紅い月の夜に
今夜は夜空がうっすらと紅い。
太古の昔から変わらぬ星空には、紅い傷跡を思わせる三日月が昇りつつある。いつもであれば白銀に輝く月が、今宵はまるで数多の返り血に塗れたかのように、紅く、紅く、ただただ紅く輝いて、夜空から大地を見下ろしている。
災禍の紅月と呼ばれる、一年に一度だけ月が紅く染まる夜。
太陽の光の反射の関係で紅く見えるという科学的な説から、この世界で死んでいった者たちの怨念が原因というオカルトな説まで幅広く議論されているけれど、どうして月が紅く染まるのか、その結論は未だに出ていない。
「リーナ」
自室で本を読みながら月を見上げていると、向かいの席で血のように紅い赤ワインを飲んでいたイシュトヴァーン様が私を呼んだ。
「そういえば、君に見せたいものがある」
「あら、何かしら」
まだノヴォシア訛りのあるハンガリア語で答えると、ついて来て、と言いながら彼は立ち上がった。
バートリー家の屋敷はとても古い。イシュトヴァーン様の話だと、この屋敷は120年前の旧人類滅亡よりも遥か昔、イライナがまだ”イライナ公国”として産声を上げたばかりの頃に建てられたものだ、と聞いた。
信じられない話だけど、一時期はここを吸血鬼たちが占拠していて、それを退治した後にバートリー家がこの屋敷を自らのものとしたのだとか。
だからこんな断崖絶壁に屋敷が建てられているのね、と納得する。そう言われてみれば、ニレージュバルザの市街地から見るバートリー家の屋敷は、まるでお伽噺に登場する吸血鬼の屋敷のよう。
イシュトヴァーン様に導かれるままに、私は部屋を出た。
今夜は少し寒い。
もう春だというのに、秋のように冷えている。ちょっと暖房が欲しくなるような寒さの廊下を歩き、曲がり角に差し掛かる。
「ねえあなた、見せたいものってなあに?」
「それはね……秘密だよ、リーナ」
「秘密?」
次の瞬間だった。
後ろから手が伸びてきたかと思うと、口元に柔らかいガーゼのようなものを押し当てられた。ぎょっとしながらもがこうとしたけれど、ガーゼから漂う仄かな刺激臭が脳まで広がったかと思うと、身体中から急激に力が抜け始め、気が遠くなっていく。
これ、なんだっけ……家庭教師の先生が、科学の科目で教えてくれた薬品。確か……クロロホルム、だったかしら。
一体誰が? どうしてこんな事を?
訳も分からず意識から手を放していく中、微かにイシュトヴァーン様の「地下に運んでおけ」という声だけが聞こえ、それっきり私の意識は途切れた。
なるほど、ありゃあ確かに吸血鬼の城だ。
ハンガリア王国東部の街、ニレージュバルザ。遥か昔、この街には吸血鬼が住んでいた、という伝説が残っているのだという。
とはいってもそれは今のイライナ地方の前身、イライナ公国が建国された頃の話。1000年以上も前の話だ。当時のハンガリア王国騎士団が総力を挙げて国内の吸血鬼を掃討、ニレージュバルザを奪還し、この地を治める事となったのだとか。
その際に騎士たちを最前線で指揮し、ニレージュバルザ奪還の功労者となったのが初代バートリー家当主、『ミハイ・バートリー』であるとされている。
ブハンカを市街地から少し離れたスラムに停車させ、車を降りた。ドアを閉め、断崖絶壁の上で紅い月を背景に佇むバートリー家の屋敷を睨む。星空を赤々とした光が照らしているからなのだろうか、崖の上に屹立するバートリー家の屋敷が、まるでこの世のものとは思えぬ存在に見えてしまう。
まるで紅い月の昇る夜に、魔界から蘇った悪魔の城……そう思ってしまうのは考え過ぎだろうか。
「作戦通りにいくぞ」
「了解ですわ」
「わかった」
