切り取られた過去、彼女の空白
「よくやったぞミカ! お前は英雄だ!」
地上に戻った俺たちを出迎えたのは、既に要塞の制圧を終えた憲兵たち―――彼らを指揮するマカールと、その副官の女性だった。
メガネをかけていて物静かそうな印象を与えるせいなのだろう、雰囲気はクラリスに似ていた。もちろんあの謎の女性兵士のようにクラリスに瓜二つ、というわけではない。あくまでも雰囲気が似ているだけだ。
「なんだ、浮かない顔だな」
「……ええ」
普通だったらまあ、最高の栄誉が手に入っている瞬間を全身で噛み締めている頃だろう。長い間海賊に支配されていたアルミヤ半島において、その海賊の親玉を排除し半島を解放した―――それもギルドに対する依頼ではなく、善意で、だ。
アレーサに戻れば英雄扱いは間違いないだろうし、この一件は瞬く間に帝国中に知れ渡るだろう。それは確かに誇らしいし胸を張るべきなのかもしれないけれど、しかし戦いの結末があんな事になってしまってはどうも素直に喜べない。
ちらりと視線を脇に向けた。戦って死ぬのではなく降伏して生き長らえる道を選んだのだろう、薄汚れた私服に身を包んだワリャーグの戦闘員たちが両手を頭の後ろで組んだ状態で、憲兵に銃とか剣を突きつけられながら一列に並んで歩かされているのが見える。
彼らにはどんな罰が下るのだろうか。良くて無期懲役、悪くて死罪……その辺が相場だろうか。無期懲役、残りの生涯を牢獄で過ごせる奴はまだ幸せな方で、死罪が言い渡されれば人生最期の日が訪れる瞬間を独房でただただ待つ日々を送る事になる。
”最期に食べたいものは?”と記載された一枚の紙切れが、死刑宣告となるのだ。それは刑を下す側からの最後の情けで、しかし刑を下される側からすれば死神の宣告でしかないのだが。
彼らはどっちなんだろう? いったい何人がそういう人生を送る事になるのだろう―――思考が脱線したところで、兄上の肩を叩いて手招きする。2人だけで話がしたい、と目配せすると、そういうのに敏感な兄上はちゃんと弟の意図を悟ってくれたようで、副官に向かって頷いてから俺の後をついてきた。
アキヤール要塞の物資搬入用のホーム、賞味期限がとっくに過ぎた缶詰の缶が乱雑に置かれた棚の影に兄上を呼んだ俺は、一体何があったのかと心配そうな顔をする彼に、そっと内ポケットから取り出した瓶の中身を見せつける。
空になったタンプルソーダの瓶。ラベルの剥がされたそれの中に入っているのは、すっかり錆び付いた金属粉だった。まるで湿気の多い倉庫に長年放置された鉄板にヤスリをかけ、それの粉末だけを集めたかのような、一見すると何の変哲もない金属粉。
しかし共に”それ”の持ち主と戦った事のある兄上は、それが何を意味するのか瞬時に理解してくれた。
「まさか、また例の”組織”が?」
「……キャプテン・ウルギンの正体は機械人間でした。おそらく本物はずっと前に死亡していたのでしょう」
あの後、ベロボーグの残骸も、そしてキャプテン・ウルギンに擬態していた機械人間の死体も、両方とも錆び付いた金属粉へと姿を変えた。今やベロボーグとキャプテン・ウルギンの存在を示唆するのは地下大聖堂に穿たれた生々しい破壊の痕跡ばかりである。
「そんな事が」
「―――”ありえないなんて事はありえない”、そういう事です」
さて、ここでミカエル君となんだかんだで思考回路が同じマカールの事だから、きっとこんな事を考えているだろう。
”なぜこのタイミングでワリャーグに対する抑止力となり得る黒海艦隊を各方面艦隊へ引き抜いていったのか”。
ワリャーグがアルミヤ半島を版図に収め、ついには今まで境界線となっていたズミール島以西まで魔の手を伸ばしてきたのも、元を辿れば彼らを半島へ押し込めていた黒海艦隊という重石が著しく弱体化したからに他ならない。
”本物の”キャプテン・ウルギンが死亡し、機械人間にすり替えられたのがいつ頃なのかは定かではないが、もし例の組織がウルギンのすり替えだけでなく、黒海艦隊の弱体化にまで絡んでいたのだとしたら―――。
「……もしかしたら、根は相当深いのかもしれんな」
