最西端の街、エルゴロド
巨大なガラスの天蓋で覆われたエルゴロドの街は、思いのほか解放感があった。頭上にガラスの傘が広がっている、と思うともっと窮屈で、息苦しさを感じるのではないかと考えていたのだがそんな事は全くなく、以前に訪れた他の街と変わらない。
よく見るとあの特徴的なグラスドームの中に入っている補強用の金属フレームは、何かの紋章を象っているようだった。どこかの宗教のシンボルなのだろうか。中にはエミリア教の紋章もあって、ちょっとだけだが安心感を感じた。
さてさて、そんなグラスドームが特徴のエルゴロドだが、空がガラスの傘で覆われている関係上、雨だろうと雪だろうと街の中には全く影響がないようだった。雪とか降った日はどうするのだろうか。労働者を雇ってグラスドームの上に上げ、雪を落とさせたりとかするのだろうか。ノヴォシアの降雪量を考慮すると、そうでもしないと雪の重みでグラスドームが壊れてしまいそうだが……。
この街は農作物に関しては完全に外部に依存しているようだった。さっきから街の中を走るトラックの荷台には、木箱に詰め込まれた野菜や果物ばかりが乗っている。近隣の村や街から売られてきたものなのだろう。周囲はいかにもヴォジャノーイの巣窟になってまっせと言わんばかりに湿地が広がり、土壌も脆く農業には適さない最悪の立地。旧人類は何を思ってこんな魔物の巣のど真ん中みたいな場所に街を建造したのか、理解に苦しむ。
農業が壊滅的な代わりに、この街は工業を重視しているらしい。
グラスドームをぶち破るほど巨大な煙突が幾重にも伸びているのを見ながら、ああ、ザリンツィクみたいだ、と思う。さすがに”工業都市”を名乗るザリンツィクほどではなかったし、その数も控えめではあったけれど、エルゴロドもなかなか工業で栄えているらしい。
「安いよ安いよー!!」
「今朝狩ったばかりの新鮮なヴォジャノーイの肉だよぉー!! 今なら3つセットで2割引き!!」
周囲がヴォジャノーイの活動地域だというのに、エルゴロドの人々は逞しいものである。肉食の獰猛な魔物が周囲を跋扈しているならば逆に狩って食ってやろう、という戦闘民族みたいな発想だ。露店にはヴォジャノーイ成体から切り取られた足が、まるで肉屋で売られるベーコンのようにぶら下げられている。
カエルのような緑色の皮をひん剥かれ、むっちりとしたピンク色の中身を曝け出すそれらを眺めていると、クラリスがとある店の前で立ち止まる。
「……!」
「クラリス?」
彼女の視線の先には、大きな肉の塊を焼いている店があった。
金属製の巨大な串でヴォジャノーイの肉塊(おそらく複数の肉をくっつけて塊にしたものだろう)を串刺しにし、それを炙りながら、こんがりと焼けた部分を鉈とも包丁とも何とも言えぬ刃物で削ぎ落し、それをパンに挟んで売っている店があるのだ。
そう、ドネルケバブである。
羊とか牛の肉ではなく、ヴォジャノーイの足の肉を使ってドネルケバブを作っているのだ。立ち寄った冒険者の男がケバブを注文すると、カシミヤヤギの獣人の店主が豪快に肉を削ぎ落し、それをパンに挟んでからソースをかけてそれを手渡す。
金を渡した冒険者の男が美味そうに齧りついているのを見て、クラリスの食欲が大いに刺激されたらしい。見ろよあれ、クラリスの紅い唇からよだれがもう、ナイアガラの滝の如くドバドバと。
「あーハイハイ、食べたいのね?」
「じゅるっ!」
ハンカチでそれを拭き取りながら財布を取り出した。
「ほー、ヴォジャノーイのケバブか。珍しいな」
同行するついでに石炭の買い付けに来ていたパヴェルも興味深そうにそれを見る。今度真似するつもりじゃないだろうな? 美味かったらやってくれ、頼むから。必要な調理器具とかあったら買いそろえるし給料もUPするから是非やってくれ。俺らの胃袋のために。
「あれ? ケバブって普通羊の肉とか使うんじゃないの?」
「まあ普通はそうだよな」
モニカの奴、ケバブは知ってるんだな……いや、黒海を挟んだ向こう側はドネルケバブの本場、アスマン・オルコ帝国。小競り合いはあれど両国の交易は盛んでよく向こうの文化やら何やらがイライナに流れ着くので、それの関係でケバブを知っているのかもしれない。
特にイライナ南部はアスマン・オルコ帝国との交易の玄関口になっているので、本場のケバブを口にする機会も多いのだろう。
「すいません、ケバブ4つくださーい」
「はいよー! ソースはどれにする? チリソースにヨーグルトソースがあるよ!」
あー、どっちにしようかな……チリソースはまあ、何となく味が予想できるがヨーグルトソースってどんな感じだろ。甘いのかな?
