港町アレーサ
ノヴォシア帝国、イライナ地方の南方には”黒海”と呼ばれる海が広がっている。かつては美しい黒曜石が海底から山のように採掘できた場所だから黒海と名前になった、という説が有力だが、諸説ある。
イライナ地方の南方はその黒海に面しており、豊富な水産資源に恵まれている。特に海産物を使った『ウハー』と呼ばれる料理が有名で、それを目当てに南方の街を訪れる旅人や貴族も居るのだとか。
黒海へとL字形に突き出た”アルミヤ半島”から西方に、アレーサと呼ばれる港町が存在する。漁師たちの町でもあると同時に、黒海を挟んで向こう側に位置する『大アスマン・オルコ帝国』、その他の西方諸国との交易の玄関口でもあるアレーサ。キリウやザリンツィクほどの都会ではないが、イライナ地方においては欠かせない交易の拠点と言っていいだろう。
そしてそこは、母の生まれ故郷でもある。
レギーナが生まれた町、アレーサ。
一体どんなところなのだろうか、とノヴォシア帝国の地図を広げながら思いを馳せる。
極寒のノヴォシア地方、湿原の多いベラシア地方、そして世界一肥沃な土壌を持つイライナ地方―――今のノヴォシア帝国の版図は、この3つの地方から成り立っている。
その3大地方の中でも比較的温暖で、黒海に面している事から水産資源にも恵まれるイライナ。アレーサはさっきも述べた通り、漁業や交易の中心地として栄えてきた南方の町だ。
アレーサから見て東部にある、黒海へとL字形に突き出ているのがアルミヤ半島。大昔にはノヴォシア海上騎士団の軍港があった事から『軍隊半島』と呼ばれている。とはいっても現在では軍備の見直しによって駐留艦隊の規模を縮小した結果、”ワリャーグ”と呼ばれる海賊に半島を占拠されるという大失態を犯しているわけだが……。
以前から心配しているのはこれだ。アレーサはアルミヤ半島から目と鼻の先……というわけじゃあないが、近い。それこそワリャーグの連中がその気になれば海賊船で乗り付け、略奪行為を容易に行えるほどの距離である。
騎士団が睨みを利かせてくれているのか、それともワリャーグの連中にそんな余裕がないのかは定かではないが、今のところアレーサにワリャーグの魔の手は伸びていないようだ。パヴェルにも調べてもらっているが、ワリャーグの内情はともかく、今のところアレーサが無事であることは確かだと断定していい。
ふう、と息を吐きながら地図を畳んでいると、誰かがタラップを豪快に降りてくる音が聞こえた。何じゃ、と思いながら部屋のドアを開けると、元気に走ってきたノンナと目が合う。
「ミカ姉凄いよ!」
「どしたん?」
「あのね、凄い匂いがするの!!」
「???」
あれ、俺ちゃんとシャワー浴びたよ、と言わんばかりに自分の臭いを嗅いだ。石鹸の良い香り。うん、異臭はしない(というか異臭がしたらクラリスが気付く)。凄い匂いって何ぞや、俺そんなに臭うか?
首を傾げていると、ノンナが元気な声で叫んだ。
「海の匂い! 私、こんなの初めて!!」
「あー……」
「えへへ、お兄ちゃん呼んでくるっ!!」
そーいやあいつら、知らないのか……海。
それもそうだよなあ、と思いながら部屋を出た。1号車の後部にあるタラップを上り、天井のハッチを開けて第一銃座へ。ハッチから身を乗り出した途端に機関車の排煙が迫ってきて咳き込んだけど、石炭の燃えカスを含んだ煙の臭いの中に、確かに懐かしい香りがあった。
―――潮の匂い。
「あれが……あれが黒海か」
機関車から濛々と、それはもう環境保護団体がブチギレするレベルで濛々と噴き上がる黒煙。地球温暖化なんぞ知った事かと言わんばかりのその向こうに、確かに蒼く輝く海原が見える。
アレーサ南方に面する海、黒海。
あの海の向こうには中東一帯を版図に収める大国、大アスマン・オルコ帝国がある。ノヴォシアにとっては良いビジネスパートナーであると同時に、鎬を削り合う敵国―――故にこの美しい黒海では、時折血が流れる。
そうなりゃあアレーサは最前線だ。将来的にそうなる事も考えられるというのに、アルミヤ半島を海賊なんぞに奪われるとは何たる失態か。帝国の上層部の采配に呆れはしたが、俺の知った事ではない。
ここにやってきた理由はただ一つ、本当の母に会いに来た。それだけだ。
《ご乗車ありがとうございます。間もなく終点、アレーサ、アレーサ。お降り口は右側です。リュビンスク行き、首都モスコヴァ行きはお乗り換えとなります。なおアルミヤ半島周辺の治安は悪化しております、ご注意くださいませ》
いつも通りのパヴェルのアナウンスが、車内からうっすらと聞こえた。
港町というだけあって、アレーサのいたるところに船の錨を象ったモニュメントやオブジェがあった。
漁師の町、交易の玄関口。そういう町というだけあって、駅から出てすぐそこにある大通りには活気がある。異国から送られてきた品物を扱う露店に、ちょっと海の方へ近づけば漁師たちが黒海で獲ってきた魚や貝類を売る露店がずらりと並ぶ。まさに港町って感じで、魚売り場には屈強な男たちの大きな声が乱舞する。
