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死者の願い


 この日をどれだけ待ち望んだ事か。


 右手に持った袋をぎゅっと握りしめながら、私は窓の外を眺めて故郷へ思いを馳せていた。


 もう11月―――すでに雪が降り始め、一面に広がる麦畑も真っ白に染まっている。この雪が溶け、再び麦が芽吹く季節になれば、この大地は黄金に変わるだろう。黄金の大地と青空のコントラストは、多くのイライナ人の心に焼き付いている風景だった。


 キリウにある軍需工場で働き始めて5年、やっと許された故郷への帰省。年が明け、雪解けの季節になるまでの長期休暇だ。久しぶりにお母さんの顔が見られるし、キリウでたくさん稼いだお金で楽をさせてあげられる。


 お母さん、喜んでくれるだろうか。


 私の故郷、ヴァルネンスク村はあまり裕福とは言えない場所だった。近隣には工業都市ザリンツィクがあるけれど、村の近郊に高値で売れる鉱石が採掘できるような場所は無く、岩場も多いから農業ができる土地は制限される。だからあまり多くは収穫できない野菜と狩猟で得られる動物の肉や毛皮を売って、みんな何とか生計を立てていた。


 腰を痛めたお母さんのためにも、一刻も早く働いて楽をさせてあげなければと昔から思っていたけれど、ついにそれが現実になった。確かに軍需工場での仕事は楽ではないし、下手をすれば機械に巻き込まれて指や腕を失う恐れもある(実際に同僚でそういう事故を起こし解雇された人は何人もいる)危ない仕事。毎日のようにお母さんからは身を案じる手紙が届いていて、心配し過ぎだよとは思ったけれど。


 でもやっと、これで少しは楽をさせてあげられる。


 6000ライブルと、人形集めが趣味だったお母さんのためにキリウで買った白兎のぬいぐるみ。それと冬を越すために購入した缶詰をいくつか。これが私なりに考えた、キリウからの手土産だった。


《ご乗車ありがとうございます。本列車はキリウ発、アレーサ行きとなっております。次の停車駅はヴァルネンスク、ヴァルネンスク。お降り口は左側となっております。時刻は9時30分、間もなくヴァルネンスク・トンネルです。煙が入りますので、窓を開けているお客様は窓を閉めてください》


 ああ、もうヴァルネンスク・トンネルか。


 ザリンツィクとアレーサを隔てるヴァルネンスク山に穿たれたトンネル。ここを越えれば、すぐに故郷のヴァルネンスクだ。


 窓の向こうが真っ暗になる。そろそろ降りる準備をしよう、と思いながら私物の入ったカバンを棚から降ろすべく立ち上がったその時だった。


 ゴウン、と列車が大きく揺れた。平衡感覚が唐突に消失して、床が大きく左に傾くのを感じた頃には、高速回転するドリルに鉄板を押し当てるような甲高い音と、窓の外いっぱいに溢れる火花、そして鉄の焼けるような臭いが五感を満たしていた。




 

 その時、何が起きたのか私にはわからなかった。














 頭の奥底が、ただただ熱かった。


 まるで脳味噌のど真ん中に重油を流し込まれ、誰かがそれに火のついたマッチで点火したかのよう。文字通り燃えるような熱が確かに頭の中にあって、けれどもそれはやがて時間が経つ度に薄れ、やがてはイライナの冷たい風に屈して消えていく。


 今見た光景は、いったい……?


 あれは誰の記憶なのか。少なくとも俺の記憶ではない―――そこまで思い至ったところで、目が開いた。


 目の前に女の子がいた。伸びきってボサボサになった真っ黒な髪と、瘦せこけた細い手足。その哀れな身体を覆っているのは薄汚れ、擦り切れてボロボロになった民族衣装。イライナ地方特有のものだ。頭髪の中から覗くのはウサギのケモミミのようだけど、片方は半ばほどから千切れていて、何とも痛々しい姿と化している。


 先ほど列車の中で俺を追いかけ回していた、あの幽霊だ。


 15か16歳くらいの女の子の幽霊―――あまりにも哀れな姿となったそれが、冷たいレールの上で気を失っていた俺の顔を、白濁した眼球でじっと覗き込んでいたのだ。


 けれども不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、心の中には悲しみだけがあった。


 ああ、そうか。


 さっき見た光景。あれは―――。


「……君の記憶なのか?」


 微かに掠れた声で小さく問いかけると、その幽霊は首を縦に振った。


 ゆっくりと起き上がった。


 どういうわけか、俺が横になっていたのはトンネルの中に敷かれたレールの上。何故列車の中ではなく線路の上なのか。そもそもこれは現実なのか夢のかも分からないが、ここが例のトンネル―――ヴァルネンスク・トンネルの内部である事だけは、トンネル内の荒れ具合で何となく察することができた。


