最強たる所以
1873年 ノヴォシア帝国
イライナ地方 キリウ
アナスタシア、6歳
『―――これは驚いた』
紺色のローブに身を包んだ魔術師は、その結果を見て目を丸くした。
彼とて全盛期の頃は広大なノヴォシアに名を轟かせた魔術師の1人。力に衰えを感じ、後進に道を譲るべく一線を退いた今はこうして貴族に雇われ、貴族の子供たちを一人前の魔術師として育て上げる教官の仕事をしている。
故に彼の目は確かで、経験も豊富であった。
これまでの50年の魔術師人生の中で、優秀な魔術師を何人も目にしてきた。師である彼の元を巣立ち、冒険者や帝国騎士団の魔術師顧問となった教え子たちは数多い。そして現役の頃も同じように、他の魔術師たちと鎬を削り合ってきた。
そんな魔術と常に共にあった彼を、60歳を過ぎた今になって驚愕させる人材がこのキリウに生まれていたことに、彼は驚きを隠せない。
彼の目の前にはテーブルがあり、その上には小さな洗面器が置かれている。中を満たしているのは水……ではなく、どろりとした水銀だ。それに動物の骨の粉末を混ぜ合わせたものである。
魔術の属性適性を調べるための媒体だ。これに手を入れて魔力を流す事で、現れる変化から術者の属性への適性を調べる、というものである。
目の前の洗面器には”2つ”の変化があった。
左半分はまるで暖炉にくべられた薪のように赤々と燃え盛り、さながら溶岩のよう。
そして右半分はというと、闇夜を薙ぎ払い朝の訪れを告げる太陽のように、黄金の光を放っていたのである。
『信じられん……適性が、こんな』
書物の記録上でしか、見たことが無かった。
原則として、適合する属性は1人につき1つのみ―――その原則が、魔術師ならば誰もが知っている常識が、目の前で覆されたのである。
有休が無駄になってしまった、と落胆していたアナスタシアだったが、どうやら無駄になったわけでもないらしい。
海の向こうから轟く、雷鳴にも似た轟音。火薬の力で押し出されたそれは、やがて運動エネルギーを使い果たし、その質量を徐々に表面化させながら大地へと落ちてくる。
住民の避難が済んだアレーサに弾着する榴弾の爆炎を遠くに望みながら、アナスタシアは静かに息を吐いた。身体中の魔力の波形を調整―――普段生活している時の落ち着いた波形から、高波の如く荒れ狂う状態へと、波形を大きく隆起させていく。
自らの心臓の鼓動の他に、もう一つの鼓動が生じたような錯覚を覚える。が、それは5秒も数えぬうちに心臓の鼓動と歩調を合わせていき、やがては1つの鼓動へと統合されていく。
同調完了―――下準備が整ったところで、右手を静かに頭上へ掲げた。
「Йёонволзжы, Мурлвеёй Ыжгийер(英霊よ、その力を我に)」
放射された黄金の魔力が、天へと突き上げられた。周囲の空気が微かに振動すると共に、一瞬ばかり周囲の気温が上がる。
光の中に伸ばされたアナスタシアの手の中に、やがて何かが触れている感触が生じる。まるで冬場の暖炉のように暖かく、安らぎを覚える類の温もりであったが、しかし光の中から引き抜かれていたその手に握られていたのは、安らぎとは程遠い外見の代物だった。
―――黄金の刀身を持つ、大剣である。
形状はスコットランドの大剣”クレイモア”を彷彿とさせる。刀身自体はやや細身で、Y字型に伸びる鍔の先端には獅子の顔を模した装飾がある。柄は長く、片手で振るうのではなく両手で振り回す事を想定しているのが一目瞭然であった。
それこそが、帝国騎士団への内定が決まった日、父であるステファン・スピリドノヴィッチ・リガロフより賜ったリガロフ家の秘宝―――救国の英雄イリヤーが遺した、『イリヤーの大剣』であった。
