万に一つの可能性
この日は通常の雑務を熟しながら、取引内容を頭に叩き込むはずが、殆ど理解出来ずに終わってしまった。
聞かなきゃわからない事の方が多い。
でも接する事自体に忌避感があって、他の子たちのように気軽に聞きに行けない。
挙句、接近禁止としているから、Iさんも傍に来る事は決してない。
つまり不明な点は自力で解消するか、腹を括って尋ねるかしか選択肢は無いのだ。
翌日、デスクの上にメモが置いてある。
『不明な点があれば社内メールで質問してください』
理解出来ずに唸ってたのを知っていたのか。
それとも誰かに聞いたのか。
私、バカだ。
仕事に私情を持ち込んで勝手に壁作って、でも、それを受け入れてメールで質問してもいいって。
男が嫌い、でも、仕事にまでそれを持ち込んで、それがある程度許される会社でもあって、だからつい甘えてしまってた。
私一人の為に苦労したり迷惑する人の事なんて、全然考えてなかった。
学生気分が抜けない、なんてのはまさに責任感を持たないからだ。組織の一員としての自覚が無かったのに、それでも課長もIさんも受け容れてくれている。
聞こう。
不明な事を放置していては仕事にならない。
Iさんの居るデスクを見ると、私と目が合った。
思わず心臓が撥ねる感覚を得たけど、でも悪い感じではない。Iさんは真面目に仕事を引き継がせようとしているだけで、そこに邪な考えがある訳じゃ無い。きっと。
立ち上がるまでに少し時間が掛かったけど、Iさんのデスクに向かい歩き始めると、デスクの上を片付け始め、空いたスペースに何やらいろいろ取り出している。
「頑張ったね」
傍まで行くと思ってもいない言葉を掛けられた。
表情は穏やかで、でも、真面目な雰囲気をしっかり纏わせていて、仕事をする顔になっている。街に溢れる鼻の下を伸ばし、だらしない顔で声を掛ける連中とは一線を画していた。
「分からない事だらけでしょ? 引き継ぐ為にはひとつも疎かに出来ないから、週末までに全部頭に叩き込んで貰うから」
無言で、でも頷くと、椅子をひとつ用意してくれて、座るように促され腰掛ける。
距離が近い。
時々Iさんが用意した資料からも説明が入って、覗き込む形になるけど、その時は少し距離を取ってくれる気遣いも見せてくれる。
他の子たちが会議室とか使わないのか、と尋ねてくると、二人きりだと緊張したり警戒しちゃうから、この方がいいんだよ、と言っていた。
私の事を考えての事だ。みんなの目があるから安心して覚えてねって事だろう。
穏やかで優しい口調できちんと要点を抑えて説明してくれるIさん。
私は知る由も無かった事だけど、あとで隣の女性社員から聞かされた。
「物凄く気遣いの出来る優れた人で、社内でも人望があって人気のある人なんだよ」
だそうだ。
それだけに退職が惜しまれるのだけど、そんな人の後任なんて私に務まるのだろうか。
週末までに何度かレクチャーされて、凡そ取引先と内容を理解する事が出来た。
引き継ぐ為にはまだハードルがあって、取引先の男性社員たちと今後付き合い続ける必要がある事。
プライベートに関しては事前に釘を刺して、絶対に誘わない、絶対に根掘り葉掘り聞きださない、個人情報に関わる部分は特に慎重に、と念を押したらしい。
そんな事が出来るのもIさんの人望あっての事だろう。
今後取引先から信用を勝ち取るか否かは、私に掛かっている。
Iさんは絶大な信頼を得ていた。でも私にはたぶん無理だろう。
「気負わなくていいから。人には誰しも最低限譲れない部分はあるからね。そこだけはこっちから先に言っておいたから」
凄く気を使ってくれている事が理解出来た。
普通ならただの我がままだ、で退けられるような事なのに。
「今どき取引の為に人身御供になる必要なんて無いから。そんな事したら優越的地位の濫用って奴で、労基から是正勧告入るし、社名を晒される事になりかねないから。セクハラ企業ってね」
と笑いながら言っていたけど、企業も社会的イメージは大切だから、無茶な要求はしないはずだよって。
翌週になり取引先に挨拶に出向いたけど、事前に根回しが済んでいた事もあって、スムーズに事が進み、私はIさんに守られながら無事に初日を終えた。
「これから私が退職するまでの間に、あと八件得意先回りがあるから、気を抜かないようにね」
都度資料や取引先の内容を教えて貰い、ひとつずつ熟して行くと徐々にだけど、先方の社員とは極端な忌避感を得ず、付き合って行けそうな感じがした。
