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怒髪天を衝く


 言うまでもないかもしれないが、ノヴォシア帝国は未開発のエリアが意外と多い。


 一見すると高度に発展した煌びやかな大都市でも、郊外へ車を15分程度も走らせれば、そこから先はヒトの手が全く及ばない大自然、という事も珍しくは無いのだ。最もそういう傾向があるのはベラシア地方で、故にベラシアは帝国の中で最も多くの自然公園や自然保護区を持つ。


 イライナ地方も例外ではなく、エルゴロドの外に広がる湿原がそれだ。冬を除いて常にぬかるんでいる湿原はエルゴロドを目指す者にとっての最大の障壁であり、ヴォジャノーイたちの最も好む環境でもある。


 ゴッ、と大型のアメリカ製ピックアップトラックの体当たりを喰らい、ボンネットの上を跳ねてどこかへと吹き飛んでいくヴォジャノーイを憐れむような目で見ながら、ミカエル君は改めてウチのメイドは絶対教習所に行くべきだ、と強く決意する。


 エルゴロドを出発してから既に1時間。どこまでも続くかのような泥濘の中を、俺、クラリス、そしてエカテリーナ姉さんを乗せたヴェロキラプター6×6が爆走していく。泥濘もなんのその、エンジンの馬力で強引に突破していくその姿にはかつてのアメリカを開拓していった人々のフロンティアスピリットを感じさせられるが、問題はそこじゃない。


「クラリス、クラリスさん!?」


「なんでしょうかご主人様」


「前、前! 川!」


 イライナ地方西部を流れるブニエストル川、おそらくはその支流なのだろう。イライナの大地を横断し黒海まで流れる川の一部が目の前に広がっており、何を思ったのか、クラリスはそのブニエストル川の急流の中へと何の躊躇もなくヴェロキラプター6×6を突っ込ませていく。


「橋を渡っている時間などありませんわ!」


「いやいやそうじゃなくて!」


「タイヤが地につけばそれはもう全て道ですわぁ~ッ!!」


 ドパァンッ、とフロントバンパーが船の舳先の如く盛大にブニエストル川の支流を裂いた。巨大でがっちりとしたオフロードタイヤが派手に回転し、つい十数時間前まで続いていた雷雨で増水した川の中をぐいぐいと突き進んでいく。


 幸い水深はそれほどでもなかったようで、ヴェロキラプター6×6はさながら川を泳ぐ巨獣の如く、何事もなかったかのように対岸の土を再びオフロードタイヤで踏み締めた。


 さてさて、そんな強行突破をかましたブニエストル川の支流ですが、もうちょっと進んだ先にちゃんと橋があるんですけどね……。


 水で濡れた車体をさらに加速させ、キリウへと一直線に向かうヴェロキラプター6×6。明日にはキリウの屋敷で待ち合わせ、という姉上からの命令で急いでいるのは分かるのだが、だからといってキリウまで馬鹿正直に一直線に進んでいくのはどうなんですかね? 


 道中に川があろうと谷があろうと、そのような障害をものともせずに進んでいくクラリス。そんな運転手ドライバーの無茶苦茶な要求に応えるこのヴェロキラプター6×6もなかなかのものではあるのだが。


 ちらり、と後部座席の方を見た。どったんばったんと激しく揺れる車の中、後部座席ではエカテリーナ姉さんが静かに窓の外の景色を眺めていた。


 やはり―――色々とショックだったのだろう。


 イシュトヴァーンの愛が実は偽りだった、という事。


 そして―――イシュトヴァーンの死。


 彼女にとって、幸せな未来は約束されたようなものだった。ハンガリアの地で、異国の夫と幸せに暮らす未来。それをたった一瞬で摘み取られるどころか、危うくその夫に殺されるところだったのだ。彼女の心にどれだけ大きな傷が残ったか、想像すらできない。


 視線を感じたのか、姉さんはこっちを向いて笑みを浮かべた。大丈夫よ、と言わんばかりのその笑みは、しかしいつもと違って弱々しく悲しげだ。癒え切っていない傷を隠し、無理矢理笑っているようにも見え、何とも痛々しい。


