ワリャーグ
1887年 5月11日 午前10時20分
イライナ地方南部 黒海 ズミール島沖
甲板に、見張り員が必死に鳴らす警鐘の音が響く。
どたばたと甲板を走り、持ち場についていく砲手たち。左右へと向ける形で配置された武装に砲手たちが辿り着く頃には、マストの半ばほどまで届くほどの水柱が、輸送船の周囲にいくつも屹立していた。
「状況報告!」
「6時方向、射程距離外の海域に敵船! 海賊です!!」
後方か、と船長は唇を噛み締めながら、腰に下げた望遠鏡を伸ばして後方を見た。うっすらと黒海にかかる霧の向こうには、確かに1隻の大型船らしき船が見える。全長はおよそ130m半ばほどだろうか。黒煙を濛々と吹き上げる4つの煙突と大きく高いマスト。前部甲板には2基の152mm連装砲が設けられており、それらがこちらへとひっきりなしに火を噴いている。
特徴的な高いマストには、真っ白な髑髏が描かれていた。
ワリャーグ―――アルミヤ半島を根城に活動する、海賊たちの総称である。
今まではズミール島以東の海域で遭遇したという報告が上がっていたが、ついにズミール島よりも西側の海域へと進出してきたという事なのだろう。獲物がいなくなったものだから、ついにここまで来たか―――輸送船の艦長が考えを巡らせた直後、ズズン、と重い衝撃が甲板を走り、平衡感覚が一時的に狂った。
「後部甲板に被弾! 火災発生!」
「鎮火急げ!」
「機関室、これ以上出力は上がらんのか!!」
ラッパのような伝声管へと向けて、機関長が怒鳴りつける。しかしそこから返ってきたのは、輸送艦の狭苦しい機関室でボイラーの面倒を見る若手機関士たちの、頼りない声だった。
『ボイラーの圧力が限界です! 魔力機関も動力に回してますが、これ以上は……!』
無理もない事である。簡易的に武装と装甲を施したとはいえ、彼らの乗る船は元々は民間の造船所で建造された輸送船。それを海上騎士団で買い取り、アスマン・オルコ帝国とアレーサを結ぶ輸送物資を乗せた”定期便”として運用しているのだ。
最前線で運用されるのであれば、もっと速力のある輸送船を回すか、護衛を付けるであろう。しかし黒海内にワリャーグを除く脅威は今のところ無く、そのワリャーグにしてもズミール島以東でなければ活動しないという認識があった事から、1年前の海軍戦略の見直しの際に黒海艦隊の殆どは、太平洋艦隊や北方艦隊に引き抜かれてしまっている。
黒海に残ったのは旧式の艦ばかりであり、乗組員も若手が大半を占めていた。
せめて護衛の駆逐艦でも居てくれれば、と海上騎士団本部を呪いながら、船長は大きな声で命じた。
「重い荷を捨てろ!」
「しかしそれでは―――」
「荷はまた買い直せば良い、乗組員諸君の命に替えは利かん! 責任は私が取る、重い荷を優先的に捨てろ! 船を軽くして速度を確保するんだ! 後部砲塔、応戦開始! 射程外でもなんでも構わん、やり返せ!」
この輸送任務は皇帝陛下からの命令でもある。鎬を削り合いつつも、経済的に協力関係にあるアスマン・オルコ帝国との関係改善のためにも必要な事だ。それが海賊に襲われた程度で荷を捨て逃げおおせるなど、あってはならない事である。
無事に祖国まで辿り着いたところで、船長に待っているのは厳罰であろう。しかし彼にも、騎士として以前に船乗りとしての意地があった。この船に乗る乗組員を必ず、誰一人欠けることなく故郷へ送り届けるという船乗りとしての意地が。
自分1人の厳罰で皆が助かるならば、と覚悟を決めているところに、部下からの報告が入る。
「後部砲塔、砲撃準備完了!」
「砲撃開始! 海賊共を弁えさせろ!!」
輸送船の後部に後付けで用意された85mm単装砲が、仰角を目一杯つけた状態で火を噴いた。バムンッ、と重々しい砲声が響く傍らで、乗組員たちがせっせと積み荷を海へと捨てていく。
放たれた砲弾は海賊船の遥か手前に着弾、なんとも弱々しい水柱を吹き上げる。輸送船に搭載されている武装もあくまで自衛用として必要最低限のものとなっているが、それも旧式の艦艇から取り外された古い武装のみ。それを共食い整備でなんとか維持しているのだから、ノヴォシアの黒海艦隊がどれだけ冷や飯を食わされているかはお判りだろう。
装填手が砲弾を装填した次の瞬間、遥か空の彼方から飛来した3発の砲弾が、輸送船の船体を立て続けに捉えた。後部甲板、マストの付け根、そして煙突を半ばほどからもぎ取られた輸送船の船体が激震し、甲板が黒煙に包まれ始める。
乗員たちの悲鳴と損害報告を聴きながら、船長はどうする事も出来ない無力をただただ恥じた。
