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執念の猛追


 腸が煮えくり返る、とはこの事か。


 まだ痺れが残る身体に鞭を打ち、ゆっくりと起き上がろうとする。しかし重く冷たい何かが身体を上からがっちりと押さえつけていて、イシュトヴァーンはまだ霞む視界をそれへと向けた。


 つい先ほどまで―――少なくとも、ミカエルとの戦闘中までは天井で揺れているばかりだった、広間のシャンデリア。煌びやかな装飾が施されたそれは荒々しい破壊の痕跡をいたるところに刻みつけた状態で、イシュトヴァーンを束縛するばかりの重石となっている。


 怒りに任せ、それを思い切り掴み放り投げた。途端に身体中に鈍い痛みが蘇ってくるが、それと同時に湧き上がってくる更なる怒りでダメージを相殺する。


 こんな屈辱を与えた相手を、生かしておけるわけがない。


 拳を握り締めながら、落ちている自分の剣を拾った。まだ剣は折れていない―――そしてイシュトヴァーン自身の闘志もまた、折れてなどいない。


 滅茶苦茶になった広間を出て、窓の外を見た。


 真紅の月はすっかり雨雲に隠れ、外は雨風が荒れ狂い雷鳴が轟く悪天候。今にも悪魔が出てきそうな天候であったが、イシュトヴァーンは構わずに外へと躍り出た。


「い、イシュトヴァーン様!」


「車を出せ、奴らを追うのだ!」


「し、しかしどこに逃げたのかさっぱり……!」


 チッ、と舌打ちをしながらも、イシュトヴァーンは思い出す。


 あの小柄な襲撃者は―――イシュトヴァーンにシャンデリアを叩き落し、彼を倒したあの少女が話していたハンガリア語には異国の訛りのようなものが感じられた。ハンガリア語には珍しい巻き舌発音だ。”R”や”L”の部分に特にそれが見られたのを思い出し、頭の中で仮説を組み立てる。


 襲撃者たちの本来の母語は、もしかしたらノヴォシア語なのかもしれない。


 あの巻き舌発音には覚えがあった。彼自身も異国の女を自らの妻として迎え入れるにあたり、ノヴォシア語(それもエカテリーナの故郷では一般的なイライナ語)を学んでいる。文法の面で困る事は無かったが、発音ではその巻き舌発音がなかなかうまくいかずに苦労したのは記憶に新しい。


 ノヴォシア語の特徴を残すハンガリア語を話し、エカテリーナを攫って行く組織……もし本当に彼らがノヴォシア人なのだとしたら、思い当たる節しかない。


(まさか、エカテリーナの……ミカエル、あの少女か!)


 一度だけ顔を合わせたことがある―――エカテリーナの実家、リガロフ家には存在しない筈の五番目の子供、ミカエル。姉の結婚を祝うためにエルゴロドを訪れていたミカエルは確かに身長が小さく、あの襲撃者と同じくらいだった。


 もし彼らがバートリー家の計画を察知し、それを防ぐべく姉の奪還のためにハンガリアへとやってきたのだとするならば、逃走経路は絞られる。


「ニレージュバルザからノヴォシアへ繋がる道路及び線路を全て封鎖しろ! 憲兵にも応援を要請するんだ!」


「か、かしこまりました!」


 警備兵に指示を出し、彼は屋敷のガレージへと向かった。ポケットの中に入っているマスターキーを取り出して鍵を開け、壁面にあるスイッチを押してシャッターを解放する。


 カッ、と稲光が夜のニレージュバルザを照らし出し―――ガレージの中で眠っていた1台のクーペの車体を、その閃光で彩った。


 流線型のフェンダーに大きく丸いライト、クロームメッキの施されたグリルにフロントバンパーが特徴的な、全体的にすらりとした形状のクーペだった。先端に行くにつれて幅が狭まるボンネットに箱型の運転席と、この世界で主流となっている高級車として見れば保守的な設計である事が分かる。


 が、よく見るとボンネットには大きなカウルが突き出ていて、通常よりも大型で馬力のあるエンジンが搭載されている事が窺い知れる。


 自慢の愛車をこんな事に使う事になるとは、と憤りながら、イシュトヴァーンはキーボックスから愛車のキーを取り出して乗り込んだ。エンジンをかけるよりも先にダッシュボードを開け、中に収まっていた4連発のペッパーボックス・ピストルを取り出す。


