ミカエルVSイシュトヴァーン
『ねえ父上、どうして人は神に祈るの?』
『それはねえ……人は神様が大好きで、神様も人を愛しているからさ』
15年前
―――神も人を愛している、という父の言葉は、偽りだったのだろうか?
ベッドの上ですっかり冷たくなり、二度と動く事の無くなった父の身体。縋るようにすすり泣く母の姿をぼんやりと見つめながら、私は父の言葉を思い出す。
神は人を愛している―――もしそうだというのなら、普く全ての生命が祝福されて生まれてくるのだとしたら、なにゆえ神は死という終着点を設けたのか?
本当に、心の底から愛しているのだとしたら、生命全てが忌避する死という要素を取り除いて然るべきではないのか?
実は神たちはヒトを愛してなどおらず、終末に向かい進みつつも足掻くヒトの姿を愉しんでいるだけなのだとしたら?
そう思うと、父の言葉は嘘だったのかもしれない―――父上は騙されていたのかもしれない、という答えが自分の中で固まってきて、何とも言えない気分になった。
さきほど、神父に問うた。父はいったいどこへ行ったのか、と。
すると父上の死を看取った神父はこう答えた。神の元へ行かれたのです、と。
では、父上を死なせたのは神なのか?
神が定めた運命で、父上は死んだのか?
愛している筈の神が、父上を―――なぜ?
どす黒い想いは胸の奥底へと降り積もり、今まさに溢れようとしていた。
そしてそれは、純粋だった私の信仰心を曇らせるにはあまりにも十分すぎた。
神は人の運命を弄ぶばかり―――本当は愛してなどいない。
ならばこちらも、神を愛する必要はあるまい。
その日からだった。私と母上が―――神と対極の存在を信仰するようになったのは。
異端の魔術に手を染めたのは。
いつぶりだろうか、こんなにも心の内側が焼け付くような感覚は。
下手をすれば我が身すらも焼きかねない怒りを宿しながら、イシュトヴァーンは自分の妻を―――否、黒魔術の生贄としてノヴォシアから連れてきた生贄を奪っていった不届き者を猛追していた。
無表情を装っている彼であるが、その内面では怒りがただただ荒れ狂っている。少しでも感情を込めれば、それはたちまち怒りに取って代わられるであろう。
そのリスクは重々承知していた。適度な怒りは戦闘において有利に作用するが、過ぎた怒りは枷となる。視界は狭まり、判断を誤る要因となりかねないのだ。ミスが許されない局面において、怒りを前面に押し出し戦うのは愚の極みである。
だからこそ、ギリギリの縁で冷静さを保っていたからこそ、その不意の襲撃には反応できた。
バートリー家の屋敷の1階にある広間。来客を待たせておくための空間から、唐突に無数の弾丸が飛来したのである。
「―――」
身体を捻り、飛来した弾丸を紙一重で躱す。頬の皮膚が薄く裂け、微かに紅い血が滲み出たが、掠り傷の範疇だ。ダメージとも呼べぬ傷を受けながらも攻撃の発生源を睨んだ彼の視界に映ったのは、やはり妻を、エカテリーナを連れ去った連中の1人が立っていた。
小柄な少女のようだった。スーツの上に銃の弾倉を収めておくためのポーチ―――チェストリグを装着し、その上から前を大きく開いた状態で、ファーの付いたコートを羽織っている。
黒と白のツートンカラーのそれに身を包んだ襲撃者の顔は、しかしガスマスクのせいで窺い知れない。黒塗りのガスマスクには、眉間の辺りにかけて白い線が描かれており、害獣として忌み嫌われるハクビシンを彷彿とさせる。
手にしているのは銃―――この世界のマスケットとも違う、先進的な技術によって製造されたものである事は確定であろう。人間が携行できるサイズで、ガトリング砲の如き速射と弾数を兼ね備えたそれは、戦闘において大きな脅威となる。
襲撃者の腰には、小柄な肉体には見合わぬ剣があった。
先ほどの銃撃は、あわよくば仕留めるつもりで放ったものであろう。が、そう判断する一方で、イシュトヴァーンは先ほどの銃撃に自らを誘い込むような意図を感じていた。否が応でも意識をそちらに向けさせ釘付けにする、というような意図が。
すると、小柄な襲撃者―――ミカエルは、無造作に何かを放り投げた。
爆発物―――いや、違う。白い手袋だ。バートリー家で雇っている使用人たちが装着している白い手袋。逃走の最中、どこかから盗んだものだろう。汚れ一つない上質な手袋はひらひらと宙を舞い、やがて天井が反射するほど磨き抜かれた大理石の床の上に落ちる。
(決闘のつもりか)
ハンガリアにおいて、こうして相手に手袋を投げつける行為は決闘の申し込みを意味する。元々は海の向こう、聖イーランド帝国の貴族間での風習だったそれが、海を渡ってハンガリアにも定着したものだ。
私と戦え―――言葉を交わさなくとも、その意図はイシュトヴァーンには十分に伝わった。
無論、そんな暇はない。今こうしている間にも、エカテリーナを連れた襲撃者の仲間たちは屋敷からの脱出を図ろうとしている。もし万が一、エカテリーナをまんまと連れ去られようものならば、バートリー家に待ち受ける未来は破滅に満ちたものとなるだろう。異端の黒魔術を使おうとしていた、と密告されれば、イシュトヴァーンやエリザベート、そしてそれを知りながらも黙認していた使用人たちは宗教裁判によって裁かれる。
それを防ぐためにも、今は貴様の相手をしている暇はない―――そう思いながら相手を睨んだが、しかしこの広間を突破しなければ逃走した連中の追撃が出来ないのもまた事実だった。
ならば、とイシュトヴァーンは剣を構えて腰を低くし、床から踵をわずかに浮かせる。
(―――短期決戦で終わらせればいい!)
