17年ぶりに寿司を食べました
「それじゃ、俺たちは列車に戻るよ」
夕食をご馳走になり、サリーもお腹いっぱいになってすやすやと寝付いたところで、俺はそう切り出しながら席を立った。もう行っちゃうの、と母さんは言ってきたけれど、いきなり押し掛けた上に夕飯までご馳走になったのだ。あまり迷惑はかけたくない。
それに仲間たちも心配させたくないし、ここは件のアルミヤ半島に近いアレーサ。ワリャーグの動きも個人的に気になっていたところだ……パヴェルが何か掴んでいればいいのだが。
「しばらくは駅のレンタルホームに居るから、何かあったら連絡してね。8番ホームだから」
「ええ……もっとゆっくりしていけばいいのに」
「そうしたいけど、仲間も待たせてるから」
そう言いながら、駆け寄ってきた母の腕の中ですやすやと眠るサリーの頭を優しく撫でた。ハクビシンの真っ黒なケモミミが時折ピクリと揺れて、それに合わせて瞼も微かに動く。この世に生を受けて僅か5ヵ月、彼女は一体どんな夢を見ているのだろうか。
願わくば、サリエルには俺のように自らの出生を呪うような、そんな思いはして欲しくないものだ。この綺麗な港町で自由気ままに生きてほしい。17歳も歳の離れた兄からの、ちょっとした願いだった。
それに今回の件、報告しなければ―――兄ズに。
兄たちを通して父上の耳にこの事が入るのではないかと一瞬思ったが、そこは人間関係を考えてみれば有り得ない事だった。誰にでも優しく接していたエカテリーナ姉さんはどうかは分からないけれど、少なくともジノヴィとマカールは父上の事を嫌っている。
最低限必要な連絡がない限り、屋敷を訪れる事も、電話することも無いのだという。そうならば今回の件を話しても、少なくとも兄上たちの口から父上の耳に入る事は―――いや、止めておこう。
この件―――サリエルの事は、そっと胸に仕舞っておこう。
自分の力を示した俺が父上に何をされそうになったか、それを思い出した瞬間にゾッとした。力があると分かった瞬間、庶子として扱っていた俺まで権力強化のための駒にしようとしたのだ。
もし兄たちが喋らなくとも、それを知った彼らの部下がうっかり口を滑らせないという保証もない。何かの手違いで父上の耳にサリエルの件が知れたらどうなるか―――あのクソ親父の事だ、母方の姓であるパヴリチェンコを名乗っているサリエルすら、リガロフ家の子だと主張し取り上げるという暴挙に出るかもしれない。
まあ、それはサリエルに何かしらの”素質”があればの話だが。
俺? ああ、俺は残念ながら素質ゼロ。魔力量も平凡で、属性適性も平凡の域を出ない。可もなく不可もなく、中の中といったところか。だが幸い”素材”が劣悪というわけでもないので、足りないところは努力と工夫で何とか補ってる。
サリーはどうだろう? というか大きくなったら何になるつもりなんだろうか?
「ミカエルこそ、何かあったらいつでもいらっしゃい」
「ありがとう、母さん」
「お邪魔しました、レギーナさん」
「ええ。ミカエルをよろしくね、クラリス」
笑みを浮かべながらそう言う母さん。あれ、これって前もなんかこんな事あったよねと既視感を覚えた頃には、既にクラリスの顔はうっすらと赤くなっていた。
「お任せください、このクラリスがご主人様を守り通して御覧に入れます!」
「それじゃあ、また」
「ええ、気を付けるのよ」
玄関のドアを開け、外に出た。
暖炉で暖かかった家の中とは打って変わって、春だというのにイライナの風はまだ冷たい。内陸と比べるとまだ、黒海からの潮風に晒されるアレーサは温かい方なのだろう。
暗闇の中で、温かみのある橙色の光がちらほらと見える。夜景だ。空にも、そして地上にも星があるように思えて、ほんの少し見惚れてしまう。
とはいっても、前世の世界の東京と比較すると灯りの数はどう見ても少なく、見劣りしてしまう感じもするのだが……でも、東京の夜景みたいにしつこくギラギラとした灯りではない。闇の中で弱々しく、けれども確かに輝く光たち。それには確かに、日々を強く生きようとする人の意思が宿っている。
「ふふっ、ふふふっ、レギーナさんにまで”ミカエルをよろしく”って……うふふ」
怖い怖い怖い、何このメイドさん。着実に外堀埋めてきてません?
