虎穴に入らずんば虎子を得ず
エカテリーナという女は、どうやら本当に誰からも愛されていたらしい。
飄々としているミカエルがあんなにも声を荒げる程に、彼女は誰からも愛されていた―――そう思うとちょっとばかり羨ましくもなるし、尊敬もする。人から愛される、という事は誰にだってできる事じゃない。それが家族以外であれば猶更だ。
もらった物資の中にあった棒付きのキャンディーを煙草のように咥えながら、つい先月まで滞在していた祖国の風景を眺める。
この”中央大陸”では戦乱が絶えない。ノヴォシアやグライセン、アスマン・オルコを始めとする大国同士の小競り合いから、互いの命運を賭けた全面戦争まで、ここ十数年の歴史を振り返ってみてもトップ3は戦争が占める。
日本の戦国時代を大陸規模でやった結果、と言ったところか。今は比較的落ち着いているが、いつ何がきっかけで再燃するか分からない状況。さながら中央大陸東部は”火薬庫”の様相を呈している。
誰かがちょっとした悪ふざけで火種を蒔こうものならば、それはたちまち大陸全土へ広がるだろう。下手をすれば第一次世界大戦レベルの、惑星規模の戦乱に発展しかねない。
そんな重圧の只中にあって、しかしハンガリアは比較的平和だった。
ハンガリア王国国王、”フェルディナーンド6世”を始めとする王国上層部の巧みな外交政策が功を奏し、北海を挟んで聖イーランド帝国との覇権を競うノヴォシアの戦乱にも、そして隣国ポリシュランドとドルツ地方諸国との領土紛争にも組せぬ中立を堅持し今に至っている。
そういうわけで、ハンガリアには古都が多い。
昔からの建築様式で建てられた建物がとにかく多く、国の発展の歴史を見やすい形で残している。それゆえに観光名所も多く、最近ではハンガリアのサーカスが人気を博している。冒険者になる前やマルガレーテと出会った後、何度もサーカスの公演に足を運んだものだ……毎度思うが、あの空中ブランコでの技をよく成功させるものである。難易度もそうだろうが、あんな高いところで演技をするなど相当の度胸が無ければ出来ないだろうに。
今回訪れたのは、そんな古都の一つ『ニレージュバルザ』。ハンガリア王国東部の中では最も大きな街で、隣国たるノヴォシア帝国イライナ地方との交易の玄関口として機能している。
やはりノヴォシアが異常だったのか、ハンガリアの春は暖かい。肌を優しく包み込むような気温に、空に昇ったばかりの太陽。全ての民がその天からの恵みを享受する中、ただ1つだけ―――異質な建物が目につく。
「……」
ニレージュバルザの西部に、それはある。
大きく切り立った断崖の上に建つ尖塔の群れ。このニレージュバルザで育った者たちからすれば、東部の街を統治する貴族たちの重鎮、バートリー家の屋敷であるとすぐ分かるのだろうが、他の街や海外から来た者にはこう見えるだろう。
―――吸血鬼の屋敷、と。
確かに私から見てもアレは吸血鬼の屋敷にしか見えない。ハンガリアの建築様式が所々に見られるが、アレを建てた建築家が随分と革新的な発想の持ち主だったのか、それとも貴族側からこうしてくれという注文でもあったのか、複数の尖塔が天へと伸びるその姿はまるで、魔王が復活せんと地底から手を伸ばしているかのよう。
これ、今は快晴だからちょっとアレだけど、夜中に月を背景に見たらまんま吸血鬼の屋敷ではないか……中に棺とか置いてるんじゃないか?
「さてさて、どう潜入しますかねぇ……」
借りた駐車場に停車させたランドクルーザー70の運転席で悩んでいると、新聞売りの少年の声が聞こえてきた。
「バートリー様とノヴォシアの貴族との結婚式が決まったよ! 詳細は新聞買わないと分からないよー! 他にも色々載ってるよー!!」
多分見た感じ、10歳前後くらいのウサギの獣人の子だった。
この世界じゃ児童労働が当たり前だ。労働基準法なんてものもなく、子供たちは家の収入を少しでも増やすべく必要最低限の教育も受けずに労働力として駆り出される。
あの子もきっとそうなのだろう。新聞の売り上げの数パーセントがあの子の生活費になるのだ―――とにかく情報が欲しかったのと、ちょっとばかり人助けしたくなった自分の気持ちに素直になった私は、運転席を出て少年を呼び止める。
「ねえ君」
「はーい……デッッッッッッッッッ」
オイこのエロガキ。
なんでミカの奴と全く同じリアクションなんだとは思うが、まあこの身体だ、仕方がない。胸も身長もソシャゲのキャラの如くデカい。おまけに筋肉バッキバキで肌も褐色、性癖が私の身体のいたるところで渋滞を起こしている。
なるべく目線を合わせようとしゃがみ込み、笑みを浮かべた。何だろう、少年の目線が私の胸元にばかり向けられているのは気のせいか。
少年、君はおっぱいと話しているのかね少年?