 40年間もメンテナンス無しとなれば、レールも錆び放題だ。壁面は崩落し、コンクリートで補強された天井もいつ崩れてくるかは分からない。壁や天井の亀裂からは水が染み出していて、場所によっては結構深い水溜りが形成されている。


 ポケットから通信端末を取り出した。相変わらず圏外と表示されており、仲間たちと連絡を取る事は出来ないらしい。皆無事だろうか……そう思って息を吐くと、幽霊の少女はトンネルの奥へと向かって歩き始めた。


「あ、ちょっと」


『……』


 おいで、と言っているようだった。


 どうするべきか―――はっきりと、どういう理屈かは分からないけれど、この子は生者を死者の世界に引きずり込んだりするような、悪い霊ではないように思えた。ただただ成仏できずにこの世を彷徨っているだけのような、むしろ助けを求めているようにも思える。


「……」


 ついていってみるか。


 MP17からライトを取り外し、銃はホルスターに戻した。どうせ相手は幽霊、物理攻撃は通用しない。それにたぶん、今だけは武器は必要ないだろうから。


 トンネルの奥へと歩く彼女の後をついていくと、やがて段々と周囲に黒い影のようなものが見え始めた。煙かな、と思ったがどうやら違うようだ。煙……ではない。ライトで照らしても消えるだけで、妙な気配を放っている。


 それの中に人の形になっているものもあって、少しだけ背筋が凍った。


『大丈夫、ついてきて』


 前を歩く女の子が喋った。


 微かに掠れた声で『悪い人たちじゃないから』と続けた彼女は、躊躇なくどんどん奥へと進んでいく。


 悪い人たちじゃない―――多分それは事実なのだろう、とは思う。こうやって周囲から、距離を取ってじっと眺めてくるだけ。悪い霊だったらもうとっくに牙を剥いているだろう。こうやって干渉せず、ただただそこに居るだけの幽霊たち。彼らもまた、例の事故で命を落とし、このトンネルに魂を縛られてしまった哀れな犠牲者たちなのだろう。


 大人の霊がいた。体格からしてたぶん男性だろう。その隣には腰の曲がった霊が、その隣には女性と思われる霊と手を繋ぐ小さな子供の霊が。耳を澄ますと彼らの囁き声が聞こえてくる。帰りたい、帰りたい。家族の所へ帰りたい。もう叶うことも無くなった願いを口にする犠牲者たち。


 ごめんなさい、と心の中で念じた。俺にできる事は何もないんです。ただただ安らかに眠ってくれと、そう祈る事しかできない。貴方たちの事を記憶の中に留めておくことしかできない。


 生者が死者のためにしてあげられるのはそれくらいだ。死者を想う事―――それ以外の干渉は許されない。生と死の境界線は、それほどまでに深く分厚いのである。


 バシャ、と水の音がした。水溜りだ。地下水か、それとも雪解けで染み出した水が溜まったのかは分からないが、列車用のレールが水没するほどの深さにまで達している。錆びた金属片が浮かぶそれの中を、少女の霊は躊躇なく進んでいった。


 ゴウ、と後方から風を切るような音。ハッとして振り向いた頃には、すぐ背後まで大型の蒸気機関車が迫っていた。


 正面に設置されたプレートには、『ВД-63』とはっきり記載されている。


 ああ、事故を起こした列車と同じ番号だ―――他人事のように思いつつ避けようとした頃には、俺の身体は突っ込んでくる列車と接触していた。


 しかし痛みは無いし吹き飛ばされもしない。後方からやってきた列車はまるで、よくできた立体映像のように俺の身体をすり抜けていく。


 客車の中には多くの客が居た。キリウから、リーネから、ザリンツィクから、南方の故郷へと帰省する人々。その多くは出稼ぎの労働者ばかりだったけれど、中には幼い子供を連れた親子の姿もあった。


 人には、その命の数だけ物語があるのだ。そして死は、それを一瞬にして奪う。


 5両目の客車、右側の窓際にある席に見覚えのある客が乗っていた。黒髪で、イライナ公国時代の伝統的な民族衣装に身を包んだウサギの獣人の少女。俺をトンネルの奥へ奥へと案内している、あの幽霊の子だ。