なんだろう、ヤンデレにも似た狂気を感じる。コレはもうアレか、クラリスルート入っちゃった? ここから選択肢ミスるか否かでヤンデレエンドとトゥルーエンドに分岐するんだろ知ってるんだよ俺は。
丘を降りて来た道を逆戻りし、アレーサ駅の前まで辿り着く。駅前のタクシー乗り場にはもうタクシーの姿はおらず、ど真ん中にドドンと置かれた錨の形のモニュメントが静かに闇の中に沈んでいる。
改札口で24時間待機している駅員に冒険者バッジを提示し、改札口を通過。線路を跨ぐ通路を歩いて8番ホームを目指していると、ベラシア地方行きの線路を列車が通過していった。湿地帯が多く、一年中地面がぬかるんでいるというベラシア地方。森林の面積も多く、大昔にはエルフも住んでいたという伝説が今なお残ると言われている。
エルフねぇ……120年前、エルフたちもまた人間たちと共に滅んでしまったのだろうか。
今やこの世界に残っているのは、動物と獣人、そして人間たちが生物兵器として生み出したとされている魔物のみ。だからエルフの森が燃やされるという王道イベントはどう頑張っても発生しないのである。残念。
「そういえば、次の目的地はいががいたしましょうか。ご主人様」
「それな。俺も今考えてたんだけど」
とりあえず、アレーサを訪れるという目的は果たした。
さて、それではこれからどうするか……アレーサに拠点を築いてここで活動する、という選択肢も頭の片隅に浮かんだが、せっかく列車があるし自由の身になったのだから、ノヴォシアの大地を色々と見て回りたい。
「とりあえずどこか目的地を定めて旅を続けたいな、俺は」
「それも悪くありませんわね」
「だろ? でも俺の一存じゃあ決められないし、戻ったらみんなと話し合って決めたいな」
階段を降りると、機関車の方でツナギ姿のパヴェルとルカがせっせと機関車の整備をしているのが見えた。親方と弟子みたいな感じだが、ルカも機械弄りにだいぶ慣れてきた頃だろう。作業に躊躇いがない。
俺の姿を見たルカが、機械油で真っ黒になった手をこっちに向けて大きく振った。パヴェルもウォッカの酒瓶を片手に軽く手を振り、配管の応急処置を続ける。
客車に入って自室に戻ると、なんだか一気に身体が重くなった。なんだろう、母さんの無事を知る事が出来て安堵したからなのだろうか。今まで心の奥底で張りつめていた何かがぷっつりと切れ、緊張が波のように引いていくのが自分でも分かる。
「今日はこのままお休みになられますか?」
「ああ……シャワーは明日の朝浴びるよ」
「かしこまりました」
ベッドにそのまま横になり、目を閉じる。
とにかく―――良かった、母さんが無事で。
5.56mm弾の薬莢が、宙を舞う。
ラジオから流れてくる、ノイズ交じりのラブソングに合わせて、小さな金属の筒がひらひらと宙を舞う。
傍から見ればサイコキネシスでもやっているように見えるだろう。あるいは手品の一つか。しかし正解はそのどちらでもない。これはあくまでも雷属性―――磁力系統に属する魔術だからこそできる事である。
両手から雷属性の魔力を放出、その魔力を磁界とし、魔力によって生じる磁力を介し金属を自由自在に操るという磁力魔術。習得すれば大きな戦力向上に繋がる事は疑いようもないのだが、教本に『1つの意識で2つの身体を動かすイメージ』と記載されるだけあって、その制御は困難を極める。
これがまだ、磁界で捕えた物体を制御することだけに集中できるならば難易度も下がるだろう。しかし戦闘中に使うとなれば、相手の攻撃を回避、あるいはこちらも攻撃を行いながら魔力の制御を行わなければならないという、非常に難度の高い技術を要求される。
今のところ、集中できる環境限定で、こうやって軽い金属の物体を浮かせ自由に飛ばすのが精一杯だ。もし途中で集中力が途切れるようなことがあれば―――。
「いやぁ、精が出ますなぁ」
ふにゅ、と後頭部に押し当てられるモニカの胸。大きくもなく、かといって小さくもない、引き締まった彼女のスタイル的に見ても非常にバランスの取れたバストが、童貞の後頭部に半ば圧し掛かるようにして押し当てられる。
びゅーん、と制御を失った薬莢が天井を直撃。めり込みはしなかったが、そのまま重力に捕らえられた薬莢はくるくると回転しながら、ちょうどミカエル君の頭の上に落下してきた。
ガチンッ、とまるで小石でも投げつけられたかのような痛みが走り、両手で頭を押さえながら悶絶する俺。あんな小さな薬莢だからと侮るなかれ、あれ金属だからふつうに痛い。いいかい、射撃の際にエジェクション・ポートから出てくる薬莢は勢いよく出てくる上に熱々だから、腕の位置とエジェクション・ポートの位置は事前に確認しておくこと。もしくは薬莢受けを付けよう。
