イルゼの決意
雪解けの季節の到来までカウントダウンに入った頃、ザリンツィクを―――というより、ノヴォシア帝国全土を震撼させる記事が、新聞の一面に掲載された。
ザリンツィクの疫病、蔓延の原因はザリンツィク議会。
昨年の秋ごろより流行したザリンツィクの疫病”赤化病”―――発症すると高熱を発し、身体中の毛細血管から出血し身体中が赤く染まる事からそう呼ばれる疫病。それの原因は工場の廃棄物や廃液などによる公害ではなく、ヴラジーミル・エゴロヴィッチ・バザロフを中核とする複数の貴族たちによる意図的なものであった、というのである。
それだけであれば帝国全土が震撼などするまい。せいぜい、陰謀論者が好きそうなネタで終わるだけである。
しかしその見出し記事に続けて記載されているのは、屋敷から接収された事件の証拠についての記述だった。冬がやってくればあらゆる物資の物流が止まり、その前に備蓄しておいた食料でやり繰りしなければならないのがこの国家の常識だ。そして最も死者が出る季節でもある。
昨年は農作物の不作が続き、食料の確保が十分ではなかった。そのまま冬に突入すればザリンツィクは食料不足に陥るのは明白であり、何かしらの手を打たねばならない―――その中で貴族たちが打った一手はあまりにも非人道的なものであったと言わざるを得ない。
貧民たちや低所得層を狙って疫病を蔓延させ、街の人口の口減らしを図る、というものである。
こんな事言ったら怒られそうだが、個人的にはそれなりに合理的な手だとは思う。倫理観を無しに考えれば、食料が足りないのであれば消費する側を減らせばよい、という考えに至るのは理解できないわけでもない。しかし許しがたいのが、それが苦渋の決断だったり、全てが終わった後に責任を取るわけでもなく、単に自分たちの贅沢な暮らしを守るためだけの計画だった、という事だ。
まあ、因果応報ってやつだ―――新聞記事を眺めながら朝食後のクソ甘コーヒーを口に含み、ラジオのチャンネルを変えた。今やザリンツィクのラジオではこの”人工感染事件”ばかりを取り上げていて、どのチャンネルにしても事件に関しての報道ばかり。唯一”【ラジオ・ムリーヤ】だけが音楽を流しているという有様だ。
民謡だったりクラシックだったり、レパートリーはちょっとお堅い感じだが、最近ではポップスとかジャズとか、ジャンルに見境が無くなりつつある。俺のような転生者がラジオ局の中にでもいるのだろうか、なーんて思いを馳せながら音楽を聴いていると、マグカップを手にしたシスター・イルゼが席の向かいにそっと腰を下ろした。
「これで一件落着、でしょうか」
「ザリンツィクに関してはそうだろうね」
とりあえず、主犯格であるバザロフの逮捕は確認された。事件の重大さのおまけ程度だが、新聞記事では今回の貴族の連続摘発で今なお現場にいるであろう法務省のジノヴィと憲兵隊のマカールに関しても触れており、『お手柄』、『まさに法の番人』、『帝国の守護者』とそれはまあ凄まじいべた褒めっぷりである。これはキリウに居る父上も鼻が高いだろう、アイツ何もやってないけど。
毎回思うけど、何であんな父親からこんなにも正義感と才能に溢れる兄上たちが生まれたのかね? 母型の遺伝? それとも隔世遺伝?
まあ、リガロフ家の家系は祖先まで辿ればイライナ公国を救った英雄イリヤーまで行きつくわけだし、英雄の血筋という事なのだろう。父上には全然そんな感じはなかったけど。
え、そういうミカエル君はどうなのかって? 俺はママに似ました、にゃーん。
うっすらと、窓の向こうからパトカーのサイレンが聞こえてくる。憲兵隊のパトカーだろう。きっとマカールやジノヴィの乗った車を先頭に、次の貴族の摘発へと向かっているに違いない。
一応バザロフの屋敷から入手した証拠はこっちでも精査したが、確認しただけでも議会の9割に達する貴族が今回の事件に名を連ねていた。命令役はバザロフだが、実行したのは他の貴族たち。資金提供だったり、情報の隠蔽だったりと、とにかくいろんな形で貴族たちが事件に関与している。
しばらく兄上たちは大忙しだろう。昨日の夜もジノヴィから感謝の電話があったが、『摘発する貴族が多すぎるからしばらくザリンツィクに留まる』って言ってたし……兄上方が過労死しないか心配である。
まあいい、これで兄上たちも勲章は確定だろう。後でケーキでも差し入れに行くか……。
「これで多くの人が救われる……」
首に下げたロザリオを優しく握りしめながら、シスター・イルゼはそう言った。
もう特効薬の転売はない。元々が低所得者でも手を出しやすい金額だったし、工場でも特効薬の増産体制が整ったそうだから、赤化病に関しての騒動はそのうち沈静化するだろう。おそらくは春頃には疫病の流行は終息すると思われる。