「来月からは一人で回って貰うから、それまでに自分を理解して貰う事。決して感情でモノを言わず、なぜ、どうして、の部分は明確にしておく事。男なんて理論的に説明すれば納得するからね」
男なんて単純だから筋が通っていればいいって。
その後も次々連れ出されて挨拶回りをして、全てが終わると残りひと月になった。
「じゃあ、明日からは一人で得意先回りをしてみて。もし何か問題があればすぐ連絡してくれれば、こっちでフォローするから」
フォローは任せろって言ってる。
退社後は課長がフォローしてくれるとも。大切な部下だから課長なら、きちんと守ってくれるはずだって。
男にはどうしようもない下衆が居る一方で、Iさんや課長のように理解を示して、きちんと適切な距離感で付き合える人も居た。
全部がそんな人なら社会はもっと良くなるのに、もっと女性も生き易くなるのにと思う。
会社の飲み会とかでは、相変わらず男が参加すると私は不参加だけど、Iさんの送別会だけは参加しようと思ってる。
お世話になっていながら知らん顔はさすがに出来ない。きちんと労ってお別れをしておくのは人としての常識だろうから。
そうこうしている内に、ついにIさんの退職の日がやって来た。
私がIさんと行動を共にする事が多くなり、周りもやっとまともになったんだね、なんて言ってたけど、それは違う。Iさんだから気を許せる部分はあった。他の男なんて今も近付かれるだけで迷惑だ。次点で課長が居るだけで後はノーサンキューだし、近寄ったらやっぱり三日月蹴りが炸裂する。
ひとつ、これだけ出来る人がなぜ退職なのか、その理由を聞いてみたいと思った。
意を決して尋ねてみると。
「スカウトだよ。本当は今の会社に居たかったんだけど、熱烈に迎え入れたいって何度も懇願されて、条件も滅茶苦茶良くて、新しいプロジェクトのリーダーとして、会社を盛り上げて欲しいって言われてね」
社内だけじゃなくて社外でも評判になる程に、物凄く出来る社員だった。
新規のプロジェクトを任されるってのは、仕事をする上で物凄く遣り甲斐を持てる。だから、今の会社には申し訳ないけど、新天地で頑張ってみようかなって、とも言っていた。
以前なら男の事なんてどうでも良くて、気になる事も無かったのに。
Iさんだけはいろいろ気になるようになった。
「結婚してるんですか?」
「してないよ。今のところは仕事が恋人状態だね」
「しないんですか?」
「今は無理だけど数年以内にはって考えてはいる」
彼女も居ない、結婚も数年は先、今は仕事が全て。
なんか、昔のサラリーマンみたいだけど。仕事が趣味とか言う。
「ただね、機会があれば今すぐでもいいんだけどね」
専業主婦なんて求めて無いし、共働きで家事も二人でやって、とか言ってるけど。
「家事出来るんですか?」
「炊事洗濯掃除は問題無いと思う。って言っても女性から見たら拙いだろうけど」
出来るとは言っても謙遜もする。女性から見て出来るのと、男性が思うのは違うってのを弁えてるんだ。
「あの」
「なに?」
「私が立候補したら……」
自分でもびっくりした。男なんて生涯絶対無いと思ってたのに、口から出た言葉に自分が一番驚いた。Iさんもびっくりしてる。
「最後に嬉しい事を言ってくれるんだね。その言葉だけで新しい場所で頑張れるよ」
本気だとは思って貰えなかった。
自分が嫌になる。
きっと気付いてないだけで、Iさんに惹かれていたんだ。男嫌いだからそれは絶対ないって否定して、でも、心のどこかにこの人ならって希望があって。
送別会も終わって解散する時に、やっぱり少し距離を取りながら「これから一人だけど挫けそうになったら、課長に頼れば何とかしてくれるから、あとはしっかり自分の足で立って進んで欲しい」って言われた。
なんか、ここで普通の男なら「連絡先」とか言い出すのに、Iさんはそんなの口に出さない。私にそれを聞いても無駄とか思ってる?
違う。
本心は聞いて欲しい。そして、そして、傍に、居て欲しいと願ってる。
たった一言。
言えない自分がもどかしく悔しい。
離れて行こうとしてる。
私のこれまでがあっての態度だから、踏み出すのは自分。相手ではない。
「あの」
振り向いて私を見るその表情は笑顔だ。
「どうしたの?」
「あの、その、れ、れん」
「男だよ? いいの?」
「は、はい!」
―― おしまい ――