 彼女をこんな絶望のどん底に突き落としたバートリー家の連中と、そして何よりもそんな連中に嫁がせたクソ親父に対する怒りが胸の中で一気に湧き上がってくる。


 きっとそれは、他の兄姉たちも同じであろう。


 エカテリーナ姉さんは、俺たちにとって希望の光だ。その希望の光を曇らせた罪は重い。


 彼女に何と声をかけていいかわからずに戸惑っていると、唐突な浮遊感が全身を包み込んだ。


 え、ナニコレ?


 助手席の窓に視線を向けると、水滴の付着した窓の向こうには信じられないものが映っていた。


 2つに裂けた大地と、ぽっかりと口を開ける奈落。


 そう、谷だ。


 どうやらクラリスは南東部にある橋を渡る時間をショートカットするため、思い切り加速して助走をつけ、谷の対岸までジャンプするつもりらしい。しかも彼女の読みは的中したようで、浮遊感が落下する感覚に変わった頃には、着地した衝撃が座席越しに頭を思い切り突き上げてきた。


 がっくん、と身体が大きく揺れる。


「クラリスさぁん!?」


 これ助走足りなかったら落ちてたのでは、と思うとゾッとする。


 そんな様子を見て、後ろにいる姉さんは小さく笑っていた。


 変に気を遣う必要はないのかもしれない。


 姉さんは―――エカテリーナ姉さんの心は、きっと俺たちが思っている以上に強いのだ。













 ここに帰ってくるのは半年ぶりか。


 イライナ最大の都市、キリウ。


 かつてイライナがまだ”イライナ公国”だった頃の首都であり、このキリウもまた悪名高い竜『ズメイ(ズミー)』の襲撃を、英雄イリヤーとその盟友ニキーティチの奮戦もあって辛くも退けた歴史を持つ。


 だからなのだろう、街のいたるところにズメイ(ズミー)を迎え撃つイリヤーとニキーティチの銅像があったり、竜を模したオブジェが飾られているのはその歴史故なのかもしれない。


「何も変わってないな」


 やっと静かに走るようになったヴェロキラプター6×6の助手席から頬杖を突きながら、正直な感想を漏らす。キリウの街はあの頃からあまり変わっていない。屋敷をこっそり抜け出して、電線やら屋根の上を走り回ってスラムへと遊びに行き、友人たちと一緒におやつを食べたり、秘密の訓練場で銃の扱い方やら魔術を学んだ毎日。不自由ではあったが、なんだかんだで楽しかった。


 スラムに住んでたフョードルは元気だろうか?


 とはいえ、ここはかつてのイライナ公国の首都。何も変わっていないとはついさっき言ったが、多少の変化はあった。キリウの屋敷に住んでいた頃に営業していた店のいくつかは無くなっていて、その跡地には労働者向けのアパートが建っている。


 富裕層が多く住む地域では重機の音が響き、巨大なショッピングモールの建造が始まっているようだった。こうしてみると貴族の屋敷に見えなくもないけれど、建築を担当している業者が貴族の屋敷の建築に関わっている人たちなのかもしれない。


 開業はいつ頃になるのだろうかと思いながらそれを眺めていると、見慣れた道に入った。


 石畳でしっかりと舗装された道の向こうに、屋敷が見えてくる。


 リガロフ家の屋敷だ。白レンガで造られた塀と金色の格子の正門の前には、銃剣付きのマスケットを抱えた番兵が2名ほど立っていて、屋敷へと接近してくる見慣れないクソデカトラック(ノヴォシアでピックアップトラックは珍しい)を興味深そうにまじまじと見つめている。


 屋敷のすぐ近くで車を停車させるクラリス。シートベルトを外して外に出ると、番兵の1人が背中の銃に手を伸ばしながら言った。


「貴様、ミカエルか……!?」


「だったら何だってんだ」


 ミカエル君的にはドスの利いた声で返答すると、こっちに銃口を向けた番兵は息を呑んだ。それもそうか、彼らからすれば俺は屋敷から秘宝を盗んでいった強盗の容疑者だし、それ以前に庶子であり忌み子―――だから番兵たちも、どう間違っても”ミカエル様”とは呼ばない。