剣を構えたのを決闘への合意と見たのか、ミカエルは手にした銃―――キャリコM960Aを構え、引き金を引いた。
100発入りのヘリカルマガジンがゼンマイの力で9mmパラベラム弾を矢継ぎ早に薬室へと送り込んでいく。撃針で穿たれ、薬莢内の装薬を目覚めさせた9mm弾たちは発射ガスに押し出されながらライフリングによる回転を付与され、銃口から飛び出していく。
視線と引き金にかけた指の動きから、イシュトヴァーンは発砲のタイミングを推し量っていた。その予測は見事に的中し、振り払ったバスタードソードの刀身を9mmパラベラム弾が打ち据える衝撃が伝わってくる。
距離を詰めて一気に斬り捨てる―――短期決戦を狙うイシュトヴァーンの意図は、キャリコM960Aで応戦するミカエルもよく理解していた。
彼からすれば、黒魔術の発動という最大の禁忌が明るみに出るか出ないかという瀬戸際だ。是が非でもここを突破してエカテリーナの奪還を阻止、黒魔術の一件を完全に封殺する事を目論んでいるのであれば、短期決戦を挑もうとしてくる筈である。
だからミカエルにとって、時間稼ぎこそが勝利条件と言っても良かった。
このまま戦闘時間を引き延ばし、仲間の略奪行為とエカテリーナを安全圏まで連れ帰るまでの時間稼ぎをすればそれで良い。最大の脅威たるイシュトヴァーンを釘付けにできれば、仲間たちにかかる負担は一気に軽いものとなる。
―――しかし。
強欲なミカエルの内面は、それを良しとしなかった。
確かに時間さえ稼げば勝ちと断じて良いだろう。しかし、ミカエルからすればイシュトヴァーンは姉に偽りの愛を誓いその未来を弄び、あまつさえ黒魔術の生贄として”消費”しようとした極悪人。単なる時間稼ぎと、その後に待っているであろう宗教裁判による処罰だけで腹の虫が収まるほど、ミカエルも謙虚な男ではない。
ぶちのめす―――仲間にイシュトヴァーンとの一対一の勝負を申し出た時点で、彼はそう心に決めていた。
合理的な理由と、個人的な理由が合致した状況―――これほどにまで迷いのない状況は他にあるまい。
あと一歩で剣が届く―――踏み込み、全体重を乗せた重い剣戟を放ったところで、イシュトヴァーンは目を見開いた。
(……む?)
確かに必殺の間合いだった筈だ―――今のまま剣が振るわれていれば、その刀身は無粋な襲撃者の首を刎ね、勝負を終わらせていたであろう。相手が反応できぬ速度での一撃で、勝負はつくという自負は確かにあった。
これで終わり、という確信と共に放たれた一撃に、しかし何の手応えもない。刃が柔肌を寸断する感触は無く、ただただ空気を切り裂く軽い感触が、柄を通じて彼の手に伝わって来るのみである。
空振りした―――間合いを見誤ったか、と思考する彼を、いつの間にか距離を取ったミカエルが攻撃してくる。弾切れなど無いのではないか、と思ってしまうほどの勢いで9×19mmパラベラム弾を射かけてくる彼に、再び肉薄し剣を振るうイシュトヴァーン。
しかし、またしても結果は同じだった。これならば当たる、これならば殺れる、という確信を纏った一撃は、先ほどと同じように空を切るのみである。
そこで彼は見た。
斬撃が今まさにミカエルの喉元を切り裂かんとする瞬間―――まるで”時間が飛んだ”かのように、ミカエルが後方へと瞬間移動しているように見えるのだ。
純然たる異世界人のイシュトヴァーンには知り得ぬ例えであるが、まるで電波の回線の状況が悪いオンラインゲームでよく見るような、そんな現象である。相手の動きがリアルタイムで反映されず、時間が飛んだような動きになる―――いわゆる”ラグい”状況、と言うべきか。
(時間操作……時間を加速させたのか?)