しかし彼女の顔がまだ曇って思えるのは、決して気のせいではない筈だ。
ザリンツィクでの事件はこれで終わり。しかし彼女のいた村―――アルカンバヤ村での惨劇は、何一つ解決していない。
今回の一件では、あくまでもバザロフの背後にいるであろう”組織”の資金調達に利用されていた男を1人、排除しただけに過ぎない。
”組織”からすれば毛細血管の一つを潰されたにすぎず、大したダメージになっていない、と考えるのが妥当だろう。それだけじゃない。奴らにとっての資金源の一つを潰したばかりか、自衛用にとバザロフに供与されていたと思われる機甲鎧まで強奪した俺たちは、”連中への明確な宣戦布告をした”と言ってもいい。
これからは旅をしながら、”組織”の刺客を退ける毎日になるだろう。
苛酷な旅路になりそうだが―――だからこそ、力をつけなければならない。
今回の一件でもそうだ。強敵との戦いで、俺は何ができただろうか? 毎回最終的にはクラリスが片付けてくれているが、俺が単独で倒した強敵と言えばキリウの地下で遭遇したエルダーゴブリン程度のものではないか。
「……」
「ミカエルさん?」
「あ、ああ、なんでもない」
自分の無力さを痛感し、もっと力をつけねば、と決意を固めていると、心配そうにシスター・イルゼは声をかけてくれた。
半ば慌てるようにコーヒーを口へと運び、息を吐く。
「ミカエルさん、私……決めました」
「何を?」
問いかけると、彼女はこっちを真っ直ぐに見つめながら言葉を発した。
「―――私も、仲間に加えていただけませんか」
「……理由を聞いても?」
「今回の一件、村での事件、そしてあなた方が”組織”と呼ぶ黒幕……あなた方と行動を共にしていれば、いずれ”組織”の構成員と邂逅する事もあるのではないか、と考えたのです」
「それで……まさか復讐するために?」
いけない、とどういうわけか反射的に思ってしまった。そりゃあ、俺はまだ大切な何かを失う痛みも、そして絶望も知らない。何も知らず、それなりに恵まれた環境で、母やクラリス、そして仲間たちに支えられながらここまで生きてきた人間だ。そんな生い立ちの人間に、自分の大切なものを失った復讐者の心境など理解できまい。
復讐を果たしても、何も返ってこない。それはただただ破壊を振り撒き、他者からあらゆるものを奪うだけだ。そしてやがてはヒトではなくなる―――成り下がるのだ、破壊のみを求める”悪魔”に。
シスター、君はそうじゃないだろう? その両手で弱い人々を救い、手を差し伸べてきたのだろう? そんな君が復讐なんて―――自分にそんな事を言う資格などない事を理解しつつも、ふとそう思っていた。
しかし彼女の心にある決意は、どうやら違う色合いのものらしい。
「いえ、なぜあんなことをしたのか話を聞いてみたいのです」
「……なるほどね」
彼女の信念に歪みはない。
もし話して分かり合えるのであれば、彼らも救いたい―――甘いかもしれないが、そんな彼女なりの信念が言葉の節々に含まれているような気がして、それ以上は聞かなかった。
「分かった。でも俺の一存じゃあ決められない。皆の意見も聞いてからになるけど、いいかい?」
「ええ、構いません。よろしくお願いしますね」
「ああ。とりあえず、よろしく。シスター・イルゼ」
「ええ」
彼女と握手を交わす一方で、思っている事がある。
世の中、全員が話の分かる相手だとは限らないという事だ。
そもそも対話で全て解決できていたら、戦争なんて起こらない。
そしてあんな非情な事が出来るのだから、”組織”とやらは間違いなくそういう話の通じない類の相手ではないか。頭の中にはそんな不安が満ち、希望を遮ろうとする。
いずれにせよ、これからの旅路は厳しいものになりそうだ。
なぜこんな事になったのか、今でも分からない。
特別に用意された護送車の荷台に揺られながら、ヴラジーミル・エゴロヴィッチ・バザロフは混乱していた。ついこの前までは膨大な資産があり、大勢の警備兵に守られた安全な屋敷の中で贅沢な暮らしをしていた筈だ。それがたった数日で失われるばかりか、帝国を腐敗させ利益を貪る重罪人として、これから裁かれようとしている。
夢なのではないか、と信じたくなるが、がたがたと揺れる荷台の感触も、そしてこの冷たさも決して錯覚などではない。ただ淡々と目の前にある無機質な現実そのものだ。今まで幾百幾千幾万もの人間の心を壊してきた残酷な現実が、ただただそこにあるだけだ。
疫病の蔓延だけではない。皇帝から直々に逮捕命令を受けた法務官への反逆行為も罪に問われるであろう。このまま行けば死罪は確実―――もうチャンスは、ない。