これもうプチ凶器である。
「あっ、ごめん……」
「いいってことよ」
痛いけど。
あれ、モニカが買い出しから戻ってきたという事はもうそんな時間か。魔術の練習に没頭するあまり、全然時計を見ていなかった。
机の上の時計をちらりと見てみると、もう午後5時30分。窓の向こうに広がる空はうっすらと赤く染まっていて、アレーサに面する黒海の海面も炎のように赤くなりつつある。
頭を掻きながら、落下した薬莢を拾い上げて溜息をついた。
とりあえずはまあ、磁力のコントロールは出来るようになった。今のところ、俺の磁力の”射程距離”は1mちょいくらい。それくらいならば金属を飛ばしても、完全に制御できるくらいの距離である。
今日のところはこれが限界だけど、なんだかこう……もう少しで次のステップに進めそうな、そんな感じがするのだ。届きそうで届かない、このもどかしい感覚。
まあいいや、今日はこの辺にしておこう……あまり集中し過ぎて明日からの仕事に支障が出てしまっては元も子もない。とりあえず現時点での自分の”できる事”をノートに記入、こうすれば行けるのではないか、という自分なりのプランもざっくりとではあるがノートに記入して、部屋を後にした。
食堂車の方からは、懐かしい香りがする。
―――酢飯の匂いだ。
食堂車のドアを開けると、厨房の方でパヴェルが寿司を握っているところだった。さすがに熟練の寿司職人のレベルまでには達していないようだけど、お店でしか食べられないようなレベルの寿司が、それこそこっちの世界に転生して17年間口にする事の無かった日本食が、皿の上にずらりと並んでいる。
「おうミカ、来たか!」
「ミカ姉見て見て! 今夜は生魚だって!」
「ご主人様、”スシ”とはいったい……?」
「ええと……アレだ、極東の島国の料理らしいよ。ああやって酢と混ぜ合わせたライスの上に生魚の切り身を乗せて握るんだ」
「な、生の魚を!?」
「ウソでしょ、寄生虫とか大丈夫なの!?」
まあ、やっぱりそういうリアクションするわな、とは思う。
当たり前だがノヴォシアに生魚を食べる習慣は無い。魚と言えばスープの具材だったりパイの中身になる事が当たり前で、ああやって生で食べる習慣は無い。寄生虫の問題もあるし、やっぱり魚に火を通さず生で食べるなんて野蛮だ、というノヴォシア人の価値観もあるのだろう。
あ、でもモニカはともかくクラリスは問題なさそうだ。テキパキと寿司を握るパヴェルの手際の良さに感心しつつも、彼女の口からはもうほら、ナイアガラの滝が溢れ出ている。
「ほら、食ってていいぞ」
「お、じゃあ遠慮なく……いただきまーす」
転生前のノリで、手を合わせてからマグロに手を伸ばした。そのままネタにちょっとだけ醤油(コレどこから仕入れたんだろ)につけて、そのまま口へと運ぶ。
酢飯は甘すぎず、酸っぱすぎずの絶妙な加減。握る力も強すぎず、まだ米のふわりとした食感が残っている。それでいて新鮮なマグロの味が口の中いっぱいに広がって、身体の底から脳天まで一気に突き抜けるような衝撃が生まれた。
「うっま……」
やべえ、泣きそう。
17年ぶりの寿司がこんなに美味いとは……良かった、もしかしたら転生して新しい身体になったから味覚も変わってるんじゃないかって心配だったけど、味覚はそのままだったらしい……ヤバい、日本が恋しくなってきた。
恐る恐る、クラリスも鉄火巻きに手を伸ばす。海苔が珍しいのか、ご飯をぐるりと巻いているそれをまじまじと見つめてから、俺の真似をして醤油につけ、それを口へと放り込んだ。
「!!」
ぴーん、とクラリスの尻尾が真っ直ぐに伸び、メガネの向こうの紅い瞳が一気に見開かれる。美味しかったかどうかは聞くまでもないようで、クラリスは他のネタにも手を伸ばし始めた。
それを見て決心がついたのか、モニカも同じようにマグロに手を伸ばす。ぎこちない手つきでネタに醤油をつけている間に、俺はそっとルカとノンナ、それとシスター・イルゼに耳栓を配っておいた。
まだ生魚に対する抵抗があるモニカだったが、隣で寿司を次から次へと口へ運ぶクラリスを見て目をぎゅっと瞑り、ついに口の中へと寿司を放り込んだ。
「うっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっま!!!!!!!!!!」
鼓膜が死んだ。