「敵艦、白旗を上げた!」
見張り員の報告の直後、甲板が歓喜の声に包まれた。さきほどまでひっきりなしに砲撃を続けていた2基の主砲もようやく沈黙し、砲手たちが共に奇声にも似た歓喜の声を上げている。
その様子を艦橋から見下ろしながら、”ヴァレリー・ウルギン”は満足げににんまりと笑みを浮かべた。
ウォッカの酒瓶を口へと運び、喉を焼くようなアルコールの味に文字通り酔いしれる。やはり、勝利の後に飲む酒は格別だ。勝利の美酒、それには中毒性があるのだろう。どんなに強烈な薬物でも至る事の無い快楽が、そこにはある。
「いよいよですな、キャプテン・ウルギン」
「ああ、いよいよだ」
拿捕した敵艦からの略奪の命令を受け、ピストルやサーベルで武装した船員たちを乗せたボートが3艘、艦を離れていくのを見守りながら、ウルギンは空になった酒瓶を海へと投げ捨てた。
この艦は元々、ノヴォシア海上騎士団で運用されていた装甲艦だ。”パーミャチ・メルクーリヤ”と名付けられていたそれは、今では海賊集団ワリャーグの旗艦として、こうして黒海での略奪行為に励んでいる。
黒海艦隊が太平洋や北方海域に引き抜かれて行ってからというもの、黒海はワリャーグの庭と呼べるほどに動きやすい場所になった。今まではズミール島以東の海域でしかこういった略奪行為が出来ず、それよりも西方の海域でこんな事をしようものならばたちまち黒海艦隊が集まってきて袋叩きにされるのがオチであった。
しかし今、もう目の上のたん瘤だった黒海艦隊はいない。聖イーランド帝国との建艦競争に端を発する優先順位の変更により、黒海艦隊は見るも無残に痩せ細り、今や若手か左遷されてきた無能な指揮官の掃き溜めと化している。
そして今回の、ズミール島を西へ越えての略奪行為も無事に成功したことで、既に黒海にワリャーグにとっての脅威が居ない事も証明された。
これならばワリャーグこそが、黒海の支配者として君臨する日もそう遠くは無いだろう。
「次の標的はいかがいたしましょう、キャプテン・ウルギン?」
「……いずれはアレーサを狙いたいものだな」
アレーサ。
イライナ地方南端に位置し、交易の拠点として栄えている港町。そこさえ押さえる事が出来れば、黒海でのワリャーグの支配力は確固たるものとなるであろう。
黒海全域の支配は、彼らにとっての長年の宿願―――やがては大陸へ、そして海峡を越えて外洋へと進出し、全ての海を支配下に置く。あまりにも壮大な夢の第一歩が、今まさに現実のものとなろうとしている。
この危機をまだ、誰も知らない。
大きな水瓶の中に、コインを1枚投げ入れた。
波紋が広がり、1ライブル硬貨が水瓶の底へと沈んでいく。その大きな水瓶の前で手を合わせ、静かに祈った。英霊たる蒼雷の騎士エミリアよ、更なる力を我に―――。
手をそっと下ろし、水瓶の向こうに安置されているエミリアの彫刻を見上げた。大剣を地面に突き立て、真剣な表情で正面をじっと見据える英霊エミリアの彫刻。伴侶も無く、たった1本の剣と雷の魔術だけで激戦を生き抜いたその眼光は、彫刻だと分かっていてもなお鋭い。こうして正面に立つことに躊躇いを覚えるほどだ。
アレーサにある『アレーサ・エミリア教会』。キリウにあったエミリア教と同じく、英霊エミリアを信仰する同じ宗派の教会だ。こうした教会は各地にあるので、もし訪れた地に自分と同じ宗派の教会があったら足を運ぶといい。
さすがに礼拝に参加したり、神父の説法を聴いたりするまでやらなくても、こうしてコインを納めて祈りを捧げるだけでも魔術の適性はプラス方向へと動くからだ。
何故かというと、その理由はこの世界の魔術の仕組みにある。だいぶ前にも説明したけど、おさらいという事でもう一度。
この世界の魔術は、英霊や精霊、神の力の一部を借りて発動するという仕組みになっており、どの魔術を使う事ができるかは生まれ持った”属性適性”に左右される。俺の場合は雷属性でランクはC程度なので、信仰の対象としては一番グレードの低い英霊が精一杯という事になる。
基本的にこの適正が後天的な理由で大きく跳ね上がるという事はないが、装備の質や信仰心の強さによっては多少プラス側に変動する事がある。こうして教会を訪れ、祈りを捧げて信仰心を示す事で、より大きな力を授けてもらう事ができるのだ。
ところで、宗教には色んな祈り方があるのはみんな知っているだろう。十字を切ったり、イスラム教のように祈ったりと、神々への祈りの捧げ方は様々だ。
