濡れ手で……あわわ(その1)
土曜の朝。
尋が玄関から出ていく。
「……じゃ、いってきます」
「いってら。夕飯までには帰れよ」
「うん」
若干緊張したツラで、髪をいじいじしながらハイカットスニーカーの爪先をとんとんする。
オーバーサイズのグレーのパーカで股下まで隠したファッションで、まあ中にホットパンツ穿いてるのわかっててもちょっと期待しちゃうあの方向性だ。妹だからなんとも思わんけど。
「女子ってそういうスマホしか入らんようなちっちぇえ入れ物好きだよな」
肩に下げた林檎型のポシェット(だがこいつのスマホはAじゃなくGの会社の奴だ)を指さしながら言えば、「ちいさいのと可愛いのは真理だから」と返された。真理ねぇ。
「でもお前も急に自宅警備やめるなんて、どういう心境の変化なんだ?」
「……このままじゃダメだと思ったから」
「なにがよ」
「お兄ちゃんにいちばん近いのは、わたしなんだから!」
「ああ、佐野たちとの会話聴いてたのな……」
綾瀬と距離が近いだのそういう話の延長か、これも。
べつにお前が外出るようになって俺の手間が減るんなら願ったりだが。
「まあなんでもいいけどよ」
「妹の一念発起に対して反応ちいさくない?」
「一念発起っつってもお前、完全な引きこもりってわけじゃなく単に学校行かないだけで友達と遊びに行くとかはしてんじゃねえか」
「それはリフレッシュだよ! 魂の洗濯!」
「ものは言いようだよな。んで、今日の目標は?」
「定期的に通える場所探す。日中の居場所の確保」
「補導されないように気ぃつけろよ」
「うん……うっ、日差しがまぶしい。くじけそう。お兄ちゃんお尻押して」
「背中ならともかくなんでお前の尻撫でなきゃいけねぇんだよ」
「けち! 減るもんじゃないんだから妹の性的欲求くらい満たしてよ!」
「社会的信用と俺のテンションが目に見えて目減りするからヤダっつーか性的欲求満たされながら外出てなにすんだお前はさっさと出てけ」
スリッパの足底でぐいっと押し出すと「雑! でもいってきます!」と言ってすたかたと出ていく。やーれやれだ。
「帰りたいとか迎えほしいとか言い出したときのため、家で待機しとくか」
不定期に遊びに出かけたりとかは多少あったみたいだが、定期的に家を出るという生活から三年ちかく離れていた尋だ。プレッシャーに負けないといいけど。
親離れ兄離れすることで俺にアピールを、と考えるのはいいが。それがあいつのダメージになってちゃむしろ手間かかっちまって世話ねぇっつーか忙しねえしな。
「さて、中間の勉強でもやろっと。そろそろマジにならんとあぶねえ」
ひさびさに集中するか。受験のとき以来女子を追っかけてゆるみっぱなしだった脳みそをフル回転させてやる。
そう思って部屋に戻ろうとしたところ、スマホが震えた。
「あん? 知らねえ番号だ」
電気料金の勧誘かなんかか?
