事件の結末
「お父様―――ちょっと、お話ししましょうか」
迸る姉上の怒りは、こちらにもビリビリと伝わってきた。
父上がやらかしたから、という理由もあるが、やりすぎだと咎める勇気は俺には無い。前に立ちはだかろうものならばあっという間に塵芥と化してしまうのではないか……そんな懸念が頭の中で渦を巻いて、その怒りを目の当たりにする者全てを金縛りにしている。
姉上―――アナスタシア姉さんの独壇場だった。
「な、何だ……実の父に何と言う事を……!」
「父上、エカテリーナの身に何があったかご存じですか」
「エカテリーナ……? あの子はバートリー家に―――」
そこでやっと、胸倉を掴まれていた父上は俺とマカールに守られるようにして立っているエカテリーナ姉さんの存在に気付いたらしい。
雷雨で汚れ、かつては美しかったであろうハンガリア様式のピンクのドレスに身を包んだ、リガロフ家の次女。誰もを愛し、誰からも愛されたエカテリーナ姉さんを見た父上は、ハッとしたように目を見開く。
まさか知らなかったのではあるまいか、と思っている間にも、火のついた姉上は止まらない。胸倉をギリギリと締め上げながら父上に畳み掛ける。
「そう、そのバートリー家です。あの子はバートリー家に嫁ぎ、幸せな将来を約束されていた。結婚式に招待された貴方なら分かる筈だ」
「そ、そうだ……エカテリーナには、幸せな未来が……そ、それがなぜ……!?」
「バートリー家は黒魔術の信奉者でした」
「な、な……ぁ……っ!?」
黒魔術の信奉者―――それだけで、なぜハンガリアの貴族に嫁いだはずのエカテリーナ姉さんがここに居るのか、そして彼女の身に何が起こったのかを察したらしい。
しかし姉上の追及は止まらない。大きく開いた傷口に切っ先を突き入れ、そのままぐりぐりと抉るかのように、怒りを込めた言葉で父上を追い詰めていく。
生まれて初めて―――憎しみの対象だった父親を哀れだと思った瞬間だった。
「分かりますか、エカテリーナはその黒魔術の生贄にされるところだった―――彼女は教会で、イシュトヴァーンとかいう貴族の息子と誓い合った永遠の愛を踏み躙られ、利用されたのです」
「そんな……そんな……っ」
ぱっ、と姉上は手を離した。締め上げられ、壁に押し付けられていた父上の太った身体が床の上に落ち、呆然としたかのようにエカテリーナ姉さんの方をじっと見つめる。視線を向けられた彼女は、何とも気まずそうに目を逸らした。
「エカテリーナ……本当なのか」
「………」
こくり、とエカテリーナ姉さんは首を縦に振った。
「そんな……」
「貴方にとってはそれも、自身の権力向上のため……娘の幸せなど二の次で、結局はリガロフ家の再興……いえ、権力強化のための策に過ぎなかったのでしょうが」
「ち、違う! そんな事は決して……!」
「相手がそのような事を平気で企む一族だと知っていてエカテリーナを送り込んだ。そして彼女を権力強化のための人身御供にするつもりだった……違いますか」
返答次第ではその場で父親を斬り殺さんばかりの怒りを滾らせ、姉上は問うた。
きっと俺だったら、あそこまで相手を追い詰められはしないだろう―――途中で手を緩め、情けをかけてしまうかもしれない。それが仲間たちから『お前は優しすぎる』と言われる原因なのかもしれないけれど、しかし姉さんは容赦という言葉を知らない。
相手を追い詰め、逃げ道を断ち、徹底的に締め上げる。心の底から彼女を敵に回したくない、と思った瞬間だった。
そしてその娘に、血を分けた娘に追及される父はというと、震えながら首を横に振るばかりだった。
「ち、違う……知らなかった、知らなかったんだ」
娘の剣幕に怯えるというよりは、自らも与り知らぬ真実を突きつけられて動揺しているような、そんな本心が伺えた。
それを見逃す姉上でもあるまい。ここまで追い詰めたのは、この反応を見て確証を得るためだというのだろうか。ただ単に力をちらつかせて尋問したところで、嘘をつく余裕は相手に残されている。だから適度に痛めつけ、追い詰めてから改めて白状させる―――これ以上は無いぞ、と暴力で知らしめてから本心を絞り出す。
それも騎士団特殊部隊”ストレリツィ”で学んだ尋問のやり方だというのだろうか。
それを躊躇なく、血の繋がった父にやってしまう姉上も恐ろしいものではあるのだが。
