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その襲撃は嵐の如く


 埃の臭いがする空気の中で、緩やかに意識は戻り始めた。


 先ほどまで何をしていたか……ここはどこか、と周囲を探り始めるのと並行して脳裏に浮かんだ疑問に答えるかのように、目の前に立っていた男が優し気な笑みを浮かべながらエカテリーナの顔を覗き込む。


 見知った顔だ―――イシュトヴァーン・バートリー。エカテリーナの婚約者であり、今の夫。バートリー家の屋敷にある大聖堂に神父を招き、共に永遠の愛を誓い合った伴侶。その存在は困惑するエカテリーナに安堵を与えるに十分であったが、しかしその隣に立つ義理の母、エリザベートがこれ以上ないほど嬉しそうな笑みを浮かべているのを見て、エカテリーナの胸中に浮かんだ安堵は瞬く間に再び不安に塗り潰される。


 義理の娘を見ているとは思えない笑み―――まるで子供が欲しがっていた玩具オモチャを手に入れたような、そんな無邪気さがある。


「あれ……イシュトヴァーン様……? ここはいったい―――」


 ガチャ、と鎖の音が鳴り、そこで初めてエカテリーナは自らが拘束されている事を知った。


 両手を繋ぐ鎖と枷。それは自分が今寝かされている台の上に繋がれていて、足にも同様の枷がある。振りほどこうともがくエカテリーナであったが、華奢な彼女の手足を拘束する枷はその程度では外れない。


「イシュトヴァーン様、いったいなにを―――」


「……すまない、リーナ。母上のためだ」


 コツ、コツ、と石畳の床を踏み締めるイシュトヴァーンの足音が段々と近付いて来るにつれ、エカテリーナは自分の顔が青くなっていくのを自覚した。少なくともこれから起ころうとしているのは、自分の命に関わる事だ―――詳細が分からなくても、それさえ察する事さえできれば危機感というものは容易く抱けるものである。


 腰に下げていたバスタードソードが引き抜かれ、その予感が確信に変わった。このままでは殺される―――自分に待ち受ける未来がついに本性を現し、エカテリーナは必死に手足を動かそうと足掻く。しかし鋼鉄製の枷はその程度では外れない。


「貴女には申し訳なく思ってるわ、エカテリーナ」


「お母様っ、なぜ……!?」


「私にはね、血が必要なの……貴女のように若々しく美しい処女の血が」


 そう言いながら、エリザベートは傍らにある壁のスイッチを操作した。


 ゴゴン、と重々しい音が響いたかと思いきや、薄暗い部屋の天井がスライドし、新たにガラス張りの天井が出現した。ガラスを補強するために鋼鉄製のフレームも見えるが、よく見るとそれが魔術の発動に必要な紋章を形成していることが分かる。


 見た事の無い形状の紋章だった。上面が欠けた円と逆十字、そして上下が逆転した五芒星。周囲を装飾する幾何学模様は古代ハンガリア語(マジャール語とも呼ばれる)だろうか。


 血、悪魔、生贄……一部のスペルこそ違えど、そこに並ぶ幾何学模様の内の一部はエカテリーナの知識でも辛うじて解読できた。現代のハンガリア語でも使われる事がある、物騒な単語の羅列。そこで彼女は悟る。


 これから始まるのが黒魔術の儀式であり、自分はその生贄に選ばれたのだ、と。


 黒魔術―――多くの教会で異端とされている、学ぶ事すら禁忌とされる魔術の総称。


 他者を呪ったり、悪魔を召喚するといった、神や英霊を崇拝しその恩恵を受ける今の人間社会の秩序を根底から破壊しかねない禁術たち。教会に発見されれば異端として闇に葬られるそれが、今ここで発動しようとしているのだ。


「黒魔術……!?」


「正解……ごめんなさいね、エカテリーナ。私の永遠の美しさのために、糧になって頂戴」


 魔法陣を模したガラス張りの天井の向こうには、夜空に昇る真紅の三日月が映る。


 まるで闇夜に刻まれた傷口のような、あるいは数多の返り血に染まった死神の鎌を思わせる紅い三日月。禍々しいその光に照らされるエリザベートの姿は、エカテリーナの目の錯覚であろうか―――人間離れした牙を持ち、新たな贄を前に笑みを浮かべる悪魔のようにも見えた。


 永遠の美しさのため―――人間には必ず訪れる老い。それに抗うためだけに、エカテリーナはこれから生贄にされるのだ。


 たすけて、と口から声が漏れた。


 エリザベートにすら聞こえない程小さく、弱々しく、今にも消えてしまいそうな彼女の声。救いを求める乙女の声は、しかし闇に阻まれ届かない。


 誰も助けには来てくれないのだ。


 結婚を祝福するため、わざわざハンガリアの地まで足を運んできてくれた両親や、仕事が多忙で手が離せない代わりに手紙で結婚を祝ってくれた姉弟たち、そして―――姉の結婚を祝福し、一言挨拶しようと自分の元を訪れてくれたミカエルにさえも。


