厳しい選択
今回の同行は私の今後に必要だと言う。
「再来月Iさん退社するから、それまでに君に業務を引き継いで貰う必要がある」
退社?
「そろそろ仕事もデスク中心じゃなく、得意先にも顔出して欲しいし、いつまでも書類整理じゃ意味無いから」
「ですが」
「分からないでも無いけど、Iさんの業務をじゃあ、他の誰かにってなると適任者が居ない。みんな自分の仕事で手一杯だからね。ここで自分のポリシーを押し通すのは自由だけど、その分、他の子にしわ寄せが行くのだと考えて欲しい」
卑怯だ。
他人を出しに私に強制するなど。
「絶対命令じゃないから、どうしてもって言うなら今回は見送るけど、代わりにボーナスとかの査定には今後影響するよ。脅しじゃなくてすべき業務を遂行しないんだから、当然の措置でしょ」
遊ばせてる訳にも行かないし、新人の数は限られていて、各々既に業務は割り振られている。急な退職が決定したIの業務を引き継ぐ余裕のある人は、今現状この中には私をおいて他に居ないのだと。
勝手にやめるなど、後任の事も考えろよ。
「どうする? どうしても嫌だって言うなら強制はしない。ただ今後に影響がないとは言わない。何某かの不利益はあってもそれは甘んじて受け入れてくれないと」
みんな誰もが我がままやポリシーを貫いてたら、組織が円滑に運営出来ないのは事実で、誰もがどこかで妥協しながらやっている。私だけを特別扱いする訳にも行かない。
これが医師から診断書を貰っている、病持ちであれば融通は利かせるし、無理強いする事も無いのだが、男嫌いなだけで正常なのであれば、それはただの我がままだと。
男嫌いを病気認定して貰えていれば、こんな理不尽は無かったんだろうな。
やっぱり男社会は駄目だ。苦しむ女性の心理を一切理解しない。
「来週だから、今週末までに結論出してくれる?」
「はい……」
自分のデスクに戻ると隣の女性社員が、また何やらぶつぶつ言い出してきた。
「Iさんと一緒に得意先回り受けるの? 受けないと会社に居辛くなりそうだからねえ」
ただでさえ上司受けの悪い私が断ったとなれば、上司の期待は一切無くなる。そうなると仕事も雑務中心で給料も上がらない、ボーナスも常に最低。
新入社員と同程度の給料で何年も居なければならない、となると将来像が不安になるが、仮にどこかに転職しても同じ事が起こる可能性は極めて高い。
むしろ男と仕事が出来ないという条件で、入社させてくれる会社など早々無いだろう。
そうなると正規雇用は無くなり、非正規雇用しか選べなくなる。安定しない生活では老後に不安が残るだけで、明るい未来像など描けない。
辛いけど、再来月には退社するのであれば、その間は例外期間として我慢するしかない。
デスクから離れ課長の下へ行くと。
「苦渋の決断だろうけど、受けてくれるんだね」
「はい」
「じゃあ、来週、しっかりアシスト頼むよ。仕事を覚えてくれれば、その後は君が自分で判断して行動する事になる。自由度は高いしこっちからは、ああしろこうしろとはいちいち言わない。自分で考え行動し、良い結果が出れば待遇はどんどん良くなるから」
部長はともかく、課長は多少でも私の理解者である事は分かっていた。今まで男社員との接触をしなくて済むようにしてくれていたのは課長だ。その課長が私に頼むしかない状況だったのだろう。
って事は、Iが給湯室に来たのは手籠め云々じゃなくて、来週からの仕事の件もあっての事か。
くだらない噂話に振り回され過ぎたな。
ならば、接触しようとするのも納得だ。仕事を引き継ぐ相手に、何も無しに退職したら無責任の誹りは免れないからだ。
接触の理由が分かれば邪険にする必要もない。
私が仕事をさっさと覚えてしまえばいいのだから。そう、あくまで仕事上だけの付き合いならば、気にする必要も無かろう。課長との関係性と同じだ。
気分もすっきりした所で、一日の業務を終えるとIが近付いてきた。
が、結構距離を取っている。
「遠くから失礼するけど、来週のL社の件で資料を先に渡しておくから、頭に叩き込んでおいて欲しい。デスクに後で置いておくから、明日からでも読んで理解しておいてね」
そう言って離れて行った。
決して近づこうとはしないのは印象として悪くは無い。だが、どうせなら今渡してもその程度ならば支障はないから、後を追い自分から声を掛けた。
「あの、資料、今受け取ります」
ちょっとびっくりしてる。
「あ、そう? じゃあ、このファイルがそうだから、目を通しておいてね」
そう言って渡された少し厚手のファイルと、USBメモリーもセットだった。
「そっちのメモリーは社外秘だから、持ち出し厳禁。社内に置いておく事。きちんとデスクの引き出しに鍵を掛けて保管してね」
ファイルの方は得意先の事が記された資料で、取引内容などは全てメモリーの方に入っているらしい。
まず取引先の事を知らなければ、仕事にはならない訳で、これを見て覚えろと言う事だろう。
「来週から大変だけどよろしく」
「あ、はい。よろしくお願いします」
軽い挨拶を済ませデスクにメモリーを仕舞い、鍵を掛けたらファイルはバッグに入れて、帰宅する事に。
私だって、全ての男が駄目だとは思っていない。中にはそう、百万人に一人はまともな存在も居るとは思う。
ただ、そんな存在は稀有なのであって、どこにでも居るとは思っていないだけだ。 彼はどうなのだろうか。
家に帰って取引先の資料を読み漁る。
相手を知らずに取引なんて出来る訳が無い。だからきちんと頭に入れておく必要がある。どんな会社でどんな生い立ちがあって、どんな業務をしていて、どんな体制の会社なのかなど知るべき事は多い。
メインとなる業務もそうだけど、どの程度まで範囲を広げているのか。この資料をみるまでは、漠然としたイメージしか持っていなかった事に気付く。
適当な時間まで目を通しておいて、続きは明日にする事にした。
一気に詰め込んでも頭に入る訳もなく、そこは来週までにきちんと理解すればいい。
翌日は取引内容を確認する為に、USBメモリーの内容をパソコンで調べておく。
継続している取引、打ち切られた取引、新規で提案する予定のものまで、多数入っているけど、商材を把握していない事に気付いた。
各項目にある商材リストで不明なものも多い。
「どうしよう……」
先輩社員に尋ねれば済む話だけど、その勇気は無い。
やはり一番は近付きたくない事。
社内メールで尋ねればと思うも、それだとレスポンスが悪くて、手間も掛かるし質問の仕方次第で欲しい回答とは、違う回答になってしまう事もある。
私がうんうん唸っているのを見て、隣の女性社員が覗き込んできた。
「なに悩んでるの?」
「あ、その、商材リストに不明なものが多くて」
「うち、たくさんあるからねえ」
どうやら教える事は無いようだ。
「嫌なのは分かるけど、ちゃんと尋ねた方がいいと思うよ」
分かってる。
でも、その一歩が踏み出せない。
今回のようなケースだとマンツーマンで、直接教えて貰うのがベストだ。不明な点を放置したまま取引先に顔を出せないし、業務を引き継ぐ事すら敵わない。
私……自分で自分の首絞めてる。
世の中の半数は男。
その男と関りを持たずに生きたいと願うなら、無人島にでも行くしかないのが現実。その現実を受け入れられないから、無駄に悩んで無駄に敵を作って、なんだかバカみたい。
もう少し世の中の男が女性に理解を示してくれれば、こんなに苦労しなくて済むのに。でも、それは期待出来ないよね。