鼻から血を垂れ流しながら、父上は震えた声を絞り出す。
「バートリー家の件は、確かに一族再興のためという狙いもあった……だが、イシュトヴァーンの人柄も良くて、彼ならばエカテリーナの良き夫になってくれると……そう思っていた」
騙されるのも無理はない。
俺もそうだ、一度は騙された。エルゴロドの喫茶店で初めて出会った時、この人ならばエカテリーナ姉さんを幸せにしてくれるだろうという確信を抱いた。抱いてしまった。
セロからバートリー家の危険さを教えてもらうまでは、決して見抜けなかったのだ。
「念のため、昔から付き合いのある探偵を雇って事前調査もさせた。その上で結婚させたのだ……」
「……」
「うっ、疑うというのならばそこの金庫を開けてみろ! 中に探偵からの調査報告書が入ってる! 番号は”1989”だ!」
「……」
開けろ、と姉上に目配せされたので、言われた通りに金庫へと手を伸ばした。ミニマムサイズのミカエル君にはちょっと高い位置にあったので、背伸びをしながら暗証番号のダイヤルを回して言われた通りの4ケタの番号を入力すると、カチリ、と金属音を発しながら金庫の扉がゆっくりと開き始める。
中にあった手紙をいくつか取り出し、探偵からの報告書と思われる物を手に取ってから、それを姉上に手渡した。
キリル文字に似たノヴォシア語の羅列を素早く読んだ姉上も、その報告内容に納得したらしい。
「知らなかったんだ、バートリー家がそんな、そんな……!」
「……」
床を這うようにして、エカテリーナ姉さんの傍らへと駆け寄る父上。姉さんの白い手を握ると、今にも泣き出しそうな顔で姉さんの顔を見上げた。
「すまない……すまない、お前がそんな酷い目に遭っていたなんて……!」
「いいのです、お父様……私の将来を思ってくれていたことは、よく分かりましたから」
「許してくれ……許してくれぇ……」
父上の嗚咽が、しばらく執務室の中に響いた。
あの時と何も変わっていない。
かつて俺が軟禁されていた部屋―――17年間の人生で、この12畳ほどの広さの部屋が、ミカエル・ステファノヴィッチ・リガロフという人間にとっては世界の全てだった。
窓から外を見下ろし、剣術の稽古をする兄姉たちを羨ましく思いつつ、自らの出生を呪ったあの頃を思い出す。何度も屋敷を抜け出すのに使った窓の縁も、そしてここから見える雨樋のへこみも当時のままだ。あそこは外に出る時によく足場に使ったから、体重がかかってああやってへこんでしまうのだ。
何も変わらないかつての自室。あるのはただ、当時の苦く、しかし微かに甘い思い出だけ。
当時の事を思い出すように窓の縁を指でなぞっていると、部屋の中にあるソファに腰を下ろしていたジノヴィが言った。
「バートリー家の一件については、外交ルートを通して正式にハンガリア側に通達した」
クラリスが持ってきてくれた紅茶に蜂蜜をダバーッとぶち込み、更に角砂糖をドバーッと追加していた姉上は、すっかり甘ったるくなったそれを口に含みながら首を縦に振った。
黒魔術が絡む案件だから、ハンガリア王室も迅速に対応してくれるだろう。ましてやそれが国内の問題ではなく、圧倒的な軍事力を誇る大国ノヴォシアが絡む問題である。ひとつ対応を誤れば外交問題にも発展し、最悪の場合は今までの関係が破綻する恐れもある。
中立を堅持したいハンガリアとしては、一刻も早くバートリー家を処罰して国家としての潔白と誠実さをアピールしたいはずだ。
そうじゃなくても、あらゆる宗教において黒魔術は禁忌とされていて、使用する事どころか学ぶ事すら違法とされている。まさに闇に葬るべき禁術であり、それが息づいている事自体が罪なのである。
とはいえ、ハンガリアの法律では貴族には死罪を適用できないという特権があるので、最高刑でも無期懲役となるが……まあ、姉上の命は奪われていないし、イシュトヴァーンもあの通り半ば事故のような死に方をしたのだ、それでちょうどいいとは思うのだが。
「これで父上も少しは懲りるだろう」
「姉上、あの剣幕で問い詰めたのはそれが狙いですか」
「はて、何の事か」
私何も知らないよ、とでも言うかのようにおどけながら、姉上はティーカップを拾い上げた。
ともかく、ハンガリアの問題はこれで終息に向かうだろう。エカテリーナ姉さんの結婚の件はこれで台無しになってしまったが……。