「あ……」


 咄嗟に手を伸ばした頃には、その幽霊列車はトンネルの奥へと走り去っていった。ダメだ、行ってはいけない。過去の事を、事故があったという結果を捻じ曲げる事は決して許されないしヒトの身では出来ない事だ。そう分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。


 トンネルの奥から響く轟音。レールから脱線した列車が壁面に接触する音、金属と金属がぶつかり合う音。火花の閃光に多くの人々の悲鳴。


 それらが脳の中に、ダイレクトに入り込んできた。


 気が付くと両目からは涙が溢れ、頬を伝って足元の水溜りへと落ちていた。


『あなたは優しい人ね』


 ぽつりと少女の幽霊が言う。


 昔からだ。この世界に転生する前からだ。馬鹿正直だのお人好しだの、両親や周囲の人に何度も言われながら育った事を思い出す。


「君はお母さんのところに帰る途中で……」


『そう』


 さぞ無念だっただろう。成仏できない理由も分かるというものだ。俺だって、アレーサに着く前に死ぬようなことがあったら死んでも死にきれない。きっと成仏を拒否してでも、この世界を彷徨うだろう。


 しばらく歩いていると、壁面に大きな傷がある事に気付いた。ちょうど左へと緩やかなカーブになっているところだ。進行方向から見て右側のコンクリートの壁面に、巨大な何かで抉り取られたような跡がある。


 ああ、きっとここだ。ここで脱線したのだ。


 カーブを通過すると、ここから先は下り道だった。壁から染み出た水がちょっとした水路を形成していて、下り坂の下へと向かって流れ落ちている。


 左側の壁に、小さな階段と錆び付いた扉があった。多分、メンテナンス用の扉なのだろう。


 扉の前に白骨死体があった。


 ボロボロの民族衣装。少女の霊が身に纏っているのと同じものだ。傷の場所も一致しているのを確認し、これが彼女の”身体”なのだと、彼女だったものなのだという事を理解する。


 彼女は自分の死体が、白骨化してもなお大事そうに抱えていた袋を手に取った。革製の袋の中にはボロボロになった白兎のぬいぐるみと、すっかり風化してしまった1000ライブル紙幣が6枚入っている。今では使われていない旧札だ。


 Eランク冒険者が1つの依頼をこなす報酬よりも安い―――けれども、たったこれだけとは思わなかった。それは今の物価を基準にした話で、彼女が生きていた当時からすれば大金であることに変わりはないのだから。


『これをお母さんに渡してほしいの』


「君の……お母さんに」


『うん。ヴァルネンスク村の丘の上に集会所があるんだけど、その近くに白い風見鶏がある家があるから……』


「……君は、それでいいのか?」


 それで満足なのか―――そう思いながら問いかけると、少女の霊は首を縦に振った。


『これが私の、最期の願い』


「……わかった」


 袋を受け取り、上着の内ポケットへ。


 これが彼女の望む事ならば、叶えてみせよう。


『ありがとう……本当にありがとう』


 ボサボサになった前髪の下で、少女の霊が笑みを浮かべたような気がした。


 











 鼓膜へと流れ込んでくる音楽。レコード特有のプツプツというノイズと共に流れてくるのは、ピアノの美しい旋律だった。ああ、ドビュッシーのやつだ。月の光―――好きな曲だ。


 瞼を擦りながら起き上がる。目の周囲には涙が流れた痕跡があって、擦る指先が微かに湿っていた。


 窓の外にはうっすらと赤く染まった空が見える。夕焼けだ。無事にヴァルネンスク・トンネルを抜ける事が出来たらしい。


 安堵したのか、みんな眠っていた。二段ベッドの上でマンガを回し読みしていたルカとノンナも、人の机を占領してマンガを一気読みしていたモニカも、そして散々幽霊にビビっていたクラリスも。


 唯一起きているのはシスター・イルゼだけで、赤く染まる夕焼けを見つめながら、クラシックの旋律に耳を傾けている。


「あら、起きたのですね」


「シスター・イルゼ……」


 結局、あれは夢だったのだろうか。


 犠牲者の幽霊に列車の中を追いかけ回されたのも、トンネルの中で彼女に母への届け物を託されたのも。


 何気なく、左手を内ポケットに伸ばした。いつもは何も入れていない内ポケットの中には確かに何かが収まっている感触がある。シスター・イルゼにバレないよう、こっそりと引っ張り出して中身を確認してみると、やはりその中にはボロボロになった白兎のぬいぐるみと、風化した古い1000ライブル紙幣が6枚収まっていた。