エミリア教にもそういう祈り方があるのだが、意外な事にそれは仏教の祈りに似ている。両手を合わせてそのまま頭を下げる、前世の日本でもよく目にしたスタイルだ。ノヴォシアの宗教でもこうした祈り方の宗教は他にもあるが、珍しい部類であるという。
どのくらい珍しいかというと、祈り方でどの宗教の信者かすぐ特定されるレベルなんだとか。
シスターに会釈してから、俺は教会を出た。
「ごめん、お待たせ」
「いえいえ、お気になさらず」
これで少しは適正上がってればいいなぁ……とは思うが、後天的な要因で適性が一気に上がる、なんてラノベみたいなことは基本的に起こらない。どう頑張ってもC+程度、それ以上は望めない。
こればかりは努力で何とかなるものではない。人間がどれだけ筋トレしたって自力で空を飛ぶことができないように、魔術の属性適性に大きな変化はないのだ。だから適性を限界まで上げるという叶わぬ夢を追い求めるより、自分で出来る範囲でより効率的な魔術の運用に全振りした方が良い。
さて、仲間4人で教会の次に向かったのはアレーサにある冒険者管理局。入り口には相変わらず錨を模したオブジェがドドンと置かれていて、海から吹いてくる潮風と相まって、ここが港町なのだと嫌でも理解させられる。
内部の構造はキリウやザリンツィクの管理局と大きく変わらない。大きな広間にはテーブルや椅子がいくつも置かれていて、入り口から見て右側に食堂のカウンター、奥に依頼の張られている掲示板、左側が受付となっている。
疫病が蔓延していたザリンツィクとは違って、アレーサの管理局は冒険者たちや船乗りたちで賑わっているようだった。注文を受けたウェイトレスたちがせっせと料理を運び、テーブルでは冒険者のパーティが依頼終了後の打ち上げやこれからの作戦会議、酔った男同士の力比べに興じている。荒くれ者の集まり、という表現が一番しっくりくる。
天井には巨大なサメの魚拓が飾られている。目測だけど20mは超えていると思われる。あんな化け物に果敢に挑んだ漁師がこのアレーサに居るというのだろうか。
「に、賑やかなところですねぇ……」
ちょっと困惑気味にそう呟いたのはシスター・イルゼ。あまりこういう騒がしい場所に縁も所縁もない人生を送ってきたためか、免疫がないらしい。
ぎゅっ、と袖が引っ張られる感触。ちらりと見てみると、シスター・イルゼが俺の上着の袖を掴んでいた。無意識なのだろうか。
振りほどく理由も特には無く、そのまま掲示板の前へと向かう。
「よぅお嬢ちゃんたち! おじさんたちと飲まない!?」
「馬鹿、アンタって人は……ごめんねえウチの主人がうるさくて」
「でへへへへ」
夫婦で冒険者をしているのか、酔っぱらったシマウマの獣人の男性が羊の獣人の女性に頭を引っ叩かれていた。随分と気の強そうな奥さんである。多分あの人、家では尻に敷かれているのではなかろうか。
そんな夫婦のやり取りに苦笑いを返し、気を取り直して掲示板の前へ。
ザリンツィクと違って人手が足りているからか、貼られている依頼の種類はそれほど多くない。果たして俺たちにできる仕事は残っているのか心配になるが……。
「ん」
サメの討伐とか機雷撤去(危なっ!?)という物騒な依頼の中に、図鑑で目にした魔物の名前があったので、その依頼書を手に取ってみる。
【ヴォジャノーイ幼体10体の討伐】
「なにそれ? ヴォジャノーイ?」
「ヴォジャノーイの幼体だよ。春は泥の中で生活し、夏ごろになると進化して地上で活動するようになるんだ」
「へー……報酬は12000ライブルか、悪くないわね」
目が金のマークになってますよモニカ氏。
依頼のランクはD。原則として依頼は冒険者ランクと同じランクのものしか受けられないのだが、パーティーで参加している時に限り、その依頼のランクに満たない場合でも”パーティーメンバー全員のランクの平均”までのランクであれば、低ランクの冒険者でも参加できる。
だから俺たちの場合、モニカがC、俺とクラリスがD、シスター・イルゼがEなので平均でDランクとなる。だからシスター・イルゼもDランクまでの依頼であれば、Eランク冒険者の身分でも受ける事が出来るのだ。
低ランク冒険者でも、場数を踏んだ冒険者が一緒ならカバーし合えるだろうという、管理局が定めた一種の救済措置である。
「それになさいますか、ご主人様?」
「俺はこれが良いな。みんなは?」
「あたしはそれでいいわよ?」
「では、私もそれで」
「よし……じゃあ今日の仕事はこれにしよう」
今日の仕事は決まった。
ヴォジャノーイ幼体10体の討伐―――資金調達にも、力試しにもちょうど良さそうだ。