真っ先に、イシュトヴァーンは時間の加速を疑った。
無論、そんな特性を持つ魔術は存在しない。時間を自由に操れる魔術があるとすれば、それは本当の神の御業―――それこそ”魔法”の域である。
考えられるのは、そういった超常現象の発動を可能とする遺物の類を相手が所持している、という事だ。
世界中で信仰の対象とされている英霊たちが、まだヒトの身であった頃の装備品。それは持ち主が天に召されると共に格上げされ、特別な力を帯びた遺物に昇華した―――あるいは元から特殊な力を帯びた代物、とされている。
聖イーランド帝国のどこかにあるとされている、アーサー王の聖剣エクスカリバーもそのうちの一つだ。
こんなコソ泥が遺物を持つなど、と胸中で渦巻く怒りに新たな薪が投入され燃え上がる一方で、溢れんばかりの怒りを抑えきっているイシュトヴァーンの理性は、ミカエルの追撃を一時中断し冷静に分析していた。
時間を操作し己の速度を倍速化する―――もしそうであれば、高速移動に伴う空気の流れが彼にも感じ取れるはずである。白兵戦を挑もうとしているのだから、それは確かに感じ取れるはずだ。
しかし一度目ならず二度目までも、そのような空気の流れは感じ取れない。
であれば瞬間移動か、とも考えたが、それにしては移動している距離が短すぎる。本当に瞬間移動しているのであればもっと長距離を移動しているだろうし、拉致したエカテリーナを仲間に預けず、自らが逃走役を買って出て然るべきであろう。
消去法で考えていくと、やはり考えられるのは時間操作系の能力しかあり得ない。
(まさか時間停止か?)
行き当たった答えに、しかしイシュトヴァーンは疑問を抱く。
時間を停止し、全てが静止した世界を自由に動き回れる―――もしこれが正解なのだとしたら、恐るべき能力である。時間が止まった事を誰もが知覚せず、その隙に致命的な一撃を入れられればそれで勝負がついてしまうからだ。
しかし、相手はそれを回避にしか使っていない。
その気になればイシュトヴァーンの眉間に弾丸を叩き込む事も出来る筈なのに、なぜ?
(あの移動距離の短さと、能力を回避にしか使っていない点から見て……時間停止の効果時間はそう長くない、か)
最もしっくりくる答えが出たところで、イシュトヴァーンは自分の魔力を活性化させた。
(あの移動距離からして、時間停止の効果時間は1秒、長くて2秒。ならば2秒先の移動距離を推し量った上で攻撃すればよい)
ぐっ、と左手をバスタードソードの刀身に這わせ、刃を握った。
ぶつっ、と皮膚が裂ける嫌な感触。熱い何かが溢れ出る感覚に遅れて、鋭い痛みが脳まで一気に突き上がってくる。
浅く切れた手のひらから、紅い血が滲み出す。しかしそれは重力の向きに逆らうように、彼が持つバスタードソードの刀身の表面を這い回り―――白銀の刀身に、電子回路じみた模様を出現させる。
血属性魔術―――最も黒魔術に近く、他の宗教からは忌避されるその力が、ついに露になろうとしていた。
倒せない相手ではない、という結論が先ほどまでの小手調べで分かった一方で、ミカエル君の脳内に居る二頭身ミカエル君ズが必死に警鐘を鳴らしている。
おそらく時間停止の能力を見破られた、と。
時間を止めているという能力だけでなく、移動距離からその効果時間まで算出されているだろう。そうでなければ、二撃目を躱されたところで血属性魔術を発動、本腰を入れた攻撃に転じようなどとは考えない筈だ。
イシュトバーンほどの、冷静な男であれば猶更である。
まいったね、とこちらのカードを見破られた事に対して素直に思う。ジョーカーのカードを見破られた可能性がある以上、迂闊に乱発は出来ない。少なくともさっきと同じノリで回避させてはくれない筈だ。
フォアグリップを握り、ストックを肩に食い込ませながらキャリコを撃った。頭の中に思い浮かべた残弾のカウントが凄まじい勢いで減っていき、銃口から弾丸が飛び出る寸前のタイミングでイシュトヴァーンが動き始める。
引き金を引く指の動きで発砲のタイミングを推し量っているのだ。
ならば、とここで時間停止を発動。イシュトヴァーンの動きが完全に静止した世界の中で、俺は彼が1秒後に居るであろう場所へと向けて、キャリコの引き金を引き続けた。
銃口から飛び出た弾丸が、1mちょっとくらいの距離を飛翔してから、静止した世界に組み込まれたかのようにぴたりと停止していく。
空中で動かなくなった9mmパラベラム弾たちは、しかし時間停止の終了と共に一気に目覚めた。本来の運動エネルギーを取り戻した彼らが、弾丸の束となってイシュトヴァーンの移動先へと向かって飛んでいく。
「!!」
咄嗟にバスタードソードを横倒しにし、盾代わりにして弾丸の直撃を防ぐイシュトヴァーン。時間停止中からの攻撃によく反応したものだと感嘆するが、しかし彼も無傷では済まない。左肩に1発の9mmパラベラム弾がめり込んで、仮面のように無表情だった彼の顔に、やっと苦悶の表情が浮かんだ。
まだだ。
まだまだこれからだ。
時間停止を見破った程度で―――勝った気になるなよ、イシュトヴァーン。