 ああ、そうか。


 やっぱり夢ではなかったんだな―――。


《ご乗車ありがとうございます。次の停車駅はヴァルネンスク、ヴァルネンスク。お降り口は左側です。なお、当列車は機関車の点検のため2時間停車いたします》


 袋を内ポケットに戻し、窓の外を見つめた。


 











 少女の言っていた通り、ヴァルネンスクの丘の上には集会場があった。村の人々が集まって、収入や野菜の収穫量について議論する場なのだろう。それほど大きくはなく、ちょっと大きめの一軒家と言われても疑わない程だ。


 その集会所の近くに、確かに白い風見鶏のある一軒家があった。


 ここだろうか……彼女に言われた通りの場所にある家を見つめながら、そう思う。


 ここまで来て、俺はちょっと困惑していた。もし仮にここがあの子の実家で、お母さんに会う事ができたとしよう。そこでお母さんに「亡くなった娘さんからのお届け物です」と言ってこれを渡し、果たして信じてもらえるのだろうか。


 常識的に考えて、まず信じてはもらえないだろう。信憑性が陰謀論並みだ。


 いや、それでも。


 何と言われても良い―――約束を果たそう。


 家の前にある門を潜り、玄関のドアをノックした。コンコン、と澄んだ木の音が響く。


「……」


 留守だろうか。


 本当に留守だったらどうしよう―――まだ冷たい春の風に吹かれながら頭を掻き、この家の主の帰りを待つべきか、憲兵にこの袋を預けるべきか悩んでいると、ゆっくりとドアが開いた。


「はい、どなた?」


「……」


 ああ、あの子にそっくりだ。


 黒髪と、そこから伸びるウサギの耳。身に纏っているのはイライナ地方の民族衣装。


 家の中から出てきたのは彼女の母親と思われる老婆だった。事故があったのは50年前―――そう考えてみれば、これが当たり前だろう。


 見ず知らずのハクビシンの獣人を見下ろしながら、まだ警戒するような表情の彼女に、内ポケットから取り出した袋を見せた。


「私、さっきヴァルネンスク・トンネルを通ってきたんです。そこで貴女の娘さんにこれを渡してほしい、と言われまして」


「え……だって、娘はもう……」


 ああ、分かっている……この世界の人ではないのだ。


 困惑しながらも袋を開けた老婆は、片手で口元を押さえながら泣き崩れた。中に入っていたのはキリウで稼いだ、50年前であれば大金と言える6000ライブル。そして人形集めが趣味だったという母のために購入した、白兎のぬいぐるみ。


 50年―――事故から長い年月を経て、やっと娘の願いが叶った瞬間だった。


「ああ……ああ……」


「……」


「そう……でしたか。娘は……リジーナは貴方にこれを……」


 そういえば、彼女の名前を聞いていなかった。リジーナという名前だったのか。


「ありがとう……ございます……これでやっと、あの子も成仏出来ます」


「……お悔やみ申し上げます。では、私はこれで」


 ぺこり、と頭を下げ、踵を返した。


 とにかくこれでいい。悲劇であることに変わりはなく、失われた命が戻ってくることも無い。けれどもこれで誰かが救われたのであれば、それでいいじゃないか。





























「あんた、今どこから出てきたんだい?」





















 駅へと戻ろうとする途中、唐突に呼び止められた。


「え?」


 振り向くと、そこにはくわを担いだ初老の男性が居た。畑仕事を終えてこれから帰るところなのか、作業着にはべっとりと泥が付着している。そんな農民の男性が困惑したような、いや、恐ろしいものを見るような目で俺を見つめながら、そんなことを問いかけてきたのだ。


「いや、あそこの家に用事があったので」


 答えると、農民の男性は声を震わせた。








「あそこにゃ誰もいないよ。前まで住んでた婆さんが、娘を追うように赤化病で死んでから誰も……」









 ハッとして、ゆっくりと後ろを振り向いた。


 丘の上にある集会所。そこから少し下ったところに、白い風見鶏がある廃墟がぽつんと佇んでいた。壁は崩れ、天井は落ち、とても人が住んでいるとは思えぬ廃墟が。


 ああ、そうか。


 お母さんも、ずっと娘の帰りを待っていたのだ。


 流行り病で命を落とし、既にこの世の住人ではなくなってもなお、死んだ娘がいつの日か玄関の扉を叩いて再び帰ってくるその日を、独りでずっと待っていたのだろう。


 冷たい風の中、俺は静かに手を合わせた。





 お母さんと仲良くな、リジーナ……。






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