ミカエルの剣は宙を舞う
ゴッ、と重いハイキックが、侵入者を仕留めようと駆けつけてきた警備兵の左のこめかみを強かに打ち据える。脚の筋力に加え、腰の捻りと適切な体重移動、そして遠心力まで乗った状態の脛で思い切り蹴り飛ばされた警備兵の身体が宙に浮き、そのまま複雑な回転をしながら壁に激突、上半身を壁にめり込ませ動かなくなる。
今の一撃で死にはしない―――適度に加減したクラリスは、相手の生存と戦闘続行不能を確認しつつ、抱き抱えたエカテリーナを連れて屋敷の中を全力疾走する。
目指すは中庭、侵入にも使ったあの断崖絶壁である。
先ほどから、クラリスの発達した聴覚がパトカーのサイレンの音を察知している。おそらくは最寄りの駐屯地に通報が行われたのだろう。ニレージュバルザを治めるバートリー家の屋敷に泥棒が入り込み、結婚したばかりの妻を拉致されたともなれば一大事だ。万が一のことがあればハンガリア憲兵隊の名に泥を塗る事になるだろうし、上層部の責任者の首もいくつか飛ぶことになるだろう―――それが比喩表現の範疇で済むか、それとも物理的な表現になるかは定かではないが。
そういう事もあって、憲兵隊も本気であろう。その証拠に聴こえてくるパトカーのサイレンの音が異様に多い。動かせる人員だけでなく、近隣の駐屯地への応援も要請したのだろうか。
いずれにせよ、このまま正門から出て行けば彼らと鉢合わせになるのは必然だ。クラリスが本気を出せば突破できない事は無いが、しかしミカエルから『殺すな』と命じられている以上、可能な限り戦闘は避けて然るべきであろう。
それに、バートリー家の裏庭の先に広がる断崖絶壁から犯人が離脱するなど、憲兵隊は考えもしていないに違いない。確かに高さ50m以上の断崖絶壁から飛び降りるのは自殺行為だが、適切な装備があればその限りではない。数多の侵入者を阻んできた天然の障壁が、極上の逃げ道たり得るのだ。
物陰からペッパーボックス・ピストル片手に飛び出してきた警備員の顔面に渾身の右ストレートをかまし、鼻の骨がブチ折れる音を響かせながら吹き飛んでいく警備兵。そのままドアを思い切り蹴破ったクラリスは、部屋の窓をタックルで粉砕して裏庭へと躍り出た。
「貴女、私をどこへ連れていくつもり!?」
抱き抱えられながら大人しくしていたエカテリーナも、ようやくこの非常事態に慣れてきたのだろう。唐突にそう言った彼女へ、ハーフタイプのフェイスマスクとゴーグルで顔を隠していたクラリスは短く応える。
「安全なところです」
少なくとも、夫に騙され黒魔術の生贄にされるような事の無い場所だ。
断崖絶壁から思い切りジャンプすると、瞬く間に重力が2人の身体を絡め取った。ぐんっ、と下へ引っ張られる感覚を覚えながら、クラリスは空中で身体を捻り右手に装着したアンカーシューターを射出。岩肌へと鋼鉄製のアンカーを打ち込み命綱とする。
周囲にエカテリーナ以外誰も居ない事を確認してから、クラリスは静かにゴーグルを外した。
爆発の破片から眼球を防護するためのそれの下から露になるのは、血のように紅く、爬虫類を思わせる独特な形状の瞳。
それだけで、エカテリーナは自らを連れ去ろうとする襲撃者の正体が何なのかを理解する。
「クラリス……!?」
「ご無事で何よりです、エカテリーナ様」
クラリス―――リガロフ家の庶子、ミカエルに仕える彼の専属メイド。姉弟の中では特にミカエルと顔を合わせることの多かったエカテリーナは、必然的に彼の専属メイドたるクラリスと顔を合わせる機会も多かった。
主人たるミカエルから片時も離れず、幼少の頃からずっと守ってきたクラリス―――その彼女がここに居て、エカテリーナの窮地を救いに来たという事は……あの襲撃者たちのリーダーと思われる、小柄な獣人の少女の正体は……。
(ミカ……あなたなの?)