「ともあれ、今回の一件はお前のおかげで事なきを得た。感謝するぞ、ミカ」
「ハンガリア人の友人のおかげです。彼女の情報提供が無ければ、俺も気が付きませんでした」
この件は本当にセロのおかげだ……アイツがバートリー家の事を教えてくれ、更には徹底的に調べ上げてくれなければ今頃どうなっていたか。
姉上は黒魔術の生贄にされ、俺たちは最愛の姉であり妹でもあるエカテリーナ姉さんを失う事になっていただろう。家族が犠牲にならずに済んで本当に何よりだ。
既に調査の件に関する報酬は、セロの口座に振り込み済みだ。調査報酬100万ライブルと、有益な情報に基づく追加報酬70万ライブル、そして強盗への協力として分け前の50万ライブルを加えた、合計220万ライブルもの大金が彼女の口座に送金されている。
もちろん、俺の口座から移動した170万ライブルは問題ないが、今回の強盗で盗品を売って換金した50万ライブルは既にパヴェルの手によって資金洗浄済み。金の流れから犯人を特定する事も出来ない、安全に使える金である。
「それにしても奇妙なものよ……こんな案件で、姉弟全員が揃う事になるとはな」
そういえば、リガロフ家の姉弟5人がこうして集合する機会など今まで一度もなかった(ミカエル君を除く4人は何度もあったそうだが)。こうやって全員で並んでみると、やっぱりライオンの獣人の中に紛れるハクビシンの獣人という事もあって、ミカエル君だけが異彩を放っている。
顔の輪郭はどことなく似てるので親戚とは思われるのだろうが……。
「事件も解決した事だし、今夜は一緒に夕食でもどうだ? 私も久しぶりのキリウだからな、故郷の味を堪能したい」
「いいですね」
「そう言うと思って既にレストランを予約済みです」
「仕事が早いな、マカール」
「ええ、姉上ならきっとそう言うと思いまして」
俺も何となくそんな気がしてた……いや、多分マカールはアレだろう、幼少の頃から姉上にボコられまくってビビってたから、特に姉上の顔色をうかがう術に長けたのだろう。何か嫌な話だなそれ……強く生きてお兄ちゃん。
「今夜は私の奢りだ、エカテリーナもたくさん食べると良い」
「ふふっ、ありがとうございます姉上」
ともあれ、姉上が無事でよかった。
願わくば、彼女の心に深く穿たれた傷が一日でも早く癒えるのを願うばかりである。
ポケットから連絡用のスマホを取り出して、短いメッセージをパヴェルに送信した。
『今夜は姉弟で飯食べに行ってきます』と。
「ほら、とっとと入れ!」
マスケットの銃床で突き飛ばされ、エリザベート・バートリーは暗い部屋の中へと強引に押し込まれた。
今までならばこのような扱いを受ける事は無かっただろう。ニレージュバルザを治める貴族として、皆が敬うバートリー家。その尊厳を微塵も感じさせない、文字通り家畜のような扱いに憤る彼女であったが、それを言葉にする暇すら与えられず、部屋の扉は固く閉ざされた。
ニレージュバルザ市街地の中心に位置ずる古城『ニレージュバルザ城』。エリザベートの叔父が住んでいたという古い城の頂上にある一室に、エリザベートは監禁されていた。
窓も、扉も全てが固く閉ざされ、唯一開くのは食事を入れておくための小窓だけ。それ以外に光は無く、全てが闇に塗り潰された一室の中で、エリザベートは全てを呪った。
どうしてこんな事になったというのか。
ただ、老いていくこの身体を美しく保っていたかっただけ―――神がヒトに死を与えるというならば、それはヒトを愛していない証拠。だから神への信仰を捨て、黒魔術に耽溺するようになったまでの事だ。
なのになぜ、自分はこうして処罰されているのだろうか。
貴族としての名誉も、財産も、そして何より一人息子たるイシュトヴァーンの命まで奪われて、闇の中に捕らわれる―――そのような理不尽など許せるはずもない。
思う度に、憎む度に、心の中に怒りが蓄積していく。それは全てを焼き尽くし、やがてどす黒い呪いにも似た感情を焼け跡に残していく。
しかしそれをぶつける対象など、この部屋の中には何もない。必要最低限の家具を殴りつけても、壁をいくら叩いて泣き喚いても、心を焼き尽くすその感情は、苦痛は、そして虚しさは消えることが無かった。
かつて信仰していた神も、悪魔も、誰も救いの手を差し伸べることが無い闇の中。
発狂したエリザベートがこの世を去るのは、その3年後の事だった。