新鮮な魚だよ、とか、今朝獲れたばっかりの大物だよ、といった感じの客引きの声。前世の世界じゃ沿岸部に住んでいたミカエル君としては懐かしい光景である。とはいえ全く同じと言うわけでもなく、向こうの魚売り場と比較するとこっちのほうが色々と豪快だった。
「うわでっか」
きょろきょろと大通りを見渡していたモニカの視線の先には、金属製のフックにぶら下がったでっかいサメがあった。尻尾の付け根の辺りをフックに引っ掛けられ、鋭い牙(ボウイナイフみたいな牙だ)が無数に生えた牙を石畳に向けるような格好で絶命しているサメ。その傍らでは、そいつを仕留めたと思われる筋骨隆々の巨漢が自慢げに銛を磨いている。
サメのサイズは7mくらいだろうか。色合いはやや黒ずんでいて、背ビレがやけに大きく発達している。あの黒ずんだ表皮はおそらく、黒海での保護色として機能するのだろう。ああやってカモフラージュしながら獲物に近付き一気に捕食する……なるほど、そう考えると恐ろしい生物である。
そんな化け物を銛一本で仕留めるのだから、船乗りたちの技量と度胸には脱帽である。
「あのサメはどうやって食べるのでしょう? 丸焼きですか?」
「色々あるらしいよ。切り身をフライにしたり、スープの具材にしたりとか……ああ、卵は絶品なんだって」
「じゅる」
「よだれよだれ」
サッとハンカチを差し出すミカエル君。人前で自分のところのメイドが涎を垂らしているところを見られるのはね、貴族の端くれとしてちょっとどうかと思うの。
でもあのサメ何て種類なんだろうね?
交差点を渡り、潮の香りが排気ガスの臭いに掻き消され始めたところで、モニカが懐から通信端末を取り出した。側面にあるスイッチを押してスリープモードを解除し、パヴェルから頼まれていたと思われる食材と工業製品のリストを表示させる。
「それじゃ、あたしはこのまま買い出し行ってくるわね。行きましょ、イルゼ」
「ええ。それではミカエルさん、クラリスさん、ごゆっくり」
「ああ。そっちも気を付けて」
買い出しに向かうイルゼとモニカの2人に手を振って別れ、俺はクラリスを連れて魚売り場を離れた。大通りの活気が背後へと去っていき、周囲は段々と閑散とした雰囲気に変わっていく。
遠くに見えるのは貴族の屋敷。海へと流れる水路の反対側に見えるのはオペラ劇場だろうか。真っ白なレンガで造られていて、その堂々とした威容はまるで砦のよう。2世紀くらい前までこの辺に砦があったらしいけれど、それをモチーフにしているのかもしれない。
「ご主人様、タクシーを呼びましょうか」
「いや、いいよ。そこまでの距離じゃあないさ」
今から行くところはそんなに離れた場所じゃない。
石の階段を上りながら、町の外れ―――丘の上にある集落を見つめた。
俺たちがここに来た目的は買い出しではない。ちょっとばかり個人的な用事のためにここへとやってきたのだ。
パヴェルの調査のおかげで、レギーナの家がどこにあるのかは掴んでいる。
大通りと比べると少しばかり静かな、けれども潮の香りが染み付いた道をただただ進んだ。水路に架かる鉄橋の梁は潮風のせいか錆びていて、ずいぶんと年季が入っているようにも見える。これ、ちゃんと修理とか再塗装とかする予定あるんだろうか……。
橋を渡ると、いよいよ足元の道から石畳が消えた。雪解けの水を未だに含んだ泥が、べちゃ、と冒険者用のブーツの靴底にへばりつく嫌な感触。数十歩も歩いているうちに、ブーツが付着した泥でずんずん重くなっていった。
汚れを落とすのが面倒な割に、イライナの泥は簡単に付着する。何なんだこの泥は、と大自然の理不尽に憤りながら歩くこと10分ちょい。ようやく丘の上にあるレンガ造りの家たちが近くに見えてくる。
その数軒の集落の中にある一軒の家の前で、俺はそっと立ち止まった。
【Павличенко(パヴリチェンコ)】―――表札には、そう刻まれている。
「……ここだ」
レギーナ―――”レギーナ・パヴリチェンコ”。
17年間も世話になっておきながら、彼女のフルネームを知ったのはつい最近の事だった。屋敷に居た頃はただただ漠然とレギーナ、と呼んでいたものだから、彼女の実家の住所を調べるよう依頼していたパヴェルには苦労をかけた。
果たして彼女は俺の事を覚えているだろうか。ちょっとばかり心配になり、玄関のドアをノックする前に身だしなみをチェックし始めてしまう。ご苦労な事にクラリスがポケットから手鏡を出して開いてくれたので、身だしなみのチェックは短時間で終わった。
さすがクラリス、言葉に出さなくても大体何をしようとしているのか察して行動してくれる辺り、本当に優秀なメイドであることが伺える。さて、俺はそんな彼女の主人に相応しい男だろうか?