「ええ……考えたくはありませんが、皇帝陛下も既に……」
「……」
そんなわけがない、という否定の言葉は浮かんでこなかった。
いや、さすがにそんな事はないとは願いたいが……心の底からそう願いたいところであるが、もし例の組織の影響力が帝国の中枢にまで及んでいたのだとしたら、これは単なる秘密結社じみた組織の暗躍では済まないかもしれない。
もちろんそんな証拠はどこにも無く、あくまでもポロリと飛び出た最悪の予想にしか過ぎないのだが。
「兄上、お気を付けください。どこに奴らの傀儡が潜んでいるかも分かりません」
「ああ……迂闊に動けんな。見分ける方法はないのか」
「あります」
「なんだ」
「血です」
「血だと?」
「そうです。機械人間の血はこう……安物の塗料みたいな半透明の紅色です。赤ワインみたいな人間の血とは違う」
「なるほど……そうか、血か」
ここに来て、血の繋がった姉弟に情報開示を渋る必要はあるまい。
彼の信用を得るために、俺はナイフを取り出して指先にそれを走らせた。刃でなぞった指先にちくりとした痛みが走り、指先から温かい血がじわりと溢れ出る。
それはそれはもう、赤ワインにそっくりな質感の血だった。ワイングラスに注げば赤ワイン……って、思考回路がおかしい。疲れてるんだろうか。
マカールにナイフを渡すと、彼も同じように指先を軽く切った。彼の手からも同じように普通の人間の血が溢れ出し、兄上の潔白が証明される。
「それともう一つ」
「なんだ」
「ウルギンの件です。あの男、どうやら自分が機械人間にすり替えられている事に気付いていなかったようで」
「……なんだと?」
「自分の身の内から機械部品が覗いたのに気付いたウルギンは、まるで信じられないとでも言いたげな表情でこちらを見つめてきたのです……おそらくですが、機械人間にすり替えられた者は、”自分が機械人間だという自覚がない”のでは」
「厄介だな……自分自身の心まで欺く、か」
結局、スパイや裏切り者が心理的に弱い部分を抱えているのは、自分が敵側の人間だからという自覚があるからである。しかしその自覚すらなければ、揺さぶりにも動じない、心理的に屈強なスパイと化す。
それがあの機械人間たちなのだ。擬態対象者の皮を被り、その人物になりきる事で社会を動かす―――”組織”の都合の良いように。
「まあいい、何よりお前が無事でよかった」
「それはどうも。兄上こそ、ご無事で何よりです」
やっと互いに笑みを浮かべる余裕ができたところで、俺は兄上の腰にぶら下がっている得物に気付いた。
指揮官用のサーベルやシャシュカ……ではない。長い柄の先に分厚い刃が取り付けられた、黄金の斧がそこにある。貴族はよく派手で見栄えの良い武器を好み、たった1本の剣にさえもゴテゴテと、何の戦術的優位性もないような装飾を施した武器を好む。
しかし兄上の持つ斧は、そういうのとは似て非なる代物であると理解できる。
まるで巨大な金塊からそれを削り出し、艶のある黒い金属部品で補強したような、見栄えの良さに実用性を兼ね備えた逸品だった。
そして何より、その斧には見覚えがある。
キリウにあるリガロフ家の屋敷―――その宝物庫の中に、イリヤーの時計と一緒に並んで保管されていたリガロフ家の秘宝の一つ。
【イリヤーの斧】。
リガロフ家の始祖たる英雄イリヤーが、盟友ニキーティチと共に3つの頭を持つ竜『ズミー』を討伐する旅に出た際、その行く手を阻んだ巨人を薙ぎ倒したとされている伝説の斧。巨岩の如き巨人の肉体をかち割ってもなお、その刃には刃毀れ一つなかったとされている。
そうか、マカールも父上から秘宝を……。
「とにかく帰ろう、アレーサへ。戻ったらお前は英雄だ」
「兄上こそ、勲章と昇進は間違いありませんよ」
英雄、ね。
なんだか複雑な心境だ……英雄、とされている先人たちもこんな心境だったのだろうか。
周りだけが盛り上がり、しかし当の本人はそうでもない―――どこか別の場所を、ぽつんと見つめているような、そんな感覚。
心の中にあるのは、まさにそんな感覚だけだった。
アレーサの町が見えてきた。