 まったく、クソ親父が性欲を押さえきれなかった結果生まれてきただけで随分と酷い言われようだ。


 運転席から飛び出したクラリスが、まるで怨敵を見るような目つきでPL-15を構えたが、やめとけ、と小さい声で言いながら手で制す。


 殺しに来たんじゃない、話をつけに来たのだ―――優先順位を間違うな、クラリス。


 向けられているマスケットの銃口を意に介さず、俺は後部座席へと向かいドアを開けた。


「さあ、姉上」


「ええ」


 姉上に手を貸して車から降ろすと、番兵たちの顔色も一気に変わった。


「え、エカテリーナ様!?」


「なぜ……バートリー家に嫁いだのでは?」


「そのバートリー家がクソだったからこうやって戻ってきた。んで、クソ親父は居るか」


「なんと無礼な……貴様、仮にも実の父親に向かって何という事を!」


「実の父だァ? メイドに手を出してうっかりガキこしらえて、それを部屋に17年間も軟禁してるような奴が父親か。俺の読んだ辞書には書いてなかったがな?」


「ミカ、やめなさい」


「……すみません」


 姉上に咎められ、悪口はそこまでにしておいた。まだ屋敷の前に到着しただけに過ぎず、ここで17年間の恨みをフルバーストしてしまうのはちょっとまあアレだ、早すぎる。


 口が悪いって? まあね、17年間も軟禁されて育てばそうもなるさ……とはいってもこういう口をきくのは本当に嫌いな相手だけ。仲間にはいつものキュートなミカエル君なのでそこんとこよろしく。


 そんな感じで番兵と睨み合うこと5分、1台の車が屋敷に向かってくるのが見え、番兵たちがハッとしたようにそちらへ視線を向けた。


 走って来るのは箱型の車体に流線型のシャーシ、クロムカラーのグリルに丸いライトが特徴的な、禁酒法時代のアメリカを走ってそうな感じのセダンだった。車体が艶のある黒のせいなのか、高貴さは感じるが、どっちかというと裏社会に生きている人が愛用しているような車にも見えてしまう。


 けれども、屋敷のすぐ近くに停車したそれから降りて来たのはアル・カポネでもギャングでもなく、帝国騎士団の制服に身を包んだアナスタシア姉さんに法務省の制服姿のジノヴィ、そして憲兵隊の制服の上にコートを羽織ったマカールの3人だった。


「姉さん!」


「エカテリーナ……よかった、無事だったか」


 車から降りて来た長女の姿を見て安堵したのか、エカテリーナ姉さんは彼女に駆け寄ると、同じく安心したような優しい笑みを浮かべる長女の胸へと飛び込んだ。


 珍しく涙を浮かべる次女を優しく抱きしめるアナスタシア姉さん。妹の無事を知って安堵したのは良いが、しかしそれもすぐにたきぎの如く怒りの炎が揺らめく窯の中へと放り込まれる事になる。


 何度か頭を撫でてから、アナスタシア姉さんはエカテリーナ姉さんから手を離した。後ろに控えるジノヴィにエカテリーナ姉さんを預け、怒りを滲ませた視線を向けながら、堂々と屋敷の正門へ向かっていく。


 さっきまで俺に銃を向けていた番兵が、大慌てでその前に立ちはだかった。


「アナスタシア様、今日はどのようなご用件で?」


「父上に会いに来た。門を開けろ」


「しかしステファン様は公務で多忙です故、また時間を改めていただきたく……」


「関係ない、門を開けろ」


「ですが……ステファン様からは”誰も入れるな”と」


 埒が明かん、と言わんばかりに姉上は溜息をついた。


 まるで獅子のたてがみのように外側へと跳ねた金髪を手で掻き、キッ、と正門を睨む。


 止めようとする番兵を手で強引に押し退けたかと思いきや、優美な装飾が施された正門の格子を手で思い切り掴んだ。何をするつもりかと思いきや、どこからか金属が軋むような苦しそうな音がうっすらと聞こえ始め、それと同時に正門の格子が段々と、さながら飴細工のようにぐにゃりと曲がっていく。