私の本体はおっぱいだとでも言いたいのかね少年?
おねショタ系のエロ同人で良くありそうな感じだけどそういうわけにはいかないぞ少年。
「新聞、1つ貰おうか」
「ひゃ、ひゃい……300ファラントでひゅ……」
すっ、と差し出された新聞紙を受け取り、彼の耳元でささやいた。
「どうもありがとう」
「ぴゃう」
ぴーん、と伸びるウサギのケモミミ。顔を真っ赤にした少年は半ば逃げるように踵を返すと、人の往来が激しい大通りの方へと走っていった。
あらまあ、少年にはちょっと刺激が強すぎたか。
「何やってんのよ」
車に戻ると、マグカップでコーヒーを飲みながらマルガレーテが呆れたように言った。
「ちょっとからかいたくなってね」
平和なものだ……これから物騒な案件の、さながら泥濘のような闇の中へ片足を突っ込むのだ。そうなる前に平和を謳歌していても良かろう。
購入した新聞紙を広げた。慣れ親しんだハンガリア語の羅列の中、一面を飾っているのはやはりバートリー家の結婚相手が決まった事と、結婚式の日程についてだった。
結婚式の日程は3日後。場所はバートリー家の屋敷で、事前に招待状を受け取った貴族だけが敷地内に足を踏み入れる事を許されるらしい。もちろん平民は門前払いだが、結婚パーティーで提供される料理や酒を納品する業者ならば許されるだろう。
潜入するとしたらこの日か。
顎に手を当てながら新聞記事を見ていると、隅に小さく記載されている記事で視線が止まった。
【災禍の紅月、来週に迫る】
「……?」
「何、どうしたの?」
「お嬢、災禍の紅月ってなんだ」
「知らないの? 1年に1度、紅い月が昇る夜の事よ」
「初めて聞いた」
「まあ……そうね、知らない方が良いかもしれないけど、一応言っておくわ。セロって”黒魔術”というのは知ってる?」
黒魔術―――私も魔術を多少学んだから、そういう異端とされる術が存在する事は知っている。
様々な宗教がひしめき合うこの世界だが、そのあらゆる宗教において満場一致で異端とされる術がこの”黒魔術”に分類され、排斥されている。
黒魔術認定される術にこれといった定義はないが、例えば人の命を生贄として捧げ悪魔を召喚するだとか、他者の身体を乗っ取るだとか、概ねそういう”己の欲望のために他人を踏み台にする”、あるいは”悪魔の召喚”に関連する魔術群が黒魔術に認定される。
黒魔術に認定された術は学ぶ事も、正当な理由なく知ろうとする事も禁止され、好奇心に負けてそれに手を出してしまった者は”異端者”として世界中の教会のブラックリスト入りを果たす羽目になる。
こうなれば各宗教から破門されるどころか、教会の保有する実働部隊、あるいは憲兵隊によって命を狙われる羽目になる。”逮捕”ではなく”殺す”のだ。黒魔術に手を出し、世界秩序の転覆を謀った罪は重い。
「アレだろう、悪魔を召喚したりとかそういう……」
「そう。ただ、多くのそういう黒魔術……いわゆる”禁術”が常に行えるわけじゃないのよ」
「どういうことだ?」
「召喚される側の悪魔だって、時と場所を選ぶって事よ」
「……まさか、その”時”が災禍の紅月だと?」
「ご名答」
3日後の結婚式に、一週間後の災禍の紅月。
どうも出来過ぎている……。
女の消える屋敷、バートリー家。
災禍の紅月、3人目の妻。
「まったく……出来りゃあミカの杞憂であってほしかったんだがな」
こりゃあ”クロ”だ。
確証がない以上断定はできないが……足を踏み入れようとしている闇は、予想以上に深そうだ。
まあいい、3日後の結婚式を利用して潜入して情報を集めよう。
報酬もあるし、何より友人の頼みだ……無下には出来ない。
「いやあ、君も怖い物好きだねぇナーダシュ君」
「いやいや、そういうわけでもないですよ。仕事ですから」