伝承では、イリヤーはこの剣を使い、盟友ニキーティチと共に三頭の邪悪竜『ズミー』の首の一つを切り落とした、とされている。
だからなのだろう、竜の呪いゆえか黄金の刀身の一部は赤みがかっており、どれだけ研いでもそれが消える事は無い。
本来は邪悪なる竜を屠るために用意された得物であり、いくら悪人とはいえ海賊相手に振るうには過ぎたる代物である。害虫駆除にサーモバリック弾を使用するかの如き暴挙であったが、だからといって手を抜く事だけはアナスタシアのプライドが許さない。
いかなる相手にも常に本気であれ―――それが獅子たる在り方である、と彼女は幼き日より信じている。
姿勢を低くし、前傾姿勢になりながら駆け出した。第二世代型の獣人であるがゆえに骨格もヒトのそれに近くなった弊害で、より獣に近い第一世代型獣人と比較すると身体能力も身体の頑丈さも劣っているが、それを感じさせない程の瞬発力で瞬く間に彼女はトップスピードに達していた。
アレーサの石畳を踏み締め、乗り捨てられた車の上を飛び越えつつ縦回転。大通りでは既に憲兵隊とワリャーグ戦闘員たちの銃撃戦や白兵戦が繰り広げられており、平時であれば客引きの声と買い物客でにぎわう大通りは銃声と怒号の飛び交う戦場と化している。
回転する勢いを乗せながら縦に一閃。一瞬、空振りしたかと思ってしまうほどの軽い手応えに戸惑いを覚えるが、頬に降りかかった数滴の紅い飛沫が、その一撃が決して外れてはいない事を―――まさに必殺の一撃であった事を雄弁に物語る。
縦に両断された敵兵の脇を通過し、更に深く踏み込む。仲間の唐突な死に気付いた数名の戦闘員が銃剣付きのマスケットをアナスタシアへと向けてくるが、その指が引き金を引き、撃鉄に取り付けられた火打石がカチンッ、と火花を散らす頃には、既に彼女の姿はその射線上になかった。
「!?」
速い、と誰かが呟いたその時、マスケットの反動とは別に胸を貫くような衝撃が、戦闘員の1人を襲う。
反動―――ではない。
低く腰を落とし、重心を下げた状態から飛び上がる勢いを乗せて放たれた、大剣による重々しい刺突だった。それは胸骨もろとも心臓をを容易く穿つと、ついでと言わんばかりに背骨まで突き破り、背中から血に塗れた切っ先を覗かせる。
「この女ァ!!」
「やっちまえ!」
1人、また1人と仲間が屠られていくのを目の当たりにして昂ったのだろう。周囲の戦闘員どころか、憲兵隊と銃撃戦を繰り広げていたワリャーグ戦闘員の一部までもが、アナスタシアに狙いを定めてくる。
(少し突出し過ぎたか)
大剣を振り回すには、敵との距離が近すぎる―――ならば、と思い切った彼女はイリヤーの大剣からあっさりと手を放し、背後から突撃してきた敵兵の銃剣による刺突を、徒手空拳の状態であっさりと受け流してみせる。
ハンドガードを横からとんっ、と軽く叩く要領で銃剣突撃の狙いを狂わせ、その隙に距離を詰めたのだ。しまった、と戦闘員が腰のダガーに手を伸ばした頃には既に遅く、アナスタシアの華奢で、しかし肉刺の潰れた後が生々しく残る手のひらが、屈強なワリャーグの戦闘員の顔面をがっしりと掴んでいた。
しかし、彼らとて船乗りの端くれ。砲弾や物資の運搬、広大な甲板の掃除に訓練と、日頃の激務で鍛え上げられた肉体は筋骨隆々だ。訓練を積んだとはいえ、華奢な女1人に屈するほどヤワではない。
その筈だが―――彼女の手は、まるで万力で金属を締め上げているかの如く離れる気配はなかった。
「ぎっ……!」
「―――爆ぜよ」
短すぎる死刑宣告。その直後、手のひらが焼けた鉄の如く赤く輝き―――人生最期の光景を、文字通りその両目に”焼き付けた”。
カッ、と閃く赤い閃光。まるで焼却炉の中を直視したかのように光が漏れ出たかと思いきや、それは熱を伴って戦闘員の肉体を一瞬のうちに焼き焦がした。