 やがてそこには、人一人が通れるくらいの突破口が形成された。


「―――関係ない、押し通る」


「あ、あ……」


 あんぐりと口を開けたまま、番兵2名は凍り付いた。


 姉上の筋力には驚かされるばかりだ……メスゴリラ、なんて言ったら殺されそうなのでこの言葉は墓場まで持っていくとしよう。


「あんな調子だから嫁の貰い手がいないんじゃ……?」


「しかも強い男でなければ許さんらしいぞ姉上は」


「マジっすか兄上」


「何をしている。いくぞお前たち」


「「「アッハイ」」」


 ヒソヒソとそんな話をしているジノヴィ&マカール&ミカエルの3人を先導し、堂々と屋敷の中へ入って行く姉上。その後ろ姿はまさに阿修羅の如くで、最愛の妹をあのような目に遭わせた父に対する怒りが見て取れる。


 これワンチャン父上死ぬのでは、と思いながらも、エカテリーナ姉さんをクラリスに先導してもらい、俺たちも屋敷の中へ。


 バンッ、と強引に正面の玄関を開ける姉上。驚いたメイドや執事たちは、怒りを滾らせながらつかつかと進んでいく姉上の姿を、遠巻きにただただ眺めるばかりだ。止めようとする者は誰もおらず、警備兵すら立ち塞がる事は出来ない。


 それはそうだろう、誰が好き好んで怒れる獅子に喧嘩を売るというのか。


 そのまま階段を上って2階、そして3階へ。


 父上の執務室の前にはペッパーボックス・ピストルとサーベルで武装した警備兵が居たが、父上を殴り飛ばさんばかりの怒気を発する姉上を止めるどころか、声をかける事すらできず、まるで金縛りになったかのように凍り付いたまま、姉上が執務室の扉を半ば強引に押し開くさまを見守るばかりだった。


「あ、アナスタシア?」


 執務室の一番奥―――窓を背に置かれたデスクで、老眼鏡をかけた父上がぎょっとしたように顔を上げた。他の貴族から送られてきた手紙でも読んでいたのか、手元には豪華な装飾が付いた書類がいくつも積み上げられている。


 全ての元凶の姿を目にしたことで、怒りが頂点に達したらしい。歩くばかりだった姉上の歩幅が一気に大きくなり、そのまま駆け足になった。


 姉上、と制止しようとした頃にはもう遅かった。怒りの捌け口を求めるかのように硬く硬く握りしめられた右の握り拳が、見ているこっちもスカッとするほど、しかし相手の生死が心配になるレベルの綺麗さで顔面にめり込んだのである。


「ブアァ!?」


 ゴシャッ、と金槌で人間を殴るような音がした。少なくとも、人間が人間を殴った時に発する音ではない―――音響担当の人、効果音ミスってないだろうか。


 強烈な、おそらく一生に一度あるかないかくらいの威力の右ストレートを顔面に受けた父上が、鼻から血を垂れ流しながら吹き飛んだ。そのまま背後の壁に背中を叩きつけて息を詰まらせ、重力に導かれて倒れていくが、しかし床に倒れ伏す事すら姉上は許さない。


 今まさに倒れようとしている父上の胸倉を掴むと、そのままギリギリと締め上げながら持ち上げ、バンッ、と派手に壁にその背中を押し付けた。


 生みの親になんてことを、と今にも抗議しそうな父に顔を寄せ、怒りが頂点に達した長女アナスタシアは―――さながら死刑宣告のように、告げる。





「お父様―――ちょっと、お話ししましょうか」








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[一言] ヒェッ…
[一言] せめて、なんか言ってから殴れよ姉さん
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