父の束縛、息子の意志
「はっ、はっ、はっ」
屋敷の屋根からパルクールを駆使して出発し、高低差の激しいルートを通ってキリウのスラム街へ。そのままスラムの外周をぐるりと何周かした後、再びノンストップで屋根をよじ登って屋敷のある方向へ。
民家の屋根から雑貨店の屋根へ飛び移り、キリウの街中を飛び交う電線を伝って通りの反対側へ。眼下の石畳で舗装された道路の上では、金属製の箱にタイヤを4つ取り付けたような古めかしい外見の車が信号を待っていて、その周囲では綺麗な服に身を包んだ裕福な子供たちが、随分とお行儀良く道を歩いているのが見える。
スラムじゃあ今日の飯すらどうなるか分からないという有様なのに、ちょっとキリウの中心部に近付くだけでこれだ。金持ちはキリウの中心部に住み、その外側に労働者、そしてその外を囲むようにスラムがある。
こんなにも露骨な貧富の差を見せつけられれば、みんなを平等にしよう、富を平等に分配しようという社会主義の思想が芽生えるのも良く分かるというものだ。レーニンやスターリンだって、出発点はそうだったのかもしれない。まあ、結果として社会主義や共産主義は数えきれないほどの独裁者を生み出すに至ったのだが。
やっぱり民主主義よ。
息を切らしながら屋根の上から飛び降り、積み上げられていた樽の上に軽やかに着地。野良猫たちの集会を邪魔してしまったようで、路地裏に集まっていた猫たちがびっくりして喚き始める。ごめんって。
威嚇する猫たちを一瞥し大通りへ。歩道にある電柱をよじ登り、電線を伝って路地の反対側へと渡ってから、そのままジャンプし労働者向けの格安アパートの窓の縁を掴む。お疲れの労働者諸君には申し訳ない、なるべく静かに済ませるから。
窓をよじ登って屋上へ。ここからはもう、リガロフ家の屋敷が良く見える。
あと少し。
額を伝う汗を拭い去り、16歳になったミカエル君がキリウの街の屋根の上を駆ける。
ジャンプしつつ宙返りして向かいの屋根に着地。特訓の成果か、最近段々と動きがアクロバティックになってきた。
屋敷の塀を飛び越え、敷地内へ。庭師たちがいつも手入れしている花壇ではカモミールが白い花弁を揺らしている。エカテリーナ姉さんが好きな花だ。5人の姉弟の中で、花や自然に美しさを見出すのは姉さんだけだった。
きっと彼女は、心が澄んでいるのだろう。
雨樋をよじ登り、窓枠に手をかけて自分の自室へ。窓を開けて自分の部屋へ転がり込むと同時に、カチッ、とストップウォッチが止まる音がした。
「20分45秒ですわ、ご主人様」
「おう……タイム、ち、ちぢんっ……だ……っ」
呼吸を整えながら、クラリスが用意してくれたタオルとキンッキンに冷えた水を受け取る。パルクールのタイムは縮まりつつあるし、体力もそれなりについたのは実感している。
ちなみにさっきのパルクール込みのランニングに行く前に、スクワット、腹筋、背筋、腕立て伏せを各50回、それを3セットやってから30秒のインターバルを挟んでいる。これを毎日やったおかげで、身体にはまあそれなりに筋肉がついた。
とはいっても……身長はあれから、1ミクロンたりとも伸びていないのだが。
ミカエル君16歳、身長150cm。でも脱ぐとすごい(筋肉が)。繰り返す、脱ぐとすごい(筋肉が)。
汗を拭き終え、水を飲んでいる間の俺の手を、クラリスはまじまじと見つめながらひたすらぷにぷにしていた。お目当ては手のひらにあるハクビシンの肉球なのだろう。パルクール―――というよりも物を掴みやすいのはこの肉球の恩恵が大きい。
「クラリス」
「はい、ご主人様」
「シャワーを浴びるからそろそろ」
「あと5分、いえ3分、お願いします」
「あっはい」
「はぁー……」
幸せそうな顔をしながら、人の肉球をひたすらぷにぷにしまくる身長183cmのメイドさん。もちろん身長差もあって屈みながらのぷにぷになんだが、まあこれだけの至近距離だからはっきり言わせてもらおう。女の子ってめっさいい匂いする。めっさいい匂い過ぎてメッサーシュミットって感じ。
約束の時間が経過し、やっとのことで開放してもらったミカエル君。汗で湿った服を脱ぎ捨て、タオルを手に取って洗面所へ。
鏡に映る自分の身体を見て、それなりに”戦うための身体”になってきたな、と実感する。腹筋はもちろん割れてます、割れてますよ。服の上からじゃ分かり辛いけど脱ぐとすごいんですミカエル君は。
シャワーを頭から浴び、シャンプーを手に取ろうとして……いつもの場所にシャンプーの容器が無い事に気付き、ちょっと戸惑う。確かこの辺、俺から見て右側の棚の中段くらいに置いてなかったっけ?