炎属性の魔術、”焼却”―――接近戦用の初歩的なもので、触れた物体を発火させるという術である。特性は炎属性特有の”燃焼”。
黒焦げになった焼死体が、力なく石畳の上に転がる。
仲間の無残な死に慄くワリャーグたち。勢いが削がれた今こそ好機と言わんばかりに、アナスタシアは声を張り上げた。
「聞け、海賊共! 私はノヴォシア帝国騎士団ストレリツィ所属、アナスタシア・ステファノヴァ・リガロヴァ!」
先ほどの乱戦で声を上げても誰も耳を傾けようとはしないだろう。だから自らに注目を集め、そして敵の士気を挫くほどの無残な攻撃で勢いを削いだ―――ここまでは、アナスタシアの想い描いたシナリオ通り。
後は相手次第だ。ここで大人しく軍門に降るか、それとも血みどろの闘争を望むか。
「私の力があれば、貴様らなどすぐに母艦諸共殲滅できる。が、今すぐ投降するというのならば命までは奪わん。帝国騎士として、貴様らに寛大な処遇を約束しよう! さあ、選べ! 武器を置き投降するか、それとも戦って死ぬか!! 貴様らの運命は二つに一つだ!!」
腹の底から声を絞り出すアナスタシアであったが、応えは既に分かっていた。この降伏勧告が全くの無駄になる、という事くらいは。
ワリャーグがもし、交渉に応じるような理性を持つ集団であれば、アレーサ襲撃は―――いや、黒海での一連の問題はもっと早い段階で解決していただろう。にもかかわらず、黒海の商船の往来が今日まで脅かされ続けていたのは、彼らが闘争を望む集団であるからに他ならない。
案の定、返答は彼女を狙ったマスケットの散発的な銃撃だった。傍らの死体に突き立てたままのイリヤーの大剣を引き抜きつつ、銃弾を弾いて後方へ大きく飛ぶアナスタシア。その目には話の通じない蛮人を見るような、軽蔑の色が浮かんでいた。
「……なるほど、良かろう」
石畳に着地し、剣を構えながら低い声で告げる。
「所詮は獣であった―――そういう事か」
獣に、ヒトの言葉は分かるまい。
ならばもう、言葉など不要。
剣戟と銃撃の飛び交う戦場。それら全てが消え失せた時に、立っていた方が勝者なのだ。
切っ先を石畳に擦り付けながら突進するアナスタシア。ギャギャギャッ、と切っ先が石畳を浅く切り裂き、猛烈な火花を散らす。
その勢いを乗せ、剣を振り上げた。剣戟と共に赤い炎が舞い、今まさにラッパ銃から獰猛な散弾を放とうとしていた男を呑み込む。
炎属性魔術『皇火』。
彼女が信仰する宗教―――その教会で祀られている英霊は、煉獄の戦鬼『リキヤ』。
傭兵であり、火薬の扱いに精通していたとされる男性の英霊。氷の精霊エリスの夫であるという話は有名だが、一説には蒼雷の騎士エミリアの夫でもあった、という説もある(しかしエミリア教ではエミリアは生涯独身であったという異説が信じられている)。
その力の一部を振るうアナスタシアに、妥協は無い。
やると決めたならば最後までやり抜く―――障害があるならば力を以て打ち破る。それがアナスタシアという女であった。
「くそ、退け! 母艦まで退けぇ!!」
このままでは勝てない―――降伏勧告を無下にした分際で、やっと今になって自らの不利を悟ったのだろう。常人と魔術師、それも高ランクの適性を持つ者が相手では、野兎と大熊ほどの絶望的な差があるのだ。
撤退こそすれど、武器は手放さないワリャーグの戦闘員たち。あくまでも戦いを止めるつもりはない、という意志を感じながらアナスタシアは息を吐き、ちらりと海を見た。
アレーサの港には、異様な巨艦が居座っている。大きな衝角に4つの煙突、そして152mm砲。元黒海艦隊所属、装甲艦パーミャチ・メルクーリヤである。
