近くにダンプカーという比較対象があるから分かりやすい)。うつ伏せに倒れているそいつの後方には、その辺のスクラップやら岩石をかき集めて作ったと思われる鳥の巣のような物体があり、その中には灰色の殻で覆われた卵がいくつか転がっている。
ガノンバルドの雌とその卵だ。
だが……。
「様子がおかしいわね」
Ripsaw EV3-F4から降りて来たしゃもじが、ヴェロキラプター6×6の傍らで双眼鏡を覗き込みながら呟いた。
ガノンバルドの嗅覚は人間のそれよりも発達している。風向きの影響を受けやすいという欠点がある事から索敵手段としての安定性には欠けるが、しかしその探知可能範囲は軍用犬のそれを上回る。
しかも風向き的に、今は俺たちの方が風上にいる。
ガノンバルドの嗅覚であれば、とっくに外敵による縄張りへの侵入を察知し、迎撃行動に出ていてもおかしくない……というか、採石場が見える前にブレスで先制攻撃を受けていてもおかしくはない筈だ(それを警戒してしゃもじとは適度に距離を取って採石場へやってきた)。
だが、穴の底に横たわるガノンバルドに反応はない。
不審に思い、首に下げていた双眼鏡を覗き込んだ。
レティクルの向こうで横たわるガノンバルドに動きはない。呼吸している様子もなく、しかもよく見ると左の眼球からは夥しい量の出血の痕がある。周囲の地面にも血痕が生々しく残されており、ガノンバルドに動きが無いのを良い事に、巨大な飛竜の背中の上では鳥たちが外殻の隙間に嘴を突き入れては、動く事のない巨竜の肉を啄んでいる。
死んでるのか……?
双眼鏡から目を離し、しゃもじと目を合わせた。
ガノンバルドと戦える、と意気揚々とベラシアへやってきたしゃもじの顔には落胆の色が伺えたが、しかしそれ以上に何かを察したような表情がそこにはあった。
とにかく、最大の障害が死んでいるというならばあとはこちらのものだ。強敵と戦わずして済むならばありがたい話。卵を持ち帰るだけで168万ライブルもの大金が手に入る。5人で報酬を山分けし、その一部をギルドの運営資金として差し引かれたとしても、少なくとも小さめのバスタブをそれなりに満たせる程度の札束は手に入る。
しゃもじがRipsaw EV3-F4の運転席に戻るのを待ち、大穴の底へと螺旋状に通じる道を進んだ。穴の内側をぐるりと何周かして底へと辿り着くや、AK-19を手に外に出た。M-LOKハンドガードに変更されたそれをハンドストップと一緒に左側面から握るようにして構え、銃口をガノンバルドに向けたまま、慎重に距離を詰めていく。
撃っていいか、と視線をしゃもじに向けると、例のステンレス刀の柄に手をかけながらじりじりとガノンバルドに近寄っていったしゃもじが、うつ伏せになったまま動かないガノンバルドの外殻の隙間に、そのステンレス刀を突き立てた。
弾丸すら弾く外殻とは違い、動きを阻害しないために生じた防御上の空白。それはあっさりと刃を迎え入れ、ステンレス製の刀身が深く突き刺さっていく。
80m級の飛竜からすれば蚊に刺された程度、良くて蟻に噛まれた程度の痛みでしかないだろう。しかしそれでも無反応であるところを見ると、本当に死んでいるようだ。
《ミカ、潰れてる左の眼球を映せるか》
左肩の上にちょこんと乗せる形でマウントしている小型カメラの映像を見ているのだろう、パヴェルの声が無線から聞こえてきた。
言われた通りにでっけえ頭の左側面に移動し、カメラから左目がよく見える位置に立つ。
以前は戦闘中だったが、こうして動かないガノンバルドの姿をじっくり観察してみると、なるほど確かに化け物だ。人間なんぞ容易く噛み砕くであろう牙に、顎周りの異常に発達した筋肉。この咬合力がどれほどのものか想像したくもないが、おそらく鉄板や戦車の装甲程度ならば噛み千切ったり、そうでなくとも挟み潰すくらいの事はやってのけるだろう。
こんなバケモノが人類に牙を向くのだ、まったくこの世界は魔境である。
《……目を潰されただけじゃないな。この傷、おそらく脳まで達してる》
「死因はこれか」
AK-19をスリングに預け、足元に転がっていた錆だらけの鉄の棒を拾い上げた。二の腕くらいの長さのそれをそっと眼球に穿たれた傷口へ差し込んでみるが、思ったよりも抵抗はなく、鉄の棒は傷口の奥へ奥へとするする飲み込まれていく。
パヴェルの見立て通り、傷はかなり深い。傷そのものも圧倒的な運動エネルギーの塊で”撃ち抜かれた”というよりは、鋭利な刃物で刺し貫かれたように見える。凶器は刃物だろう。
「ご主人様、いかがいたしましょう?」
「とりあえず、卵を貰っていこう」
「かしこまりました。ではすぐに」
「ああ、頼む」
鉄の棒を足元に落とし、視線を巣の方に向けた。
ガノンバルドの卵は大きい。ちょっとしたドラム缶みたいなサイズの灰色の卵が4つ、いや5つか。石とスクラップを寄せ集めて作った巣の上に安置されている。
ひょい、とそれを軽々持ち上げるクラリスとリーファ。あの2人は筋力がおかしい。クラリスがおかしい事について議論の余地は無いが、リーファもなかなかのものである。