 彼女の助けを求める声は、届かない。


 全てが闇に吸い込まれ、葬られる。


 剣を引き抜いたイシュトヴァーンが、傍らまでやってきた。


 今の彼の顔には、何の表情も浮かんでいない。


 婚約が決まり、お互いを将来の伴侶と認め合ったあの時のような喜びも、そして永遠の愛を誓い、キスを交わしたあの時のような笑みも、そしてこれからその妻を手にかけようとする事に対する躊躇も、全てが微塵も感じられない。


 まるでロボットだった。


 母の願いを叶えるためだけに、淡々と役目を果たそうとするロボット。


「―――赦せ」


 その言葉は、まだ彼の心に残っていたヒトとしての理性が絞り出した声だったのだろうか。それとも、彼女を裏切る事に対しての罪悪感が生み出した言葉だったのだろうか。


 その答えを明かすことなく、イシュトバーンは剣を振り下ろす。


 ああ、私は死ぬのだ―――そう悟るエカテリーナの喉元へ、夫の剣が迫る。


 が、それが彼女の首を寸断する事は無かった。


 白銀の刃が、エカテリーナの柔肌を切断する直前―――銃声にも似た乾いた音が連鎖したかと思いきや、ガギュ、と弾丸が金属に命中し跳弾する甲高い音が響いたのである。


 ハッとしながら顔を上げる。


 銃声で一気に騒がしくなった秘密の隠し部屋。その中で、剣を手にしたイシュトヴァーンがそれを縦横無尽に振り回し、立て続けに飛来する銃弾を弾き続ける。音速を超えて飛来する弾丸を何度も何度も弾くその技量には息を呑むが、しかし嵐のような銃撃は止まらない。


 銃撃から自分の身と母を守るため、迂闊に身動きが取れないイシュトヴァーン。その間に、拘束されているエカテリーナの元へと、新たな影が忍び寄る。


 ベースボールキャップとコンバットパンツ、コンバットシャツに身を包んだ、身長183㎝の大柄な女性。さながらアスリートのような体格の彼女が忍び寄ったかと思いきや、バギンッ、と素手でエカテリーナの手足を拘束していた鎖を引き千切り、そのまま彼女の身体を抱き抱えてその場を飛び退いたのである。


 3秒足らずの早業に、抱き抱えられ、どこかへと連れ去られようとしているエカテリーナは言葉が出なかった。ただ今は、なんとか死なずに済んだと―――命の危機からは遠ざけられた、という安堵が心を満たしていた。


「リーナ!」


 夫が呼ぶ声がする。


 振り向くと、立て続けに飛来する銃撃を剣で弾きつつも後を追おうとするイシュトヴァーンの姿が見える。


 しかし彼の剣術の技量もそうだが、襲撃側の射手の攻撃も巧みだった。


 一見すると何も考えずに弾丸をばら撒いているかのように見えるが、その攻撃には明確な”強弱”があった。弾幕の濃度に強弱をつけ、確実に防げる攻撃と、全身全霊で防がなければならない攻撃を複雑に絡み合わせることで、イシュトヴァーンをあそこに釘付けにしている。


 彼女を軽々と抱えていた長身の女性が、弾幕を張り続けていた射手の傍らへと滑り込む。


 そこからの動きはまさに、突風の如くだった。射撃を継続する射手の傍らで共に銃を乱射していた小柄な襲撃者が、ポーチから取り出した酒瓶を無造作に放り投げ―――イシュトヴァーン目掛けて飛んでいくそれを、空中で撃ち抜いたのである。


 中に収まっていたのは酒ではなく―――どろりとした、蒼い半透明の液体だった。


 それは空気に触れるや、バチバチとスパークを発し―――内に秘めていたのであろう電撃を、今まさに追撃せんとするイシュトヴァーンの進路上にぶちまけたのである。


 直撃こそしなかったものの、連れ去られようとしている妻を……いや、儀式用の生贄を奪還しようとする彼の出鼻を挫くには十分すぎる攻撃だった。


「目標確保!」


「退け、退け!」


 変声魔術で変換された、男とも女とも聞き取れぬ声でのやり取り。聞こえてきたのはハンガリア語だったが、しかしその発音の中にはノヴォシア語において多用される巻き舌発音が、まだ残っているようにも感じられた。


 彼らはノヴォシア人なのだろうか。


 射撃を中断し、離脱に移る襲撃者たち。3分足らずの嵐のような襲撃はこうして成功し、エカテリーナは辛うじて救われた。













 計画が狂った瞬間ほど、彼を怒り狂わせるものは存在しない。


 それは幼少の頃からだった。予め立てていた予定が根本から覆る瞬間というものは、これ以上ないほど彼の心の中に、煮え滾るマグマのような癇癪を残していく。


 握りしめた拳がブルブルと震えるのを感じながら、しかしイシュトヴァーンの理性そのものは思ったよりも冷静であった。


 怒り狂わんとする肉体を抑制しながらも、彼は奴らを逃がすわけにはいかないと考える。


 計画が潰える―――年に一度しか昇る事の無い真紅の月。このチャンスを逃せば来年まで待たねばならなくなるが、しかしここで逃がしてしまったら、その”来年のチャンス”が訪れるかどうかも怪しいところだ。