朝日に照らされるイライナ最南端の町、アレーサ。平和で時間がゆったりと流れているような、そんな心休まる風景の港町には、しかし痛々しい爪痕が未だに深く刻まれている。
破壊された錨のモニュメントに抉られた石畳、倒壊した建物たち……いつもは漁に出ている筈の漁師たちや憲兵たちも総出で、町の復興に全力を注いでいるのがここからも見えた。漁に出ている船の数も、最初にここを訪れた日と比べるとずっと少ない。
けれどももう、更なる暴力に怯える毎日は終わった。
二度とこの町を理不尽な暴力が脅かす事はない。この傷跡を乗り越えればいつかきっと、平穏な日常が再び訪れるだろう。
警戒車の上部、やや右側にオフセットされた九七式中戦車の砲塔から身を乗り出して潮風を浴びる。アレーサに近付くにつれて、空からカモメたちの鳴き声が聞こえてくる。魚を狙っているのか、それともアレーサに立ち寄って休憩しているのか。
鳥たちもまた旅人なのだ。
ハッチの縁に寄り掛かってアレーサを眺めていると、段々と駅のホームが近付いてくる。レンタルホームには俺たちの列車”チェルノボーグ”が停車していて、その傍らではツナギ姿のルカと私服姿のノンナが、こっちに向かって思いっきり手を振っていた。
こっちも手を振り返していると、警戒車を運転しているシスター・イルゼが警笛を鳴らしてくれた。蒸気機関車のそれとは違い、車のクラクションのような軽快な音の警笛。ほんの景気付けのつもりだったのだろうが、どうやらそれは英雄の凱旋と受け取られたらしい。
出迎えに来てくれたルカとノンナの他にも、今の警笛でこちらの接近に気付いた野次馬たちがぞろぞろと集まり始める。
ホームに近付いていく度に、そんな彼らの声がはっきりと聞こえるようになってくる。英雄が帰ってきた、血盟旅団だ……もう既に、ワリャーグを壊滅させキャプテン・ウルギンを討ち取ったという知らせはアレーサにまで届いていたらしい。
恥ずかしさは感じたが、それよりも虚しさの方が勝った。あんな結末で……帝国の裏で暗躍する組織の計画すら挫けなかったのに、それで英雄と呼ばれてしまっていいのか、とついつい思ってしまう。
そんな重苦しい思いを振り切れぬうちに、警戒車はレンタルホームへとゆっくり停車した。車輪がレールを擦る甲高い音が消え、野次馬たちに作り笑いを浮かべて軽く手を振ってから、車内に一旦引っ込んでハッチから外に出る。
戦いの疲れもまだ癒えていないというのに、そんな俺たちを出迎えたのは野次馬たちからの容赦のない質問攻めだった。
「君がミカエル君だね!?」
「さっき活躍を聞いたよ! ワリャーグを蹴散らしてきたんだって!?」
「ありがとう、君はアレーサの英雄だよ!」
「君、ウチのギルドに来ない!?」
「あ、ああ……ええと……」
質問攻めの声に、段々とシャッターを切る音も混じり始めた。新聞記者なのか、それとも単なる野次馬なのかは分からない。木製のフレームに、ラッパみたいな馬鹿でかいストロボの付いた黎明期のカメラを手にした男たちが、質問攻めに困惑するミカエル君の姿をパシャパシャと撮影している。
もうやりたい放題だ……なんだこいつら。
「ご主人様……」
「メイドさん、質問していい? ご主人様とは付き合ってるの?」
「え、恋人?」
「すいませんメイドさん、ご主人様について何か一言!」
ついには質問攻めの矛先が、俺の傍らで庇うように立っていたクラリスにまで向いたところで、野太い声がホームに響く。
「おうおうおーう! お前ら好き勝手にウチのミカちゃんにインタビューしてるが、そーゆーのはちゃんとマネージャー通してくれるかなァ!?」
迷彩服姿のパヴェルが声を張り上げると、質問攻めはぴたりと止まった。
一応言っておくが、パヴェルの人相は悪い方である。
もし彼が迷彩服姿ではなくスーツ姿だったら、どこかのマフィアの幹部にしか見えない。懐に手を入れようものならば銃を取り出そうとしているようにしか見えず、そんな状態で凄まれたらもうアレである。心臓の弱い人は気を付けよう。