バートリー家の屋敷へ突入するのは俺、クラリス、モニカ、セロの4人。
リーファ、マルガレーテ、シスター・イルゼの3人は退路の確保及び脱出支援。理想は相手にこちらの侵入を露見せず、何事もなかったかのように逃げ切る事なのだが、恐らくそう上手くはいかないだろう。
脱出の際には大勢の追手に追撃されることが想定される。市街地には憲兵隊の駐屯地もあり、大量のパトカーが10分以内に押し寄せる事は想像に難くない。
そうなったら、彼女たち3人に支援してもらう事になる。
「お嬢、すまないが背中は任せる」
「……無事に帰ってこないと承知しないんだから」
「はいよ」
《”フィクサー”より各員、フィクサーより各員。間もなく月が”パラケルスス軌道”に乗る。時間はあまり無いぞ》
パラケルスス軌道とは、災禍の紅月の際に黒魔術関連の儀式を行うのに最も適した時間帯だ。ちょうど血のように紅く染まったあの月が、地球に最も接近する時間帯であり、その最中に黒魔術を行うと儀式の成功率が最も上がるとされている。
つまり、バートリー家の連中がエカテリーナ姉さんを生贄に黒魔術を発動するとしたら、その時間帯しかありえないという事だ。
作戦用の通信端末を取り出した。そこには既に、パラケルスス軌道までの残り時間のカウントダウンが表示されている。あと30分―――紅く染まった災厄の三日月が、最も地球に接近する。
急ごう、と声をかけ、俺たちは屋敷へと向かって走り出した。脱出支援を担当するリーファやマルガレーテたちも移動を開始、バートリー家強盗計画が本格始動する。
両足に力を込めて大きくジャンプ、目の前の樽を踏み台にして更に跳躍し、建物の屋根の上を全力疾走。雨上がりなのか、ニレージュバルザの建物の屋根も、そして石畳で舗装された綺麗な道路もうっすらと濡れていて、気を抜いたら足を滑らせてしまいそうだった。
勢いを乗せて大きくジャンプ、ぱっくりと口を開けている路地の上を飛び越え、反対側の建物の屋根へと着地。そのまま絶妙なバランス感覚で電線の上を渡り、大通りを堂々と横断していく。
こんな禍々しい月が昇る夜だからなのだろう、普段は賑わっていると思われるニレージュバルザの大通りは閑散としていた。露店も、酒場も人気は無く、まだ営業時間内だというのに既に店主が店のシャッターを下ろす姿が見える。
車道を走る車も疎らで、夜の闇を照らす車のライトの光も数えるくらいしか見当たらない。
不気味だが、好機でもあった。目撃者がそれだけ減るという事なのだから。
ちらりと後方を見た。
こうして平然とパルクールで移動しているが、当たり前のように後をついてくるクラリスはともかく、セロも負けじとついてくる。彼女の身体能力の高さには驚かされたし、味方である事は心強い限りだが、まさかパルクールまでこなすとは。
モニカもちゃんとついて来ているが、やや遅れ気味だ。彼女にはもう少し頑張ってもらいたい。
建物の屋根からジャンプし、断崖絶壁の真下まで辿り着く。まるで巨人が、同じく巨大な鉈で大地を切り取ったかのような崖は、おそらく50m前後の高さがある。大地から見てやや直角、ところどころに岩が突き出た部分も見受けられ、足場のように突き出た岩肌の上からはうっすらと草が生えている。
まともな装備も無しに昇るのはかなりハードルが高いが……パヴェルが作ってくれたこの装備があれば。
やるぞ、と目配せを送り、アンカーシューターを放った。両腕に装着したガントレットに搭載された、小型クロスボウに似たランチャーから杭が放たれる。後端部に超硬質ワイヤーを取り付けられたそれは、まるで板に打ち付けられる釘のように岩肌にめり込んだ。