目を開けたらお湯が入って来るので、とにかく華奢な手を彷徨わせシャンプーの容器を探し続ける事2分30秒。ガラッ、とシャワールームの扉が開く音がして、シャンプーを欲するミカエル君の手につるりとした容器の感触がやってくる。
「はい、シャンプーでございます」
「ああ、ありがと……いやいやまてまて」
タオルを手に取って顔のお湯を拭き取り、後ろを振り向いたミカエル君。その瞬間、身体中の毛とハクビシンのケモミミと尻尾が一斉に逆立ち、世界が凍り付いたかのような錯覚を覚えた。
シャンプーを渡しながら後ろで待機していたのは、もちろんミカエル君専属メイドのクラリス。だが、問題なのはその格好だ。身長183cmという女として―――というか男から見ても―――かなーり高い身長。身体は引き締まっていてアスリートのようだが、バスタオルに覆われた胸やお尻はしっかりとその存在感を主張している。
うん。バスタオルを身体に巻いているから大丈夫、まだ健全な部類だ。いやそうじゃねえ、近いのだ。元々1人用のシャワールームに年頃の男女が2人、しかも片方は183cmの綺麗な女の子と来たものだから……いやいや落ち着け、落ち着けミカエル。取り乱し過ぎて思考回路がバグってる。
「なに? なにしてんの君?」
真顔で何とか常識的な疑問を投げかけると、クラリスはきょとんとしながら首を傾げる。
「ご主人様のお背中を流しに来たのです」
そう言いながらも、彼女の白くてすべすべした手はボディソープでもタオルでもなく、お湯で濡れた俺の肉球へと伸びていた。さっきの3分ぷにぷにタイムじゃあ物足りないと言わんばかりに肉球の感触を堪能しつつ、ドラゴンの尻尾を器用に使ってボディソープの容器を拾い上げるクラリス。それをタオルにぶちまけて過剰に泡立て、ニコニコしながら距離を詰めてくる。
後ずさりしても稼げた距離は僅か2歩分。あっという間に壁際に追い込まれ、身長もおっぱいも大きなメイドさんに丸洗いにされることが確定したミカエル君は、ちょっと顔を赤くしながらも引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
その直後、またしても屋敷中に「にゃあああああん!!」というハクビシンの鳴き声が響き渡る羽目になったのは別の話……にしてほしい。
さて、これで冒険者に登録できる年齢まであと1年……このリガロフ家から、人を散々忌み子扱いした挙句利用しようとする父親の下から去る事ができる。それまであと1年の辛抱である。
その時のために、色々と準備を進めてきた。資金は問題ない、レギーナを通して小遣いは与えられている。ギルドへの登録に手数料は取られるが、そこまでの額じゃない。その気になればやっすい賃金で働かされている労働者でも冒険者を名乗れるくらいである。
けれども屋敷を離れ、特定の拠点を持たない”ノマド”と呼ばれるスタイルの冒険者になる事を目的としている以上、今後のためにも可能な限り資金は集めておきたい。というわけでレギーナから貰った小遣いを元手に、ギャンブルで色々と荒稼ぎさせてもらった。警備で暇そうな憲兵や騎士、仕事帰りの冒険者相手にポーカーの勝負を吹っかけては、ちょっとした小細工で勝利してきた。
言っておくが、『騙される方が悪い』。世の中残酷なのだ。
おかげで部屋に置いてあるヒヨコさんの貯金箱の中には硬貨だけじゃなく、獲物から毟り取った紙幣もぎっしりだ。
ああ、勘違いしないでほしい。俺が標的にしたのは騎士や憲兵、それなりに稼いでる冒険者。間違ってもスラムに居る貧しい人々や労働者を狙ったりはしない。”弱い者からは奪わない”、これが俺のルールだ。
最近はパルクールだけじゃなく、手癖の悪さも仕上がってきたな……RPGで言うなら職業は盗賊ってところか。
さて、さっき述べた冒険者のスタイル『ノマド』について少し説明しておく。
冒険者、と言っても様々な種類があるが、大きく分けるとそれらは2つに大別される。
片方がみんなが思い浮かべる普通の冒険者。特定の地域に事務所を持ち、そこを拠点に仕事をする、いたってごく普通の冒険者たちだ。このスタイルは特定の地域に定住する以上、周辺地域との地盤が非常に強い事が挙げられる。