悩んでいると、真っ先にモニカが元気に手を挙げながら注文する。
「はいはーい! あたしチリソース!」
「んなぁ!? おまっ、ドネルケバブといったらヨーグルトソースが常識だろうがぁ!!」
「はぁ!? アンタ何言ってんのよ、ドネルケバブにはチリソースをかけるものでしょうがぁ!!」
「おまっ、チリソースは邪道だぞ邪道! なあミカ、お前なら分かるよな? な?」
「ミカ、信じてるわよ? アンタならチリソースを選んでくれるって」
「……」
やめて、やめて。
何この選択肢。なんでケバブにかけるソースだけでこんな選び辛くなっちゃうの?
カウンターの向こうで肉を削いでいるカシミヤヤギの店主さんもちょっと苦笑い。お嬢ちゃん大変だねぇ、という心の声が聞こえてきたけど言っておく、俺は男だ。
するとカシミヤヤギの店主がぼそっと一言告げた。
「ミックスソースもあるよ」
答えは決まったようなものだった。
「……すいません、ミックスソース2つ」
「かァァァァァッ、ミカ! 俺は悲しいぞミカ! 何だよお前意外と優柔不断な奴だな! お前アレだろ、エロゲとかでヒロイン選べなくて結局はハーレムエンド選んでお茶を濁す奴だろ分かるんだぞこの野郎!」
「アンタねえ、ちょっと優柔不断が過ぎるんじゃない? アンタあれでしょ、ラノベとかでどのヒロインを推しにするか選べなくて結局はハーレムエンドがいいなあなんて妄想しちゃうやつでしょ?」
こいつら思考回路同じなのでは???
待って、待って? なんで俺ここまでボロクソに言われてんの?
あれ、確かドネルケバブにかけるソースの話だったよね、と思いながら隣のクラリスを見上げてみると、彼女は幸せそうにヴォジャノーイのドネルケバブを頬張っているところだった。こ、こんにゃろ、主人がボロクソ言われてるのにケバブをもぐもぐしおって。
とまあ、いろいろ言われながらもドネルケバブを完食。指についたソースと肉汁を舐め取って包み紙をゴミ箱に放り込み、ふう、と息を吐く。
「ミカ、いいか? 俺は性癖に関しては多様性を重んじる男だ。ハーレムエンド、確かに悪くねえかもしれねえ。だがな、最近はヤンデレヒロインも普及しつつある。考えてみろ、そのハーレムの中にヤンデレが混じっていたらバッドエンド直行だぞ」
「何を言ってるんだお前は」
「いや、お前がハーレムエンドにこだわるならばそれでいい。ただしNTRは死ね」
「多様性どこいった」
「うるせえ俺は俺の認める多様性しか認めねえ」
「このダブスタクソ親父!!」
いやまあNTRが大罪という意見には同意する。いちゃラブこそが至高なのだ……分かるかね、恋愛モノとはスイーツのような存在なのだ。どこまで甘くしても良いのが恋愛モノなのだ。NTRはその花園をぶち壊すが如き大罪。その罪は死を以て贖わなければならない。
NTRには死を、いいね?
ヒロインを持っていこうとする間男が出てくるだけでミカエル君は殺意を覚える。特にいかにもチャラい間男だともう、ミカエル君はブチギレのあまり最終形態に……いや、この辺でやめとこう。これ以上話したらNTRに対する怨嗟を延々と垂れ流す羽目になりそうだ。
え、ミカエル君はNTRに親でも殺されたのかって?
うーん……殺されてはいないけど、NTRに限りなく近い行為が原因で生まれたのがミカエル君なんですが何か??? やんのか??? おんおん???