あー、最初に何て声をかけるべきか……お久しぶりですお母さん、かな? それとも屋敷に居た頃と変わらんノリでフランクに行くべきか。
いや、こういう時はストレートに言った方が良い。ありのままの自分を曝け出す事が、結局は一番の解決策だったりするのだから。
意を決してドアをノック。コンコン、と澄んだ木材の音が、小さなレンガ造りの家の中へと染み渡っていく。
『はーい』
聞き慣れた女性の声―――レギーナの声、母の声。
やがて、ゆっくりとドアが開いた。家の中から姿を現したのは、白を基調とした上着にカラフルな帯のようなものが巻き付いた、イライナ地方の民族衣装に身を包んだ女性。黒髪で、けれども前髪の一部や眉毛、睫毛が雪のように真っ白だ。瞳は銀色で、頭にはネコ科の動物を思わせる小ぶりなケモミミがある。
「どなた―――」
俺の顔を見下ろした彼女が、目を丸くしたまま固まった。
「ええと……久しぶり、レギーナ……いや」
こほん、と咳払いしてから、改めて告げた。
「―――久しぶり、”お母さん”」
「やっぱり、勘付くわよね」
レギーナ……いや、母さんの実家のリビングの椅子に座り、淹れてもらった紅茶を冷ましていると、マグカップの中を満たす紅茶に視線を落とした母さんは申し訳なさそうに呟いた。
リガロフ家の事情は、ここにいる3人がよく分かっている。リガロフ家当主のステファンとその妻オリガの間に生まれた4人の子供―――長女アナスタシア、長男ジノヴィ、次女エカテリーナ、次男マカール。しかし母上が兄上を身籠っている間に、父上は欲望に抗えず、アレーサから出稼ぎに来ていた母に手を出してしまった。
その結果が俺だ。
ライオンの獣人として生を受けていれば、少なくとも三男ミカエルとして、多少はまともな扱いを受けていただろう。しかし俺はライオンではなく、母の血を色濃く受け継いだハクビシンの獣人として生まれ―――愛の結晶ならぬ”不貞の結晶”として、この世に生を受けた。
その真相を知るのにそう時間はかからなかった。獣人の遺伝と両親が何の獣人なのか、そして屋敷に居るハクビシンのメイドは何人なのか。それさえ把握できれば、いくら隠し通そうとしても真相を知る事は容易い。
「そうよ、私があなたの本当の母なの」
「……やっぱり」
「隠しててごめんなさいね」
「いいよ……もういいんだ、母さん」
自分ではなく、オリガこそが本当の母親なのだと何度も言い聞かせてくれたレギーナ。あれはきっと、俺の身を守るためなのだろう。少なくともオリガの子だと思い込んで振る舞っていれば、少しはまともな待遇を受けられるかもしれない。そんな小さく、細い希望のためだけに、レギーナは17年間も真相を隠し続けた。
第一、血の繋がった親子じゃなきゃあそこまで気にかけてくれるとは思えない。
「母さんが育ててくれたおかげで、俺もクラリスも冒険者になれた。親父の束縛からも解放されて自由になったし、それにほら、今は仲間も居るんだ」
「ふふっ、立派になったのねぇ……」
冒険者のバッジを見せると、母さんは嬉しそうに微笑んだ。やっぱり我が子の成長を実感する時が、親としては一番嬉しいものなのだろうか。子育てをしたことがないからその辺の感覚がいまいち分からないが……。
さて、何を話そうか……せっかく母に再会したのだ、土産話でもしようかとここまでの道中の事を思い起こしていたその時、その全てを吹っ飛ばしかねない事が起こる。
ぐいぐい、とズボンの裾を引っ張られる感覚。何事かと視線をテーブルの下に向けてみると、そこにはまあ小ぢんまりとしていて可愛らしい、ハクビシンの獣人と思われる赤子がいた。家に初めて訪れた俺たちに興味を持ったのか、口におしゃぶりを加えたまま、小さく丸っこい手でズボンをぐいぐいと引っ張っている。
「あうー」
「あっ、こら。ダメでしょ”サリー”」
「サリー?」
慌てて椅子から立ち上がった母さんが、”サリー”と呼んだ赤子を優しく抱き上げた。
2人の顔が並んだ瞬間、頭の中に電気が奔るような感触がした。何というか、嫌な事を悟ってしまった瞬間というか……そう、あの感覚である。
サリーの目元が、母さんにそっくりなのである。
おまけに獣人のタイプも、母と同じくハクビシン。前髪と睫毛、眉毛が真っ白で、更に瞳の色まで同じく銀色だ。丸くて無垢なその瞳に自分の姿が映り、俺は息を呑む。
「母さん、その子……ま、まさか」
「ええ……」
今更隠し通せるわけもない、と観念したのか、母さんは口を開いた。
「この子は”サリエル”……ミカエル、あなたの妹よ」
「えっ、ちょ、妹ォ!!?」