ここで、彼女はあの時の事を思い出した。
エルゴロドのシャトー・バートリーを離れ、ハンガリアへと向かう際に駅のホームへとやってきたミカエルの事を。
加速していく列車に追いすがり、警備員を躱して何かを訴えようとしていた、腹違いの弟の必死な表情を。
今思えば、ミカエルはあの時点でバートリー家の本性に気付いていたのかもしれない。だからこそ、警備兵に身柄を拘束されるかもしれないリスクを冒してまで、姉を―――幼少の頃から優しくしてくれた恩人を救おうと、駆けつけてくれたのかもしれない。
そんな弟の気持ちも知らず、自分はなんと愚かな姉なのか。
自らを責める心境を察してか、クラリスは言った。
「悪いのは貴女ではありません。全てはバートリー家の連中が仕組んだ事です」
「でも……私のせいでミカが、みんなが……」
「大丈夫ですよ」
リールのロックを外し、断崖絶壁をゆっくりと降りながらクラリスは笑みを浮かべた。
「クラリスのご主人様、とってもお強いですから」
ヒュンッ、とバスタードソードが空を切る。
時間停止を発動し後方へ大きくバック、停止した時間の中でキャリコM960Aの銃口を向け、イシュトヴァーンへと向け引き金を引いた。0.5秒にも満たぬごく短い間の発砲だったが、しかしそれでも時間が止まった間の攻撃ともなれば察知は難しいだろう。
時間停止の解除と同時に、ハッとしたようにイシュトヴァーンは剣を振るった。
刀身に紅い電子回路状の模様が浮かんだ禍々しい大剣。その刀身が9mmパラベラム弾の弾雨を払い除けるが、それだけでは終わらない。
咄嗟に振り払われた斬撃の軌跡―――それをトレースするかのように紅い血の軌跡が残ったかと思いきや、それが三日月形の衝撃波として、こっちに向かって飛んできたのである。
ぎょっとしながらも身体を仰け反らせる。ミカエル君の身長が小さかった事にも助けられ、血の斬撃はぴんと立ったハクビシンのケモミミの真上を通過、後方にあったブロンズの騎士の像をバッサリと両断してしまう。
あれ高かったんじゃ、と思いつつ、その威力に驚愕していた。
血属性魔術―――他の属性よりも禁忌たる黒魔術に近い一面を持ち、それ故に他の属性を信仰する教会からは距離を置かれている異端の属性。それが内包する特性は多岐に渡り、攻撃のバリエーションもまた豊富であるとされる。
ああやって刀身に血を纏わせ、切断力の底上げと飛び道具としての運用を両立させているという事は、今の魔術の特性は”切断”に他ならない。闇属性や風属性、水属性などの魔術にも見られる特性だ。
ドンッ、とイシュトヴァーンが踏み込んだ。今の一撃を見せつけ、こちらに警戒心を抱かせて行動を制限しようという考えだったのだろう。
実際、派手な攻撃というのは最初に披露してしまった方が、相手への心理的影響は大きい。いつあの技がまた放たれるのか、と警戒させることにより、思い切った大胆な攻撃ができないよう行動を制限できる。
戦闘とは単なる大技で殴り合う戦いではない―――転生前、空手をやっていた時から痛感していた事だ。技の一つ一つ、挙動の一つ一つすべてに意味がある。
今度は縦斬りだった。大きく振り上げた剣を、腕の筋力を使って振り下ろしてくる。
間合いが少し遠い。これならば時間停止を使わなくても、バックジャンプすれば避けられる―――そんな安直な予測を、しかしミカエル君は考えなかったことにした。そんな選択をした未来にどんな悲惨な末路が待つか、この時点で理解していたからだ。
敢えて右へと床を蹴り回避。直後、ドンッ、と後方で壁が砕ける音が聞こえた。
振り向かずとも分かる、さっきの血の斬撃が、後方にあった壁を直撃したのだ。もしあの時、後方へジャンプして距離を確保しつつ銃撃で仕留めるという選択肢を選んでいたら、ブロンズの像すら両断する血の斬撃をもろに受け、ミカエル君はきっとジビエ料理にされていたに違いない。
その意図が見え見えだったからこそこうやって右へと回避したわけだが―――しかしそこはもう、銃の間合いではない。
剣の間合いだ。
まんまと飛び込んできたな、とばかりにイシュトヴァーンが笑みを浮かべた。振り下ろした剣を持ち上げながら腰を捻り、左斜め下からかち上げるような軌道で剣を振るってくる。
左手をフォアグリップから離し、腰の左側にある鞘から伸びる柄を掴んだ。