木箱をトラックに積み込みながらそう返すと、造酒所の主は皺の浮かんだ顔に笑みを浮かべながらトラックに乗り込んだ。彼に続いてトラックの助手席に腰を下ろすと、シートベルトをかけるのを待たずに彼はアクセルを踏み込んだ。
思ったよりも”仕事”を探すのは楽だった。
というのも、結婚式という一大イベントを前に、バートリー家の屋敷から各方面に大量の食料品の発注がかかったらしい。おかげで業者たちは慌てて商品を用意し、バートリー家の屋敷まで競うように降ろしに行っている。
唐突に訪れた繁忙期。人手が足りている筈もなく、どの販売店でも3日間程度の短期契約で求人がかかっている状況だった。これを利用しない手はないとワインの販売業者のところに仕事を貰いに行ったところ、簡単な面接だけで一発OKという結果に。
まあいい、この機会を利用させてもらうとしよう。
「ところで知ってるかいナーダシュ君、あのバートリー家の怖い噂話」
「いえ、何も……私、バルベストからこっちに来て日が浅いもので」
「あの屋敷じゃあ女の人が消えるんだそうだ。息子のイシュトヴァーン様も一昨年と去年に妻を迎え入れられたそうだけど、その奥さんもぜんぜん公の場に姿を現さなくてねぇ」
「それはそれは……お病気なのでは?」
「どうなんだろうねぇ。医者が招かれたりとか、薬品の発注があった、なんて話は聞かないねぇ……まあとにかく、屋敷に入って酒樽を置いたらすぐに離れた方が良いよ。ナーダシュ君みたいな美人さん、あっという間に攫われちゃうかもね」
「あはは、ご冗談を」
ナーダシュ、というのは偽名だ。さすがに本名を名乗ったら色々と拙い(ウォルフラム家は富裕層に名を連ねている)。
だから今の私は”セロ・ナーダシュ”……ハンガリアでの表記通りならば『ナーダシュ・セロ』か。ハンガリアでは日本と同じようにファミリーネームが名前の先に来る。
市街地を出たトラックはやがて坂道に差し掛かった。灰色のレンガでしっかりと舗装された一本道には僅かな起伏もなく、緩やかな左カーブを描きながらバートリー家の屋敷へと伸びている。
車道を縁取るように規則正しく植えられた街路樹は青々とした葉を生やしていて、ハンガリアの暖かい風の中で揺れていた。
ラジオから流れてくる民謡がアコーディオンの間奏に入ったところで、屋敷の正門が見えてくる。
女の消える屋敷……その正門には番兵1人すら立っておらず、正門の鉄格子がただただ不気味に佇んでいるのみだ。
呼び鈴でも押さなきゃ開かないのかな、とトラックを降りようとすると、まるで私たちがやってきたのを感知したかのように正門が開き始め、ちょっとびっくりしてしまう。
気のせいだろうか、獲物を見つけたと言わんばかりに口を開ける怪物のようにも見え、背筋に冷たい感触を覚えた。まるで背骨の中にドライアイスでも流し込まれたような……。
ただの屋敷じゃない、というのは何となく分かった。こっちも人間じゃなくて獣人の身体だからなのか、獣としての第六感が先ほどから身の危険を声高に叫んでいる。逃げろ、逃げろ、と。今すぐ逃げろ、と。
ちらりと視線を上げると、窓にかかったカーテンの隙間からこちらを見下ろす青年と目が合った。
キンイロジャッカルの獣人、イシュトヴァーン・バートリー……バートリー家の1人息子で、過去に2人も妻を消した謎の多い男。
そして今、3人目の妻もその餌食になろうとしている……それがよりにもよって、友人の姉君だとはな……。
何食わぬ顔で視線を戻すが、あの男には警戒した方が良いだろう。おそらく頭の相当キレる男だ。もしかしたらこちらの意図を察しているかもしれない。
もしそうだとしたら難敵だな……楽な仕事だと思っていたが、どうやら高額な報酬に見合うヤバい案件だったらしい。
トラックが停車するのを待ち、助手席から外に出た。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。