リールがワイヤーを巻き取り始め、ぐんっ、と身体が上へと引っ張られていく。唐突に身体中を浮遊感が包み込んだかと思いきや、ミカエル君のミニマムボディはアンカーを打ち込んだ岩肌目掛けて、ハンガリアの宙を舞う。
だんっ、と両足を突き出して岩肌を踏み締め、片方のアンカーを引き抜いてから更に上へと撃ち込んで上昇。高さ約50mの岩肌をぐいぐいと昇っていく。
クラリスとモニカも、そしてアンカーシューター初体験となるセロも壁面を上ってきている事を確認しつつ、あと10m程度登り切れば屋敷の裏庭……というところで、視線の先を1機のドローンが横切った。
4機のローターで浮遊し、機体下部にセンサーと小型麻酔銃を搭載した、パヴェルお手製のドローンだ。”サポートドローン”と呼ばれるそれが俺たちよりも先に屋敷の敷地内へ侵入していく。
断崖絶壁をやっとの思いで登り切り、背負っていたキャリコM960Aを構える。既に裏庭を警備していた番兵は地面の上に倒れており、首筋に撃ち込まれた麻酔ダートを月明かりで煌めかせながら、すやすやと寝息を立てているところだった。
「ナイス、”ララバイ”」
ララバイ―――シスター・イルゼの、強盗時の彼女のタックネームだ。
《裏庭の番兵はこれで全部です。残弾無し、ドローンは補給のため後退します》
「了解」
眠っている番兵たちを花壇の影やら茂みの中に隠しているうちに、MC51SDを手にしたセロが先行。屋敷側にある一際大きな花壇の裏側に、まるで隠すように配置されていたダクトの金網を掴んで揺らし、そのまま外して侵入経路を確保してくれる。
ここだ、と短く言った彼女が先に入った。その後に俺、クラリス、モニカの4人が続く。
「グオツリーよりフィクサー、こっちは侵入に成功した」
《了解。まだ序の口だ、気を抜くなよ》
「了解」
黴臭いダクトの中を這いながら、ちらりとイリヤーの時計を取り出して時刻を確認。紅く染まった三日月が”パラケルスス軌道”に乗るまで、あと20分。
その前に姉上を探し出して儀式を阻止、身柄を確保しなければならない。
が―――問題の姉上は、この屋敷のどこに居るのか。
黒魔術を行うという事は、人目につかない場所で儀式を実行する可能性が高い。例えば屋敷のどこかにある隠し部屋とか地下室とか、そういう空間だ。もしそれを教会に密告でもされれば、貴族だろうと何だろうと関係なしに異端の烙印を押され、教会による摘発の対象となってしまう。
ダクトの金網から漏れる光が見える。金網の向こうには屋敷の廊下が広がっていて、磨き抜かれた大理石の床が、これまた豪華な天井の装飾を反射していた。
「……?」
後ろにいたクラリスが急に止まり、訝しむような顔を浮かべる。いきなり止まるものだから、後ろを匍匐前進で進んでいたモニカはクラリスの大きなお尻に顔面を押し付ける格好になってしまった。
車は急には止まれないが、それはヒトも変わらない。
「どうした?」
「何か……薬品のような臭いが」
「薬品?」
スンスン、とセロも鼻を鳴らす。狼の獣人だからなのだろう、セロも嗅覚は他の獣人よりも発達している筈だ。
一応ハクビシンも嗅覚は発達している方だが、さすがにイヌ科の動物の嗅覚には敵わない。
臭いを嗅いでみると、確かに廊下の方から流れてくる空気の中に微かな、いかにもケミカルな感じの刺激臭が紛れているような気がした。これは……何だろう、どこかで嗅いだことのあるような無いような。
「クロロホルムか」
思い出した、クロロホルムだ。
幼少の頃、母さんが科学の勉強で瓶に入ったそれを持ってきてくれたことがある。医療機関で麻酔剤として使われたりするし、錬金術師も薬剤の調合で使う事があると聞いた。