 瀟洒しょうしゃな形状のそれをホルスターに収め、エンジンをかけた。


 彼の胸中に渦巻く怒りを代弁するかのような、重々しいガソリンエンジンの鼓動。ライトが強烈な光を放ち、ガレージで眠っていたクーペが目を覚ます。


「逃がしてなるものか」


 苦々しく呟きながら、彼はアクセルを踏み込んだ。


 バートリー家の屋敷から、1頭の獣が解き放たれた瞬間だった。













 錆び付き、いつ外れるかも分からない古いレールの向こうに、黒く塗装された巨大な貨物車両がある。


 運転席のクラリスがライトを何度か点滅させると、それが合図だったかのように(実際合図である)後部のハッチがゆっくりと解放された。夜間であるため、発光で位置が露見するのを防ぐために格納庫内の照明も全て落としてあるようで、いつもならば点滅している警報灯の黄色い光も見えない。


 ニレージュバルザを離れてからここまで来る間は、本当にクラリスの眼が頼りだった。視覚、聴覚、嗅覚のいずれもが、竜人であるクラリスは獣人よりも発達している(しかもオンオフができるのだそうだ)。だからこの程度の暗闇であれば暗視ゴーグル要らず、というわけである。


 光源もなく、ライトで視界を確保するわけにもいかない状況下、無事故でここまで戻って来る事ができたのは彼女のおかげと言っていい。


 俺たちのブハンカが格納庫へ滑り込むと、少し遅れてリーファが運転するランドクルーザー70も格納庫へと飛び込んできた。


 仲間たちが全員そろっている事を確認してから、作業着姿のノンナがレバーを操作して格納庫のハッチを閉鎖、内部の照明を点灯させる。


 機械油の臭いが充満する格納庫の中に降りると、ドレス姿の姉さんは興味深そうに格納庫の中をきょろきょろと見渡した。安全な屋敷の中、書物を読んだり習い事をしたりして過ごしてきた姉さんにとって、こういうオイルの臭いが漂う格納庫というのは無縁な場所だったのだろう。


 先ほどまで感じていたであろう恐怖はどこへやら、まるで見知らぬ新天地へとやってきた子供のように、格納庫の中を見渡しては工具類やクレーンを興味深そうにまじまじと見つめる。


「これ、ミカの列車なの?」


「ウチのギルドの列車ですよ。それより怖かったでしょうしお疲れでしょう、暖かい紅茶でも」


「ええ……ありがとう」


 食堂車に行けば何かあるだろう。少なくともあそこには、いつも紅茶かコーヒー、後はお茶菓子が常備してある。


 姉さんと手を繋いで先導し、そのまま食堂車へ。窓は装甲板で塞がれているから、明りが外に漏れる事を心配する必要はない。


 姉さんを座らせると、クラリスは素早くキッチンの奥の方へと向かった。彼女は料理が下手(なのでクラリスだけは絶対に厨房で料理させるなという暗黙の了解がある)なんだが、紅茶やコーヒーはしっかりと淹れてくれるので、この点は安心していい。


 ぐんっ、と足元が微かに揺れる感覚の後に遅れて、レールの繋ぎ目を車輪が踏み締める金属音が床越しに伝わってきて、列車が動き始めたのだという事が分かった。


 ニレージュバルザ市街地方面へと最後尾の格納庫を向ける形で停車していた列車が動き出す。目的地はエルゴロド―――とりあえずはハンガリアを脱出し、ノヴォシア領へと戻らなければならない。


 そこまで戻れば後はこっちのものだ。ミカエル君は憲兵隊に法務省、おまけに帝国騎士団特殊部隊”ストレリツィ”に太いパイプがある……というか、兄姉たちのコネがあるので、とりあえず帝国の主権の及ぶ場所まで逃げおおせる事さえできれば何とでもなる。


 事情をマカールかジノヴィ、アナスタシア姉さんの誰か(あるいは全員)に話してエカテリーナ姉さんの身柄を保護してもらい、全てにカタが付いた後で、あんな黒魔術マニアの一族の元へエカテリーナ姉さんを送り出した、リガロフ家が誇るダブスタクソ親父をぶん殴りに行く―――今のところミカエル君のスケジュールはこんな感じになっている。


 ミニマムサイズの拳だが、いつかあのダブスタクソ親父をぶん殴るために右ストレートだけは鍛え、イメトレも欠かさなかったミカエル君。いつかあの顔面思い切り殴りつけてやると心に誓い、キリウの屋敷にある部屋の壁を殴り続けたのは一度や二度ではない。


 まあいい、そんなことはどうでも良いのだ。


 とにかく、ハンガリアを脱出するまでは油断できない。


「姉上はここに居てください」


「ミカは?」


「まだ油断できません。ハンガリアを出るまでは列車の警備を」


「そう……ごめんなさいね、ミカ。あの時……バートリー家は危険だって伝えようとしてたんでしょう?」


 あの時―――エルゴロド駅での一件の事を言っているのだろう。ハンガリア、ニレージュバルザ行きの貴族専用列車のホームを走り、姉上に危険を知らせようとしたあの時の事だ。


