復讐者の剣戟
深淵にも似た夜闇に、白銀の光が降り注ぐ。
満月だ。太陽の光を受け、銀色の光を発する岩だらけのその表面には、月面を這い回る蛇にも似た模様が浮かぶ。
倭国の地ではウサギに似た模様がそこにはあった。月ではウサギたちが餅をついている、という言い伝えを、範三も幼少の頃から耳にしていたものだ。
夜闇の中、滾る溶岩のように紅い光が浮き上がった。遅れて聴こえてくるのは、飢えた獣を思わせる、絶対的捕食者の唸り声。
姿を現したのは、黒曜石のように黒く、光沢のある外殻で覆われた竜だった。ティラノサウルスのような頭に鋭利なナイフを思わせる牙。4本の前足と2本の後ろ脚に、長大な尻尾。尻尾の先端部には杭のような突起が突き出ていて、その先端部は既に血で赤々と染まっていた。
征服竜ガノンバルド。
聖イーランド帝国原産の、大自然の侵略者。
Bランクの冒険者でなければ原則として討伐依頼を回される事のない危険生物のうちの1つ―――幼体ですら完全武装の騎士を食い殺してしまうほどの獰猛さを誇るそれが、刀の柄にそっと手をかけた範三の前に姿を現す。
元々は採石場だった擂り鉢状の岩場の底、奥には卵らしき白く丸い物体が5つほど置かれているのが分かる。おそらくここはガノンバルドの巣で、目の前にいるのはその卵を守る雌の個体なのであろう。この時期の飛竜はとにかく気性が荒い。縄張りに一歩でも足を踏み入れようものならば、どこまでも執拗に追い立ててくる。
並大抵の冒険者では歯が立たない強敵を前に、しかし範三は溜息をついた。
「……お主ではない」
身振り手振りと、道中で少しだけ覚えた訛りの酷いノヴォシア語で何とか他者から”巨大な龍が居る”という情報を聞き出し、この洞窟がマガツノヅチの巣なのかと、ここで会ったが百年目、と踏み込んだまでは良い。しかしそこに巣食っていたのは範三の追う龍ではなく、征服竜として恐れられるガノンバルドだったのである。
違う、お主ではないのだ―――そう思うも時すでに遅く、範三を卵狙いの外敵と見做した雌のガノンバルドが、咆哮と共に剛腕を薙ぎ払った。
岩肌を削りながら迫るそれを、易々と飛び越えて回避する範三。剛腕が通過した後は、さながら巨大なグラインダーで削られた後のように、荒々しい破壊の痕跡が刻まれていた。
(なるほど、アレを受ければ命はあるまい)
巨体の質量と筋力から生み出される威力は、どれも一撃必殺の域に達している事だろう。ヒトの身では、仮に盾があったとしても一撃を受けただけで粉微塵に砕かれてしまう事は想像に難くない。
被弾は死を意味する。
しかし、範三は怯まない。
一撃でも受ければ死が待っている、というのは、それは人間同士の命のやり取りでも同じ事。要は攻撃を全て回避し、先に致命的な一撃を叩き込めばいいのだ。
刀を抜き、上半身をやや右へと捻った状態で構える。薙ぎ払い攻撃を終えたガノンバルドは、既にもう次の攻撃の準備に入っていた。今の薙ぎ払いで削った岩肌、その岩石の破片を左手でかき集めるや、それをさながら散弾銃のように投擲してきたのである。
打製石器の如く砕けた岩の破片。ガノンバルドの筋力で投げ放たれたそれは、一発一発がバリスタ並みの威力であろう。金属製の鎧など、その威力の前に鎧としての機能を果たすかどうかも怪しい。
槍衾の如く迫る岩石の散弾へ、範三は真っ向から突っ込んだ。当たらぬ、という確信はある。あくまでもこれは牽制の意味合いが強い攻撃だ。恐ろしい威力の攻撃に目が行くが、しかしここで臆して後ろに下がれば相手の思う壺。更なる威力の、回避も難しい致命的な一撃が追い討ちをかけてくる事は言うまでもあるまい。
ならばこそ、一見恐ろしく見える槍衾へと敢えて正面から突っ込むのが最適解である。
ゴウッ、と空気を引き裂きながら、打製石器のような形状の岩の破片が範三のすぐ脇を通過していく。袴の右肩の辺りが軽く裂け、切り裂かれた皮膚からは血が滲んだが、この程度など傷とも呼べない。
姿勢を低くし、ガノンバルドの懐へと飛び込んだ。
ガノンバルドには前足が4本ある。後ろ脚と変わらぬサイズの2本と、筋肉が大きく隆起し、身体の4割を占めるまでに発達した剛腕の2本だ。