余談だけど、クロロホルムには毒性があってリスクが高い事から、現在では麻酔剤としては主流ではなくなったらしい。とはいえそれは転生前の世界での話。こっちの世界では医療機関や錬金術師の研究において未だ現役である。
さてさて、貴族の屋敷の中でなんでそんな麻酔剤の臭いがするのか。
「セロ、バートリー家に錬金術師は居るか?」
「居ないな」
「なら答えは一つだ」
姉さんを眠らせ、どこかへと連れ去った―――その際に使用した薬品の残り香だろう。
つまりこの臭いを辿れば、その先に姉さんが居る。
セロに向かって頷き、太腿に巻いた工具のホルダーの中からプラスドライバーを取り出す。金網を固定していたネジを外して廊下へと侵入、キャリコを構えて周囲を警戒しながら仲間たちを待つ。
臭いを辿れるか、というよりも先に、クラリスが先頭に立って先導し始めた。
セロも鋭い嗅覚を持つが、ウチにもクラリスという切り札が居る。特に嗅覚の鋭さは一級品で、ちょっとした軍用犬に匹敵するレベルだ。これも竜人として生まれたが故の能力という事だろうか。
先頭を進む彼女が待て、とハンドサインを送ったので、黙って従い立ち止まる。曲がり角で止まっていた彼女は唐突に飛び出すと、曲がり角の向こうから歩いてきた燕尾服姿の使用人に襲い掛かった。
いつもの仕事を終え、これから使用人の宿舎に戻って休むところだったのだろうか。30代半ばほどの使用人が目を見開いたが、大きく開いた口から漏れたのは侵入者の存在を告げる叫びではなく、くぐもった、今にも死にそうな苦悶の声だった。
真正面から、それも無防備な相手の鳩尾に、クラリスの適度に加減した右ストレートがめり込んでいたのである。呼吸したくても出来ない、あの理解不能な苦しさに苛まれ動けなくなっている使用人。クラリスは彼が立ち直るよりも先に素早くポーチから結束バンドを取り出して彼の両手を封じると、口に粘着テープを張り付けて黙らせ、近くにあった物置の中へと放り込んでしまう。
この間、僅か5秒。
人を消すのがあまりにも速すぎる。その鮮やかすぎる動きに、加勢するべく備えていたセロも目を見開いていた。
「……お前のメイド、人の拉致とか慣れてたりする?」
「そんな共産圏の人じゃないんだから」
……違うよね?
困惑しつつもクラリスの先導で廊下を進んでいく。
クラリスがある部屋のドアを開け、中へと静かに突入していく。誰かの書斎だ―――エリザベート・バートリーの書斎だろうか。本棚には魔術関連の教本が所狭しと並んでいるが、当然ながら禁止品とされている黒魔術の魔導書は無い。
嗅覚が発達したクラリスが立ち止まったのは、そんな書斎にある柱時計の脇―――真っ白に磨き抜かれた、壁の目の前だった。
「ここで途切れてます」
「ふむ」
コンコン、と壁を軽く叩いてみる。確かに裏側には空洞が広がっているような軽い音がして、この先に隠し部屋がある事が分かる。
どこかにスイッチがあるのが定番だが……とスイッチを探そうとしていると、クラリスが何を思ったか、壁を両手で静かに押し始めた。
待て待て待て君何してんの、とツッコむ間もなく、ミシミシと軋む音を立てながら隠し部屋への入り口を隠していた壁がへこむ。そこに手を突っ込んで力を込め、あまり大きな音を立てずに壁を外してしまうクラリス。
案の定、壁の向こうには地下に降りていく石の階段が続いていたが……そうじゃなくて。
「えぇ……?」
「時間がありませんわ。さあ、早く」
「あっはい」
力業こそ正義って事かいな……ふつう今のスイッチ探して開けるところじゃないのか、と内心ツッコミつつも、黙って彼女の後に続いた。
なんにせよ、この先に姉上がいる―――それだけは確かだった。