 もしエカテリーナが、この一件を教会に告発しようものならば、バートリー家に待ち受けている未来は破滅しかない。あらゆる教会において異端とされる黒魔術、それのためにノヴォシア人の妻を生贄にしようとしていたという事が明るみに出れば、母も、そして自分も異端者の烙印を押される事になるであろう。


「イシュトヴァーン、奴らを追いなさい!!」


 戸惑い、半ばヒステリックに叫ぶ母。その命令を聞くよりも先に、イシュトヴァーンは動いていた。


 ―――逃がしはしない。


 母のためにも。


 そして幼少の頃に交わした、”悪魔”との約束のためにも。













「こちらグオツリー、ターゲットを確保した」


《でかした。作戦通りにはいかなかったが問題ない、プランBだ》


「プランB、了解」


 さっきの制圧射撃で撃ち尽くしたキャリコM960Aの100発入りヘリカルマガジンを取り外し、ダンプポーチへとそれを収めてから予備のヘリカルマガジンを引っ張り出す。マガジンを装着しコッキングレバーを引きながら、クラリスが抱き抱えるエカテリーナ姉さんの方をちらりと見上げた。


 ピンクのドレス姿で、困惑したようにきょろきょろと俺たちを見渡している姉さん。いきなり殺されかけたところを、これまた正体不明の集団に連れ去られたのだから無理もないだろうが―――ともあれ、彼女に怪我は無いらしい。


 こっちは強盗の際に身に着ける”強盗装束”姿だから、素顔は見えない。俺だって顔を隠すためにガスマスクを装着しているし、声で正体を悟られぬように変声装置が取り付けてあるから、声を聞いただけで俺の正体が弟だとは分からない筈だ。


「あ、貴方たちはいったい……?」


「味方ですよ、貴女のね」


「味方? 貴方たちは何者なのです?」


「―――ファンの1人だよ」


 ジョークで答えながら、ミカエル君は考える。


 問1、果たして黒魔術用の生贄をイシュトヴァーンのクソ野郎が逃がすかどうか考えよ―――答えは単純明快、NOだ。儀式はこれで失敗、紅い月は既にパラケルスス軌道から逸れ、黒魔術の発動に必須となる時間帯も終わりつつある。


 しかしそれ以上に、ここでエカテリーナ姉さんを逃がしたとなればバートリー家に待ち受ける未来は破滅のみ。もし彼女がここで受けた仕打ちを全て教会に告発すれば、バートリー一族は異端者の烙印を押され処罰されるのは確実であろう。


 ハンガリアの貴族特権において死罪は免れるだろうが、下手をすれば殺されるよりもエグい罰が下される可能性は高い。


 それを防ごうと、イシュトヴァーンは死に物狂いで後を追ってくる筈だ。


 その証拠に、さっきから猛烈でどす黒い殺気が背後から迫って来るのを感じる。元々臆病な性格のハクビシンは、そういう殺気に敏感だったりするのだ……食物連鎖でも割と下の方に位置するからこそ、そういうのには肉食獣よりも鋭敏だったりする。


 さて、それではどうするか。


 もちろん姉さんの身柄の確保が最優先事項となるが、それだけで済ませるほどミカエル君は甘くはないつもりだ。バートリー家の連中にもキッチリと制裁を科さなければ、腹の虫が収まらない。


 いくらか略奪行為をして行っても良いが、そうなると猛追してくるであろうイシュトヴァーンの存在が障害となる。


 ならば―――。


「グオツリーより各員、奴は……イシュトヴァーンは俺が引き付ける」


「!?」


「グオツリー、危険だ」


 隣を走るセロと前を走るクラリスが、ぎょっとしながらこっちを見た。後ろを走るモニカはというと、どうせそう言うと思ったと言わんばかりに呆れたような顔をしている。


「バウンサーはその間に彼女の身柄を安全圏へ。バレット、”ヴォルフ”は屋敷内での略奪行為を行え。その間俺は奴をぶちのめす」


 当たり前だが、強盗での収益は略奪した盗品の金銭的価値によって上下する。よって何も盗まなければ金にはならない。


 仲間たちもそれは分かっているだろう。それにバートリー家の連中への制裁として略奪を選択したのだから、このまま何も手を付けずに屋敷を去るというのも論外だ。


 俺がイシュトヴァーンの相手をして時間を稼ぎ、その間にクラリスが姉さんを連れて安全圏まで退避。モニカとセロは心行くまで屋敷内で略奪を行う―――今のところ、相手に損害を与えられる作戦はこれくらいしか思いつかない。


 仲間たちが止めようとするが、しかし無線機の向こうにいる黒幕フィクサーは案外乗り気だった。


《大丈夫だ、ウチのエースは奴よりも速い。交戦を許可する》


 ……ありがとよ、パヴェル。


 姉さんを頼む、とクラリスにアイコンタクトし、俺は足を止めた。


 後ろを振り向き、息を吐く。


 ―――さあ来い、イシュトヴァーン。




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