慈悲の剣を左手で逆手持ちにし、振り上げられたバスタードソードの一撃を受け止める。が、完全に衝撃を吸収するには至らず、勢いをもろに受けたミカエル君の身体は宙に浮いた。
「!」
ここで慈悲の剣の弱点が露呈する。
俺の魔術用の触媒として機能している慈悲の剣は、パヴェルの手によって造られた代物だ。素材には彼が保管していた賢者の石を使用しており、刀身だけで1mに達するサイズでありながら、その重量は1kgにも満たない。
サイズは少々大きいが、重量はそれほどでもなく行動の妨げにならない。しかも魔力損失が殆ど存在しないため、100%に近い状態の魔術を放つことができる優れものである。
触媒としてはこれ以上ないほど優秀だが、剣として見るとその扱い辛さには目を瞑らずにはいられない。
一番のネックが、その”軽さ”だった。重量1kg未満ということは、こちらが振るう斬撃はどう頑張っても軽いものになってしまうため、しっかりとガードを固めている相手には弾かれてしまうのである。
軽さを生かして素早い斬撃で勝負しようにも、それには限界がある。
そして何より、相手の攻撃を剣で受けた時にその軽さが牙を剥く。武器自体の強度は申し分なく、それこそダンプカーに踏みつけられても変形すらしないレベルなのだが、軽すぎるせいで相手の攻撃に伴う衝撃をもろに受ける事になってしまうのである。
何が言いたいかというと、この剣で攻撃をガードすると衝撃までは受け止められず、体勢を崩してしまうリスクが常に存在するという事だ。
そしてその弱点に、現在進行形でミカエル君は悩まされている。
身体が宙に浮き、踏ん張りも利かず無防備になる。イシュトヴァーンはこの瞬間を見逃しはするまい―――案の定、ここで仕留めると言わんばかりにかち上げた剣の切っ先を翻し、刺突で仕留めようと突き出してくる。
時間停止を発動し、その隙に着地。体勢を立て直しつつ距離を取ったところで、時間停止の効果時間が終了する。
「ちっ」
まんまと逃げられたことに苛立ったのか、イシュトヴァーンが舌打ちする。
仕留められなかった事だけではあるまい。戦闘を長引かせたくないという思いも、彼の中で徐々に癇癪を醸成してくれている筈だ。そうやって冷静さを失っていってくれればこっちが有利になる。
さて、と左手の慈悲の剣を空中へと放り投げながら思う。
相手が魔術を発動したのだ―――こっちも魔術を使って反撃しなければ、不公平が過ぎるというものだろう。
剣を構え、いつでも飛びかかれるように構えていたイシュトヴァーンが訝しむように空中を見上げた。
俺の手を離れた慈悲の剣。傍から見れば片刃の直刀にも見えるそれが、くるくると回転しながら宙を舞い、やがて重力に引かれて落下を始め―――その回転を、ぴたり、と空中で止めたのだ。
ミカエル君の敵意を反映したかのように、切っ先をイシュトヴァーンへ向けた状態で、だ。
―――磁力操作。
雷属性魔術の特性、『電撃』と『磁力』の内の片割れだ。磁力操作は困難を極め、それを自由自在に操れるようになるまでにはそれなりに長い時間を要したが……空の薬莢を使った練習の積み重ねが、ここで発揮される。
左手を振り上げ、それを振り下ろした。
空中で静止していた剣が、その手の動きをトレースするように振り下ろされる。ぎょっとしたイシュトヴァーンがバスタードソードでそれを払い除けるが、弾かれた慈悲の剣は空中で姿勢制御を行いつつ再度展開、薙ぎ払った左手の動きに合わせて後方からイシュトヴァーンを狙う。
「!?」
ガギンッ、と剣の弾かれる音。奇襲を払い除けられた剣が回転しながら宙を舞うが、その隙に今度は右手のキャリコM960Aが火を噴いた。
広間の中で火薬の弾ける音が乱舞し、再び9mmパラベラム弾の弾雨がイシュトヴァーンを襲う。
「小癪な!」
くるりと回した剣を床に突き立て、一気に魔力を解放するイシュトヴァーン。爆発するような音と共に、彼を取り囲むかのように紅い衝撃波が生じ、彼の肉体を射抜かんと疾駆していた弾丸たちがそれに払い除けられる。
なるほど、そんな技も……。
魔力放出を応用した衝撃波というアレンジに感心しながらも、攻撃の手は緩めない。
キャリコの銃撃と、磁力魔術による剣の浮遊―――2つの攻撃に、果たして対処できるか?
思い知るがいい。
ミカエルの剣は―――宙を舞うのだ、と。