もう片方はさっき言った”ノマド”と呼ばれる冒険者たちだ。ノヴォシア帝国は広大な国土であるが故に、遠隔地へ素早く移動するために鉄道網が発達している。このキリウにもかなりの数の列車が往来を繰り返しており、それがこの地域を支えていると言っても過言ではない。
ノマドとは、特定の地域に拠点を持たず、各地を旅しながら色んなところで仕事をするスタイルの冒険者の総称となっている。故に遊牧民ってわけだ。
俺が志望しているのはこっちの方で、地域に縛られず広い範囲で、それはもう多様性に富んだ仕事を受けられる。が、様々な地域を移動しながら仕事をする関係上、普通の冒険者のように地域との地盤が強いわけではなく、更にそういった定住しながら仕事をする冒険者からは縄張りを荒らす余所者、として忌み嫌われている傾向にある。
まあいい、忌み嫌われるのには慣れている。そんなもの、結果を突きつけて黙らせればいい。
ヒヨコの貯金箱を弄びながらそんな事を考えていると、部屋のドアがノックされた。
ノックのリズムと強さが違う―――それだけで、相手がクラリスでもレギーナでもない事を悟った。
「どうぞ」
貯金箱を本棚の後ろに隠して返事をすると、扉がゆっくりと開いた。
その向こうに立っていたのは、いつもの顔なじみのメイドではなく―――赤い服に身を包んだ、ライオンの獣人の少年だった。
一足先に内定が決まり、屋敷を出たアナスタシアとジノヴィ。次に屋敷から巣立っていくのは、エカテリーナ姉さんとこの男―――次男マカールであろう。
なんで俺がこんな事を、と言わんばかりのめんどくさそうな顔をしながら、マカールは俺を睨みつけてきた。
「父上が呼んでる」
「……え」
意外な話だった。今まで人を散々忌み嫌い、存在しない子としてこの部屋に半ば軟禁するよう強制していた男が―――自分の妻オリガとの間にではなく、メイドのレギーナとの間に生まれてしまった庶子を、この一族の恥部を頑なに隠し続けてきた男が呼びつけるとは。一体どういう風の吹き回しか。
とはいっても、話の内容は大方予想がつく。
まあいい、拒む理由もない。はっきりとした意思を直接叩きつけてやるのも悪くなかろう。庶子であるが故に家督継承権も無い以上、この屋敷に留まる理由はない。俺は冒険者になり、各地を飛び回って仕事をする。そして一族のしがらみから自由になるのだ、と。
俺はお前の飼い猫ではない。自ら首輪を引き千切り、己の牙で未来を掴み取る獅子なのだ、と。
大人しくマカールの言われた通りに部屋を出る。しばらく見ないうちに、兄のマカールも大人になりつつあった。俺よりも身長が高く、身体にも筋肉がついているのが分かる。黙っていれば貴族に生まれた育ちの良さそうな金髪碧眼の貴公子といった感じだが、口を開けば優秀過ぎる姉や兄と比較され続けて堆積した劣等感が、そりゃあもうダムの放水のように溢れ出す。
そんな境遇だったから、権力にとにかく目がない。俗物と見下してやりたいところだが……いくらか、共感できる部分はあった。
屋敷の中をしばらく進み、巨大な扉の前に辿り着く。扉の左右ではメイドたちが待っており、当主の息子たちの到着を知ると、ぺこりとお辞儀をしてから扉を開けた。
「父上、ミカエルを連れてきました」
「ああ、よく来た」
書斎の奥―――分厚い本に囲まれた一室で、俺たちの父は椅子に腰を下ろしていた。
ステファン・スピリドノヴィッチ・リガロフ。リガロフ家の現当主であり、没落したリガロフ家の再興を志す男。だがその実態は過去の栄光に浸り、自らの子供たちを権力者の元へ送り込む事によって自分もその権力を得ようという下衆な野望が見え隠れしている。
若い頃は優秀な剣士だったそうだが、今ではその野望同様に鍛えられた身体は醜く肥え太り、ライオンの獣人なのか豚の獣人なのかはっきり言って分からない。マカールの今の顔つきから見ても、彼もこの父親を良く思っていない事が窺い知れる。
一つだけ言わせてくれ。
神様、感謝します。
ミカエル君をこんな父親に似せないでくれて本当にありがとう。最初は何でハクビシンやねんって思ったけど、今は違う。こんなにキュートな小動物の獣人にしてくれてありがとう。全人類、ハクビシンを愛するべし。
椅子から立ち上がった父―――ステファンは、ゆっくりとこっちにやってきた。そしてマカールではなく俺の顔をまじまじと見つめ、懐かしそうに笑う。