小ぶりな方の前足が、懐へ踏み込むまでに至った不届き者を排除しようと薙ぎ払われる。サイズは確かに小さいが、しかしその腕力が、そして膂力が人間のそれを遥かに上回っているのは当然の事。こちらも喰らえば命はない。
踏み込む足に力を込め、範三はさらに加速した。どう、と薙ぎ払われた前足すら背後に置き去りにし、ガノンバルドの股の下を潜り抜ける勢いで一気に突っ走る。
狙うは―――後ろ足。
あれほどの巨体である。攻撃に動員できる余裕がある前足とは異なり、後ろ足にはかなりの体重がかかっている事であろう。相手の体格と、後ろ足を攻撃に全く利用していない事を一瞬で見抜いた範三が出した結論がそれだった。
攻撃の際、腰を捻ったり、脚を捻ったりして前方に体重をかけるうような動きすら見られない。ガノンバルドの攻撃は確かに恐ろしいが、それは自分の体格と筋力を頼みにした、力任せの攻撃でしかないのだ。
それか、後ろ足を踏み込んで攻撃に勢いをつけるといった、そういう使い方をする余裕するらないのか。
範三の目が正しいか否か、この一撃で決まる。
「―――ッ」
外殻で刀が弾かれるのは確実だ。外殻諸共飛竜を切り裂くなど、倭国の剣術の達人でも不可能であろう。それこそ、遥か太古の時代―――神話の時代の英雄でもなければ不可能である。
ならば狙い目は、外殻に覆われていない部分。
すなわち―――関節である。
「キェァァァァァァァァァ!!!」
甲高い、咆哮にも似た”猿叫”と呼ばれる掛け声を迸らせながら、範三は刀を左から右斜め上へと大きく振り払った。
腕の力だけではない。肩を捻り、腰を入れ、遠心力を完全にわが物とした一撃。限界まで研ぎ澄まされた鋭いその一太刀は、狙い違わずガノンバルドの左の後ろ脚―――人間でいうならば膝の裏にあたる部位へと、正確に吸い込まれていた。
空振りしたか、と勘違いしてしまうほどの軽い手応え。しかし次の瞬間には、外殻で覆われていない関節に紅い線が緩やかに浮かび……赤々とした鮮血を、大量に迸らせていた。
『ヴォォォォォォォンッ!!』
振り払った刀をくるりと翻し、間髪入れずに関節へと突き入れる。欠かさず手入れをしてきた刀はすんなりと関節へ潜り込み、傷口をさらに押し広げた。
もう一太刀―――いや、それは欲張りすぎだと判断し飛び退いた直後、ギュンッ、と空気を切り裂く音と共に、杭のように発達した外殻が範三の目の前を通過した。
ガノンバルドの尻尾だ。
それはさながら大蛇の如く、変幻自在に軌道を変えながら襲ってくる。
もし攻撃を欲張っていたならば、今の一撃で胴体を貫かれ即死していただろう。
竜との戦いで重要な要素の一つは、”攻撃を欲張らない事”、すなわち引き際を弁えるということだ。力比べで勝てる相手ではないのだから、わずかな隙に、可能な限り致命的な一撃を叩き込んで削っていく、それしかない。
「!」
ぐるん、と尻尾の穂先が範三を睨んだ。
咄嗟に上半身を左へと逸らす。次の瞬間、まるで獲物へと喰らい付く大蛇のような勢いで突き出された尻尾が、範三のすぐ右脇を掠めていた。
衝撃波に引っ張られそうになるも、鍛え上げた足腰で何とか踏ん張る範三。
あの龍を、マガツノヅチを倒すためだけに身体を鍛えてきた。
血反吐を吐く想いで南部藩から薩摩藩へと渡り、最強の剣術とされる薩摩式剣術を習得してきた。ただ、彼から全てを奪った龍―――マガツノヅチを倒すためだけに。
ガノンバルド、確かに恐ろしい相手である。だが―――。
更なる高みを目指し、怨敵を討たんとする範三からすれば、ガノンバルドですら通過点でしかない。
身体を捻りながら前傾姿勢になり、再び後ろ足へ。今度はさっきの左の後ろ脚ではなく、辛うじて踏ん張っている右の後ろ脚に狙いを定める。
「ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええいッ!!!」
切っ先を足元に擦り付けるか付けないか、というほどの低さから振り上げた一閃が、ガノンバルドの関節を絶つ。
先ほどよりも深い一撃だった。研ぎ澄まされた刀は骨を断つまでは至らなかったものの、筋肉繊維を絶ち斬り、ガノンバルドの姿勢制御をより困難にさせる。