俺も手伝おうかなと思っていると、ガノンバルドの死体をまじまじと見つめていたしゃもじの姿が目に付いた。
「しゃもじ?」
「……」
「何見てるんだよ」
「見て、この傷」
彼女が注目しているのは、後ろ足の傷跡だった。
黒曜石みたいな外殻の隙間―――そこに正確に、刃物で切り裂いたような傷跡が刻まれているのである。
死因となった眼球の傷と同様にこれも深く、骨まで断ち切ったわけではなさそうだが、しかし筋肉繊維は確実に断っている事だろう。推測だが、後ろ足にこの傷を刻んでガノンバルドの動きを封じ、そこから頭部に回り込んで眼球諸共脳を串刺しにして仕留めた―――可能性としては、これが一番高い。
そんな事が出来そうな知り合いはアナスタシア姉さんくらいか。ジノヴィもなんやかんやで出来そうだが、あの2人は今頃イライナで多忙な毎日を送っている事だろう。今度手紙でも出すか。
「この傷、まさか」
「心当たりでも?」
顎に手を当てながら考えていたしゃもじは、傷口にそっと手を伸ばした。ぱっくりと開いた傷口に指を這わせ、血の付着した指先を見つめながら呟く。
『……まさか貴方なの、範三』
唐突に、倭国訛りのある標準ノヴォシア語から倭国語で呟いたしゃもじ。それは意図したものなのか、それともつい本来の母語が出てしまったのか……それはきっと彼女にしか分からない。
けれども、日本語とほぼ同一の言語だったものだから、その内容は俺にも理解できた。
範三―――聞き覚えのある名前だ。
あの時、冒険者管理局で出会った倭国出身の侍。
家族の仇である龍、マガツノヅチを倒すために異国の地へと降り立った孤高の剣士―――そう、ミカエル君の頭の中を過ったのは、あの時出会った秋田犬の獣人だった。
まさかとは思うが、アイツがガノンバルドを討伐したってのか? それも飛び道具ナシ、刀オンリーで? 更に単独で?
信じられない話だが、しかし彼の持っていた得物とこの傷跡は一応辻褄は合う。つまりはそういう事なのだろうが……。
『しゃもじ、範三を知っているのか?』
大事そうな話だったので、俺は日本語で彼女に問うた。
『ええ……知り合いよ。とはいっても、そこまで親しい中じゃなくて、外出先で知り合った程度だけど』
『外出先?』
『そうよ。私、実家が海産物問屋なんだけど、その関係で色んな所に行ったわ。それ以外にも武陽の魔法所にも通ってたし』
『その最中に彼と知り合った、と?』
『ええ。だから、彼の事情もよく知っている。それに互いの修行のため、何度か手合わせをした事があったわ』
『結果は?』
『いずれも引き分け。日が昇った時から、夕陽が沈んでお寺の鐘が鳴るまでずっと木刀で打ち合いしてたもの』
なんじゃそりゃ。朝から夕方までずっと手合わせしてたって?
オイオイ、いつから侍は狂戦士の代名詞になったんだ?
『共に汗を流し、技を磨き、木刀でボッコボコにし合った仲だから、この傷口を見るだけで分かる。このガノンバルドを屠ったのは間違いない、範三よ。彼、大きく踏み込んで深い傷を穿つ癖があったもの』
傷口1つで誰の仕業かまで分かるのもなかなか凄い話だ。
なるほど、という事は範三はこっちまで来ていたのか。ギルドの正式な依頼ではないだろうから、コイツを倒したところで報酬は出ないだろうが……マガツノヅチ討伐にしか興味がない彼からすればどうでも良い事なのかもしれない。
さて、俺たちも卵の運搬を手伝うかと思ったところで、ドラム缶みたいなサイズの卵を抱えて歩いていたおもちの耳がぴんと立った。
いつもの眠そうな雰囲気の中に、張りつめた鋭利な気配が混ざる。
その気配は、しゃもじも―――そして少し遅れ、俺も感じ取った。
殺気だ。
人間のような理性が発するものではない。獣が本能的に獲物を狙う時のような、もっと根源的な部分―――本能が発する殺気だ。
あまりにも剥き出しのそれを感じ取るや、俺は銃を、しゃもじは刀をそれぞれ手にしていた。
灰色に染まりつつある空の向こうから、鳥のような影が迫って来るのが分かる。
いや、鳥じゃない―――鳥にしてはあまりにも大き過ぎる。
「飛竜だ」
飛竜ズミール―――ノヴォシア原産の、帝国領内では最もポピュラーな飛竜である。
死んだガノンバルドの血の臭いに引き付けられたのだろう。大物を喰らおうと、よりにもよってこのタイミングで殺到してきたか。
数も1体ではない。5、6、7……10体以上はいる。
まったく、こういうことがあるから死体の処理は念入りに済ませるよう規定されているのだ。安全確保のために討伐した魔物の死体を放置して、その血の臭いで他の魔物を呼び寄せてしまったら本末転倒である。
次に範三に会ったらきっちり言っておこう、と思いつつ、ちらりと視線をしゃもじに向けた。
いけるか、と。
誰に聞いてるの、とでも言いたげな強気な視線が返ってきて、彼女を頼もしく思う。
「クラリス、リーファ、おもちの3人は卵の運搬を。奴らは俺たちが食い止める」
無線機に向かって指示を出し、AKの引き金を引いた。
採石場での戦いの火蓋が、切って落とされた。