母にあんな仕打ちをしたクソ親父を俺は許さない。しかも二度も。
さて、NTRに対する怨嗟はもう本当にこの辺にしておこう。
口の中でもぐもぐしていたケバブを呑み込み、傍らにあったエルゴロド市内の案内板に視線を向けた。
「……あった、ここだ」
ミカエル君のちっちゃな指先には、『シャトー・バートリー』と記載された邸宅がある。パヴェルが調べたところによると、ハンガリアの貴族であるバートリー家はこのエルゴロドに別荘を保有しているのだそうだ。
そこで花嫁であるリガロフ家の次女『エカテリーナ・ステファノヴァ・リガロヴァ』を迎え、諸々の準備を終えてからハンガリアの都市『ニレージュバルザ』で盛大に式を挙げるのだそうだ……式には姉上や兄上たちも招待されているらしいが、もちろん庶子なミカエル君には招待状なんて届く筈もない。
うん、それでも言わせてほしい。お姉ちゃん結婚おめでとう、と。
まあ、この辺はリガロフ家の誇るダブスタクソ親父の圧力がかかったとか、そもそもこっちは冒険者で住所不定なので招待状を送りようがなかったとか、そういう要因の方が大きいだろう。いくらこっちが庶子とはいえ、あんなに優しかったエカテリーナ姉さんがそんな事をするはずがない。
「しかし”バートリー”ねえ……」
「なんだよ?」
「いや……ちょっとね」
何だよパヴェル、そんな意味深な……。
続けて彼に問おうとしたが、その声は唐突に響いたガラスの割れる音と、女性の金切り声によって遮られた。
「きゃあああああああ!!」
「クソが、動くんじゃねえ! この女がどうなってもいいのか!!」
何だ何だよ何ですか、と罵声の聞こえた方を振り向くと、薄々予想していた通り女性が男に押さえつけられていた。男は片手で女性の手を押さえつけ、もう片方の手に持ったフリントロック式のピストルの銃口を女性のこめかみに押し当てている。
しかもわかりやすい事に、男の立っている場所のすぐ後ろには銀行が。そして男の背中には札束がたんまりと入ったダッフルバッグが。あー、強盗か。
「ご主人様」
「ドジったな、アイツ」
「ああ」
野次馬がぞろぞろと集まる中、俺とパヴェルは素直な感想を漏らしていた。
強盗をやった事があるから分かるが、ああやって人質を取ったところで、鎮圧されるか、首尾よく逃げおおせても追跡され逮捕、あるいは始末されるのが関の山だ。逃げ遅れて人質を取っている時点で、その強盗は失敗したも同然なのである。
経験者として言わせてもらえば、ベストなのは事前に綿密な計画を立て、尚且つ通報を受けた憲兵隊がやってくる前に現場を去る事。しかし既に現場には憲兵隊のパトカーが駆けつけていて、制服姿の憲兵たちがスイカみたいに丸いパトカーを盾にペッパーボックス・ピストルを構えて犯人に銃口を向けている。
アパートの屋根やベランダのところには狙撃手も配置されているようで、銃口の辺りにまで達するなっがーいスコープを装備したマスケットで犯人を狙っていた。
「ちょっと助けてくるわ」
「危険ですわご主人様」
「行かせてみようぜ、クラリス」
「しかしパヴェルさん……!」
「行って来い、ミカ。余裕だろ」
「とーぜん」
食後の運動にもなるし、人助けにもなる。一石二鳥だ。
傍らの建物の壁をよじ登り、窓枠に手をかけてベランダへ。そこからジャンプして電信柱に飛び移るや、するするとよじ登って電線を伝い、絶妙なバランス感覚でそのまま車道を堂々と横断。
眼下の犯人はというと、憲兵隊相手に怒鳴りつける事で頭が一杯なのか、かなーり視野が狭くなっているらしい。憲兵隊も犯人も、そして野次馬たちも電線の上にいるハクビシンの獣人に気付かない。
道路を横断しきったところで、腰に下げた鞘の中から慈悲の剣を引き抜いた。装飾の一切ない、漆黒の直刀を思わせる形状のそれには艶すらない。闇が直刀の形状に具現化したような禍々しい姿だが、コイツに殺傷力は一切ない。
相手の肉体ではなく、あくまでも意識だけにダメージを与え昏倒させる武器だ。故に生物にしか効果は無く、無機物に対しては異様に軽い鉄の棒切れでしかない。
いける、と判断したところで、くるりと剣を回し逆手に持った。そのまま電線の上から小さくジャンプして急降下、人質を取って逃走車両を要求する犯人の脳天へと、慈悲の剣を突き立てる。
「がっ……!?」
まるで綿でも突き抜いたかのような軽い感触。剣は男の脳天に深々と突き刺さっているというのに、血飛沫は全く吹き出ない。一滴たりとも、だ。
剣を引き抜くと、男は白目を剥いて崩れ落ちた。剣の突き刺さっていた部位に傷口は無く、まるで武道の達人に首筋を殴打され昏倒しているかのよう。外傷は一切ないが、きっと彼は脳天を剣で穿たれるかなーりリアルな痛みを感じていた筈だ。
意識は刈り取るが、しかし死までは追い込まない。故に慈悲の剣。
「えっ、え……!?」
「か、確保ぉ!!」
昏倒する犯人を確保すべく駆け寄ってくる憲兵たちに、困惑する人質の女性。
さてさて、質問攻めにされる前にこの場を離れますかね……そう思いながら人質にされていた女性の方を振り向き、会釈だけでもしておこうと思ったミカエル君だが―――彼女の顔を見た途端、金縛りに遭ったように身体が動かなくなった。
「姉さん……?」
「ミカ……え、まさかあなた、ミカなの?」
強盗に人質にされていた、ライオンの獣人の女性。
彼女は間違いなく、俺の姉―――エカテリーナ姉さんだった。
※ヨーグルトソースは酸味の強いヨーグルトみたいな味でした。甘さは一切なかったです(経験談)