どこかに腕の良い弁護士はいないものか、と待ち受ける未来から逃れる手段を模索し始めたその時だった。
前方へと引っ張られる感触と共に、甲高いブレーキの音が荷台にまで響いた。護送車が急ブレーキをかけたのであろう事は容易に想像がつくが、果たして何があったのか。
雪解けが訪れるまであと少しとはいえ、今でも街の外は雪でいっぱいだ。車両の通行も簡単なものではなく、専用の装備を搭載した車両でなければ郊外の通行は難しい。彼の乗るこの護送車だって、専用の装備(主にバンパーに搭載するドーザーブレードなどだ)を搭載した特別なものである。
そんな車両でなければまともに郊外を走れないというのに、なぜ急ブレーキをかけたのか? 他の車両や列車なんて、この時期に街の外を走っている筈も無いというのに。
その疑問への返答は、突如として響いた荷台のドアの開く音だった。
バンッ、と強引に開け放たれる後部のドア。その向こうに立っていたのは黒い制服と装備に身を包んだ、華奢な体格の人影だった。
身長は160㎝半ばほどだろうか。頭にはヘルメットをかぶっており、そこに装着した四眼の暗視ゴーグルを下げているせいで、顔は口元しか窺い知れない。しかし微かに膨らんだ胸元とヘルメットから覗く海のような蒼く長い頭髪から、その人物が女性であることが分かる。
「な、なんだお前―――」
警備兵の1人が拳銃を引き抜くよりも先に、彼女の手にしたアサルトライフル―――AK-15が静かに火を噴いた。ソ連製のPBS-1サプレッサーで銃声を軽減されたそれは、しかし人間を殺すには十分すぎる殺傷力を堅持したまま警備兵の眉間へと飛び込み、その中身を荷台にぶちまけた。
容赦のない、生かす気すらない無慈悲なヘッドショット。明確な敵であると認識した他の警備兵たちが応戦の構えを取るが、彼らの得物が彼女へ向けられるよりも先に、警備兵たちは最初にやられた彼と同じ道を辿った。
ヒトの姿をした機械ではないか―――そう思えるほど淡々とした”作業”。
そしてその襲撃者の4つの目が、ゆっくりとバザロフの方を見る。
(ま、間違いない……”奴ら”だ)
奴ら―――逮捕されたバザロフの元にやって来る相手としたら、それしか考えられない。
唐突にその女性兵士が後ろへと下がった。何事かと身を乗り出そうとするバザロフだが、立ち上がろうとするよりも先に猛烈な光が荷台へと差し込み、彼の視界を遮る。
今のバザロフには見えないが、その光は彼女の後方に浮遊する巨大な戦闘ヘリ―――”スーパーハインド”と呼ばれる機体から照射されたものだった。
《しくじったな、バザロフ》
聞こえてきたのは、低い男の声。
間違いない、とバザロフが確信すると同時に、心臓が凍てつくほどの悪寒が彼を苛んだ。彼らは仲間ならばともかく、利用している相手を助けようなどとはするまい。
こうして実働部隊を動かしたという事が何を意味するのか、バザロフは理解していた。
ライトの光が弱まり、宵闇に浮かぶスーパーハインドの姿が露になる。真っ黒に塗装された機体には、”鎌と金槌を交差させ、周囲に星を散らしたようなエンブレム”がこれ見よがしに描かれていた。
《悪いが偉大なる”団長”のご命令だ、死んでくれ》
「ま、待っ―――」
言い終える前に、スーパーハインドの機首にマウントされた20mm機関砲が火を噴いた。
「ギャアアアアアアアアア!!」
『―――バグは削除されました』
薄暗い部屋の中に響くクラシックを聴きながら、”彼”は頭の中で言葉を思い浮かべた。言葉とは口にしない限り相手に届く事はない―――その認識は、少なくとも彼らにとっては過去のものだ。思い浮かべた言葉を口にするという手順を踏まなくとも、伝えたい事があるならば相手に直接届く。
たとえそれがどれだけ離れていようとも―――次元の壁を超えていようとも、だ。
音楽プレーヤーから聴こえてくるチャイコフスキーの白鳥の湖がリピートされる。曲調が再び静かになったところで、今度は彼の頭の中に声が聞こえてきた。
【よくやった。我らの計画の中にバグなど不要……不要なプログラムは即座に削除せよ、バグの原因となる】
『心得ております、”同志団長”』
いつまでもバグを放置するプログラマーなどおるまい。バグは存在するだけで、プログラムを狂わせていく忌むべき存在だ。癌細胞と同じで、見つけたら即座に対策を打たねばならない。
それが彼らにとっての認識だった。
【今や祖国は腑抜けの巣窟よ……同志、君たちだけが頼りだ。再び強い祖国を蘇らせるために】
『はっ。一族の百年の理想のため、計画成就のために』
そう返事をすると、頭の中へ声は戻って来なくなった。
すべては、計画成就のために―――。