アレが砲撃を続けている限り、ワリャーグの優位は揺るがないだろう。戦とはそういうもので、どれだけ1人の天才が局地的に敵を蹴散らしても、全体的な戦局までは動かない。
しかしそれが魔術師であれば―――敵の頼みの綱を笑みと共に断ち切れる、最高の位置についている魔術師であれば、話は別だ。
今のアナスタシアには、あの巨艦がドクドクと脈打つ心臓に思えた。アレさえ潰せば、この戦いは終わる。
ならば、と目を細め、イリヤーの大剣を頭上に掲げた。
かつて邪悪龍ズミーの首の一つを切り落とした伝説の大剣に、黄金の光が集まり始める。
切っ先から溢れ出た光が、頭上の雲をも貫いた。雲に開いた大穴から、夕日に染まる炎のような空が覗き、その黄金の輝きに微かな赤い色彩を加えていく。
今の彼女が放っているのは、光属性の魔力だった。
原則として、この世界の獣人たちが持ちうる属性への適性は1つだけとされている。ミカエルが雷に、マカールが土に、そしてジノヴィが氷に適性を持っているように、アナスタシアも炎属性に適性を持っていた。
しかし彼女は―――彼女ばかりは、特別だった。
第二の属性―――いや、炎属性をも上回る光属性への適性を、彼女は生まれつき持ち合わせていたのである。
炎と光の”二重属性”。それが長女アナスタシアの持つ、類稀な”才能”であった。
適性C++の炎属性に対し、光属性は破格のSランクという驚異的な適性の高さを持つ彼女は、煉獄の戦鬼リキヤの他にもう一つ、”神”を信仰している。
それが光の女神『リンネ』であった。
あらゆる死者を慈しみ、その魂を他の世界に転生させる力を持つと言われる女神の力。光属性は基本的に治癒系が多い、とされているが、リンネ教の場合は別である。
魂の輪廻転生―――すなわち”崩壊”と”再構築”。破壊と再生に関連した術が多いのである。
そして今から放とうとしている魔術も、その破壊の力の一部であった。
雲をも貫いていた光の柱はすでに消え、限界まで濃縮されたそれはイリヤーの大剣へと収まっていた。刀身には黄金の輪が幾重にも浮かび、彼女の正面には円と六芒星、それから幾何学模様の描かれた魔法陣が浮かぶ。
あの者たちの魂は救われるのだろうか―――ふとそんな事を思ったアナスタシアだったが、すぐにその無駄な思考を頭の隅に押しやった。死者の安寧もそうだが、今は生者の安寧を優先する時。彼らは他ならぬ侵略者なのだ。
ドンッ、と一歩を踏み出した。左足のブーツが石畳にめり込み、石の破片が周囲を舞う。
「愚かな侵略者どもよ……消え去れッ!!」
渾身の力を込め、目の前の魔法陣を突き抜いた。
黄金の光が魔法陣の中で幾重にも反射し、それに耐えきれなくなった魔法陣が崩壊―――それが引き金だったかのように、前方へと向けて黄金の奔流が解き放たれる。
ゴウッ、と熱風を纏いながら放たれたそれは、一目散に逃げ去るワリャーグの戦闘員たちの頭上を大蛇のように通過したかと思いきや、港に停泊する装甲艦パーミャチ・メルクーリヤ目掛けて飛翔していった。装甲艦の指揮を執るマカロフ艦長が回避を命じようとするも、巨艦がやっと動き出した頃には、その閃光が全てを焼いていた。
艦橋の窓が溶け、装甲が剥がれ、甲板上の乗組員たちが骨一つ残さず焼かれていく。あっという間に骨組みまで焼き尽くされたパーミャチ・メルクーリヤであったが、黄金の奔流はそれだけでは足りぬとばかりに荒れ狂い、ついには黒海を一閃してしまう。
装甲艦が完全消滅した後には、モーゼが海を割ったかのような光景だけが残されていた。
逃げ帰るべき母艦まで失ってしまったワリャーグの戦闘員たち。圧倒的な力を見せつけられて呆然とする彼らへ向け、冷たい笑みを浮かべたアナスタシアが言う。
「どうする、まだやるか?」