押し潰される前に駆け出した直後、がくんっ、とガノンバルドの巨体が揺らいだ。後ろ脚のダメージで踏ん張る事も出来なくなったのであろう、巨体の腹が地面に落ち、ずずん、と重々しい音を響かせる。
血濡れた刀を振り払い、彼を押し潰すべく振り下ろされる前足の連撃を躱しながら前に出た。
『ヴォォォォォォォンッ!』
怒りを滲ませた咆哮と共に、ガヂンッ、と牙を鳴らすガノンバルド。そのナイフのような牙の隙間から火の粉が踊るや、範三は即座に右へと駆け出していた。
ゴウ、と炎が岩肌を舐め尽くす。体内で可燃性の液体を分泌、それを肺から吐き出す空気で加圧して、牙を擦り合わせた際に生じる火花で着火し火炎放射する―――火炎放射器にも似たメカニズムで放たれるそれは、全てを焼き尽くす飛竜たちの象徴でもある。
瞬く間に周囲の空気の温度が上昇し、鼻から吸い込む空気が熱風と化す。さながら山火事の最中のように周囲が赤々と光を発し、それに照らされたガノンバルドが口から黒煙を迸らせながら範三を睨む。
炎の海―――まるで地獄のようだ。
閻魔によって地獄へ落とされたものが焼かれる、地獄の炎。
この炎で焼かれるのは範三か、それともガノンバルドか。
乱れかけていた呼吸を整え、息を吐いた。
先に動いたのはガノンバルドだった。巨体の4割を占める程巨大な剛腕、その片方を地面に突き出しながら突き出したのである。燃え盛る岩石を抉りながら突き出された事により、炎に包まれた大量の岩石がまたしても散弾のように範三へと飛来してくる。
顔面を直撃するコースだった岩の破片を刀で弾き、範三もそれに応じて前に出た。ガノンバルドが反対の剛腕を突き出してくるが、その一撃が範三の肉体を砕くよりも先に、両足にあらん限りの力を込めて跳躍。足のすぐ下を掠めた剛腕の上に着地した範三は、黒曜石を思わせる外殻に覆われたガノンバルドの剛腕の上を駆け、そのまま一気に頭部まで上り詰める。
外敵を食い殺さんと噛み付いてくるガノンバルドの攻撃を紙一重で躱し、身体を捻った勢いを利用してくるりと一回転。勢いを乗せ、刀の切っ先を深々と、ガノンバルドの左の眼球へと突き入れた。
『ギョアァァァァァァァァァァァッ!!』
ぐじゅ、と眼球が潰れる音と共に、鮮血が溢れ出る。
(浅い!)
もっと深く―――切っ先が脳に達するほど、もっと。
元より外殻を打ち破りダメージを与えよう、などとは考えていない。刀による攻撃が通じる部位に的を絞り、致命的な一撃を何とか叩き込む―――そのうえで、眼球越しに脳を狙い勝負を決めるというのは、まさに止めの一撃であった。
しかし、浅い。
もっと深く突き入れねば、と考えた範三を振り落とすべく、ガノンバルドが最後の力を振り絞って頭を揺らす。
何度か振り落とされそうになった範三だが、歯を食いしばりながら耐え―――そのまま、肘までガノンバルドの眼球に埋まるほどの勢いで、もう一度刀を突き入れた。
刃先が何か、神経のさらに奥にある柔らかいものに突き立った感触がすると同時に、ガノンバルドの巨体から力が抜けた。
刀を引き抜き、夥しい量の返り血を振り払いながら、今にも崩れ落ちんとする竜の頭から飛び降りる。
刀を鞘に収めた直後、ずずん、と重々しい音を響かせて、ガノンバルドの巨体が崩れ落ちた。
巨大な口を半分ほど開き、絶命したガノンバルド。二度と動く事の無くなった征服竜に向かい、範三はそっと手を合わせた。
討つべきはマガツノヅチ。彼の故郷を焼き払った、忌むべき龍。
決して、ガノンバルドではないのだ。
赦せ、と小声で告げ、踵を返した。
やがて血の臭いに刺激され、獣や魔物たちも集まって来よう。そうなる前にここを離れるのが無難である。
「それにしても……彼奴は何処に」
いったいどこへと逃れたのか。
天を舞い、地を焼き尽くす災厄の龍―――マガツノヅチ。
擂り鉢状の採石場を離れ、範三はふと月を見上げた。
雲の影から再び、白銀の満月が顔を出す。
岩しかない月の表面。気のせいか、倭国で見る月よりも大きく見えるそれの表面には、地表を這い回る蛇のような模様が、深々と刻まれていた。