「大きくなったなぁ、ミカエル」
今、この手にAKがあったら間違いなくこの男を撃ち殺している。
何が「大きくなったなぁ」だ。散々人を忌み子扱いしておいて、今更父親面か。ふざけるな。
「その目、やはりレギーナにそっくりだ」
「……やはり、俺の母はレギーナだったのですね」
予想していた事ではあった。リガロフ家で雇われているメイドの中で、ハクビシンの獣人は彼女だけ。ライオンの獣人同士の間に、一体どんな間違いがあってハクビシンの獣人が生まれるというのか。
問いかけると、ステファンは反省している様子もなく頷いた。この男の事だ、どうせマカールかエカテリーナを身籠った母オリガを抱く事が出来ないからと、メイドに手を出してしまったのだろう。
その強すぎる性欲が炸裂した結果生まれたのが、この俺。
ライオンの獣人として生まれていたら、きっと正式にリガロフ家の5番目の子として迎え入れるつもりだったのだろう。が、ステファンは幸運の女神に見放され、2分の1の勝負に負けた。
生まれてきたのは、ハクビシンの獣人だった。
「ミカエル、お前の事はアナスタシアから聞いた。庶子として生まれ、継承権から外れてもなお努力を続け、貪欲に力を求める……私は誤解していたようだ」
「誤解って、何を」
「誤解というより、お前を過小評価していたのだ……どうだ、ミカエル? 継承権はまあ、血筋の関係でやれないが、お前を正式に5番目の子として迎え入れようと思うのだが」
「それは考えさせてください」
ぴしゃりと言ってやった。今更何を言い出すかと思えば……。
元々これは、こんな父親に気に入られるために手に入れた力じゃない。いつかこの屋敷を出て、1人で自由気ままに生きていくために準備した力だ。
それに……親からの愛情なら、もう十分に受け取っている。本当の母親からな。
「そうか……まあいい、時間はたっぷりある」
ほんの少し苛立ったように見えたが、次の瞬間には先ほどと同じ口調に戻る父上。書斎の椅子に腰を下ろした彼は、葉巻を取り出して火をつけながら問いかけた。
「それで、お前は何をしたいんだミカエル? 私に言ってごらん、叶えてやろう」
「……冒険者になりたい」
煙を吐き出し、再び葉巻を加えようとした父の動きが止まった。
冒険者―――特定の拠点を持たぬ、遊牧民スタイルの冒険者。それはつまりこの屋敷から出ると、一族との決別を意味している。
何とかして息子を自分の手元に置いておき、使えるようならば他の貴族とでも結婚させ権力拡大の道具に使おうとしている男だ。そんな事は許さないだろう。
案の定、父上の表情がその返答を契機に変わった。もはや反抗的な息子への怒りを隠そうともせず、葉巻を乱暴に灰皿に押し付けたステファンは、椅子から立ち上がりながら叫ぶ。
「ならん! ならんぞミカエル!!」
「なぜ?」
「お前は貴族の子だ! その栄誉を、生まれ持った栄誉ある血筋をドブに捨てるような事など許さんぞ!」
「その息子を除け者にしてきたあなたがそれを言うのですか、父上。随分と都合の良い話ですね」
「貴様、育ての親に向かって……!」
「俺の育ての親はレギーナです。父は何もしていない」
拳を握り締めながら言い、これ以上は無駄だと判断して踵を返す。
「―――俺はあんたの駒じゃない」
最後にそう言い残し、父の書斎を後にした。
胸の奥底に沈殿していた不満を吐き出したからか、身体が随分と軽くなったような気がした。
「許さん……そんな事は許さんぞ、ミカエル」
薄暗い書斎の中。
誰も居なくなった自分だけの空間で、ステファンは拳を握り締めながら呟いた。
確かにミカエルは、自分とオリガの間に生まれた子供ではない。オリガがマカールを身籠っている間、つい手を出してしまったレギーナとの間に生まれた庶子―――マカールやエカテリーナたちからすれば、腹違いの弟にあたる。
母は違えど、父は同じだ。故にミカエルは彼の子供である。
子が親に従うのは当然であろう―――それを真っ向から否定したミカエルの眼が、レギーナにそっくりのあの眼が気に喰わない。
「お前は私のものだ……私のものなのだ、ミカエル……!!」
貴重な権力拡大のための駒を逃してなるものかと、ステファンは静かに唇を噛み締めた。