 まあ、駅員からは”厳重注意”で済んだが……。


「姉上のためです。幼少の頃、お世話になりましたからね」


 そう言いながら笑みを浮かべた。


「姉上くらいでしたよ、家族の中で庶子である俺に優しくしてくれたのは」


 正確に言うと母さん(レギーナ)も、か。


「それはそうよ……だって可哀想だったもの。いつも1人で、あんな薄暗い部屋の中で……」


 きっとその優しさが、誰からも愛される所以なのだろう。


 誰からも愛され、誰もを愛したその慈愛に、俺もまた救われた。


 だからだ。


 姉上のために尽くそうと、こうして遥々ハンガリアという異国の地までやってきたのは。そして異国の貴族に喧嘩を売りかねない事を平然とやってのけたのは。


 では俺はこれで、と言い残し、食堂車を後にした。タラップを登って天井にある銃座に出て、擬装用の迷彩ネットに隠れながら周囲を警戒する。


 しかし廃線となった路線を走っているからか、周囲には灯りもなくただただ不気味だった。トンネルの照明も機能しておらず、雨で湿った空気が肌を撫で、車輪の音に混じり遠雷の響く音が時折耳に届くのみ。


 このまま何も無ければいいのだが。


 











『ダメです、全ての線路と道路を封鎖しましたが……どこにも形跡が―――』


 ガチャ、と報告を遮る形で受話器を置いた。


 できる事ならばこの怒りを叩きつけ、電話ボックスを粉砕してしまいたくなる。が、そんな事が徒労でしかなく、エカテリーナ奪還という目的に繋がりすらもしない事は、イシュトヴァーンとてよく理解していた。


 このままノヴォシアに逃げられでもすれば、バートリー家に待っているのは異端告発と黒魔術崇拝の罪による厳しい罰だ。貴族特権により死罪は有り得ないものの、今まで積み上げてきた全てを失う事は想像に難くない。


 完璧な計画だった筈だ、と今までの事を思い起こす。


 全てはあの小柄な少女―――ミカエル・ステファノッヴィッチ・リガロフ(とはいえ本人だという確証はまだない)がやった事だ。


 最初は小さな、壁に刻まれた傷のようなものだった。しかしそれを徐々に押し広げ、計画そのものが瓦解するに至ったのは、あの少女の手によるものだと断じていい。


「害獣め……!」


 所詮は畑を荒らし、農作物を食い荒らすハクビシン(害獣)でしかない相手にこうも辛酸を舐めさせられるとは。


 半ば癇癪を起しながら電話ボックスを出た。バンッ、と思い切り扉を閉じ、愛車に戻ってハンドルを握る。


 車内の照明を点灯させ、助手席にある地図を手に取った。


 全ての経路は封鎖した―――今のニレージュバルザから、ノヴォシア帝国領へと逃れる事は空を飛ばない限り不可能な筈である。


 ではどこかに抜け穴でもあったのだろうか。害獣が侵入するに足る抜け穴が。


「……」


 ふと、幼少の頃を思い出した。


 今は亡き父は鉄道が好きだった。特に用もないというのに、列車に乗って隣の街や遠く離れた街まで出かけ、散策する事もあるほどにだ。


 その散策に、幼き日のイシュトヴァーンも何度も同行した。バルベストの露店で食べた焼き菓子は、彼にとっては今でも鮮明に思い出せる思い出の味である。


 当時、ノヴォシア方面からニレージュバルザを経由し、王都バルベストへと続いていた路線は、今では廃線となっており使われていない。


 今の彼が手にしている地図には、その廃線となった線路は記されていなかった。それも当たり前であろう、この地図は最新版である。20年近くも前に廃線となった線路など記されている筈がない。


 地図に記載はないが、その路線については父の趣味に付き合わされたイシュトヴァーンはよく覚えていた。ちょうど目の前にある渓谷に架かる鉄橋が、その廃線となった路線のものだ。


「……!」


 ごう、と風が唸った。


 ガタンガタン、とレールを踏み締める音が夜風に紛れて彼の耳に届く。


 もう既に廃線となった筈の、目の前に見える古い線路―――使われなくなって久しいその線路の上を、黒煙を吐き出しながら列車が駆け抜けていくのを、イシュトヴァーンははっきりと見た。


 そうだ、あれこそが”抜け道”だったのだ。


 地図に記されていない線路―――憲兵隊の警備の網をすり抜けてノヴォシアへ帰還するならば、それしかあるまい。


 そうと分かればやるべき事は一つだった。


「逃がさん……逃がさんぞ、エカテリーナ……!」


 半ば獣の唸り声にも似た声を漏らしながら、イシュトヴァーンはアクセルを踏み込んだ。





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