そんな人相の悪い、ヒグマみたいな体格のこわーいお兄さんを通せと言われれば、野次馬やマスコミの連中は何も言えない。散発的に質問はされたけれど、大半の野次馬やマスコミの奴らは蜘蛛の子を散らすようにホームから離れていった。
「ミカ姉、大丈夫だった!?」
「あ、ああ」
「まったく、ウチの稼ぎ頭に容赦ねえ奴らだな」
「……ありがとう、パヴェル」
「気にすんなって」
ぽんっ、と彼の大きな手が俺の頭の上に乗せられる。
「それより、よく無事に帰ってきたな。おかえり」
「ああ……ただいま」
「疲れてるだろ、ゆっくり休め」
「そうするよ」
戦闘でも疲れたし、何より色々あり過ぎた。
キャプテン・ウルギンの正体に謎の組織の影、そして―――クラリスの出生について。
とにかく今は休まなきゃ、頭がパンクしそうだった。
部屋の中は暖かかった。
シャワーを浴びる前、クラリスが気を利かせてストーブをつけておいてくれたのだろう。部屋の中に置かれたストーブが熱気を吐き出し、まだ春とは思えない程冷たい部屋の中を温めている。
ふう、と息を吐きながらベッドに腰を下ろすと、メイド服姿のクラリスも隣に腰を下ろした。
「クラリスもお疲れ様」
「ええ……」
彼女も彼女で、やはり思う事があるのだろう。
さっきの質問攻めの件ではない―――自分と、あの女性兵士の関係について。
顔の半分を覆うバイザーの下から出てきたのは、クラリスに瓜二つの顔。彼女と同じ竜の角に竜の尾、竜の外殻。
顔だけでなくそこまで身体的特徴が一致すれば、もはや無関係とは言えないだろう。
俺も薄々感じていた―――クラリスは、例の組織と何か関係があるのではないか、と。
しかし彼女には記憶がない。キリウの地下にあったダンジョン、遺伝子研究所とされていた旧人類の施設の奥深くで眠りにつく以前の記憶が無く、確かめようがないのだ。
「ご主人様」
「なに?」
「クラリスは……クラリスは怖いのです。自分の正体を知るのが」
「……」
「もしクラリスがあの組織の関係者だったら……クラリスの失われた記憶が、ご主人様に害を成すようなものだったとしたら……そう思うと、怖くて怖くて仕方がないのです」
切り取られた空白の過去。
そこにあった筈の自分の軌跡。それは果たして何なのか……現時点では、悪い予想ばかりが浮かんでしまう。
「ご主人様」
「どうした」
「もし……もしクラリスの正体が分かっても……それが最悪の結果だったとしても、クラリスを傍に置いてくださいますか?」
縋りつくように、ベッドの上の俺の手をぎゅっと握ってくるクラリス。いつもはあんなに凛々しくて、力強いクラリスの手。しかし今ばかりはどうしても、母親を見失った小動物のように弱々しく思えて……胸が痛くなった。
捨てないでほしい、ずっと傍に置いてほしい―――そんな彼女の想いが、手を通して伝わってくるような気がした。
「……当たり前だろ」
ぎゅっ、と彼女の手を握り返す。
びくり、とクラリスの身体が震えた。
「捨ててなんかやるもんか。離してやるもんか。クラリス、お前は俺のものだ」
「ご主人様……」
「絶対に見捨てない。絶対に見殺しにしない。俺の全てを以て、全力でクラリスを守る。絶対に独りにはしない」
一体俺は何を言っているのか。
心の中に浮かんだ言葉を、特に選ばずに正直に吐き出した結果がそれだった。絶対に独りにはしない、というのはそうだけど、俺は今何と言った?
とんでもなく恥ずかしい事を言っていなかったか。自分の発言を顧みて顔が赤くなり始めると、クラリスが俺の背中に手を回していた。
そのまま抱き寄せられ、一緒にベッドの上に転がり込む。ぼふっ、と毛布に体が沈み込み、洗濯したてのシーツの香りが舞い上がった。
すぐ目の前にある、メガネのレンズ越しのクラリスの眼。ルビーのように紅いその瞳には、確かに涙が浮かんでいた。
「ありがとう……ございます……!」
「……ああ」
恥ずかしかったけれど……自分の想いを正直に伝えられて、こっちもすっきりしたような気がする。
そのまま俺たちは、2人で仲良く眠りに落ちた。
まどろみの底に沈む寸前、ずっと一緒ですよ、というクラリスの声が聞こえたような気がした。