いや、もしかしたら俺好みの(普通の)美少女がかけようとした友達への電話が下一桁だけまちがっていて俺にかかってきておりこれをきっかけに親しくなる流れなのかもしれない。
俺は億が一の美少女枠確保の可能性にかけて電話に出た。
「須々木です、いま暇です」
『そう? ちょうどよかったわ。下まで降りてきて頂戴な』
「ええー……」
一言目から高圧的な上に発言から察するところ下にいるじゃねえかこの通話相手。
ベランダに出て、俺はおそるおそる下を見やる。
すると見覚えのある車種が停まっていた。そう、リムジン。
見れば車の横で腕組みしながらこちらを見上げており、スマホをトントン指さしている御方がいる。なぁんで教えてないのに俺の番号知ってるんですかねぇ。まぁ、あの人なら調べりゃ一分かからないんだろうけど。
ともあれ俺はその御方の素行よりなにより、組んだ腕の上にのっかったおっぱいに集中していた。角度的には垂直方向真上なんだから谷間をガン見できるのだげっへっへ……でもこの距離だと裸眼じゃよく見えなくてあんま意味ねぇな。ちっ。
『ちょっと須々木。呼んでいるのだから早く降りてきなさい』
「いやまあ、呼ばれてるんなら降りますけどね」
俺はその人の元へ向かうべく、サンダル履いてエレベーターのボタンを押した。
エントランスを抜けたところに立っている彼女は、肩まであるウェーブがかった髪をなびかせている。ドレープがアクセントになるこじゃれたカットソーにハイウエストの黒いワイドパンツを合わせており、ヒールの高いミュールが裾から伸びていた。
さて。彼女が組んだ腕に載せた抜群にデカいおっぱいをコッソリ拝みたいところではあったが、しかし、高価そうなサングラスをかけており視線がうかがえないことからそれは断念する。こっちの視線がバレちゃ気まずいから。
ともあれ綾瀬八雲さんがそこにいた。俺は軽く会釈。
「こんちゃっす」
「おひさしぶりですね、須々木。元気にしていたかしら」
鼻にかかる声でツンと言うが、よくよく耳を澄ますとわりと声も綾瀬と似てんだよな……というのはさっき電話口の声を聞いたときにふと感じたことだ。
「GWに風邪ひいて以降はまあ元気ですよ」
「……含みのある物言いね」
「まさか、滅相も無い。そんで今日はなんです、綾瀬でも連れてきたんすか?」
「いいえ、あの子はいないわ」
「? じゃあなんの用事で?」
わざわざリムジン乗りつけてきたんだからてっきり綾瀬の送迎かなんかだと思ったのに、よく見たら車内にはだれもいない。
あれ、っつーか運転手のはずの御手洗さんもいない?
「今日は私、ひとりです。御手洗も別の仕事があるようだったし、外しているのよ」
「はい?」
聞き返す俺の眼前につかつかつかと歩いてきて三歩、立ち止まった八雲さんはグラサンをぱちんと外すと谷間につるを突っ込みながら俺の顔をのぞきこんできた。
「ねえ須々木」
「は、はい」
「私と、付き合って」
「……はい?」
#
引きをつくるほどの話じゃないというか大方の予想をまったく外すことはなく、シンプルに「ちょっとツラ貸せ」という意味の「付き合って」だった。
俺は八雲さんがハンドル握る横へなんともいえない顔で座り、見慣れた近所の景色が流れゆくのを見ていた。
「八雲さん、リムジン運転できたんですね」
「車もバイクも中型まではね。というか、リムジンは普通免許でいけるのよ」
雑談のネタになりそうな豆知識をありがとうございますと言っておくべきかどうなのか。
まあそんなことより本題入る方がいいか。
「で、何用です?」
「私があなたを呼び出す用事が、小雨のこと以外であるとお思い?」
「ですよねぇ」
「あの子には内緒で相談よ……須々木、折り入って頼みがあるのだけど、」
「誕生日祝いですか?」
倉刈さんのストーキングレポートで綾瀬の誕生日が六月頭だったのを思い出しながら、俺は言った。
八雲さんは眉を上げて指を打ち鳴らし、イグザクトリィとか言いそうなテンションでうなずく。
「話が早くて助かるわ。打てば響くって人間関係でとっても大事なことです」
「さいですか」
「将来、ウチで働いてもらうのもいいかもしれませんね」
「話早くないですかね?」
どのポジションでの採用かにもよるけどよぅ。
そう思いながらクソデカ企業CEO様の横顔をちらっとうかがうと、いまのはさすがにジョークだったらしくシレっとしていた。
……はっ。横顔といえば、そういや運転中は前向いてるから横乳は拝み放題か? シートベルトによるパイスラもあるじゃねぇか。ひゃっほう。
「で、話を戻して誕生祝なのですけれど」
「はいはい」
こそこそと拝みつつ俺は生返事で答えた。
いやまあ、友人母をそんな目で見るのもちょいアレだとは思うけど。でも見た目どう考えても二十代だからなこの人……じゃあそういう目も向くよ、そりゃね。しょうがないよ。
にしても若い。若すぎる。
やっぱ美容にも相当お金かけてんのかな。だとしたらその成果をしっかり拝まないのはそれはそれで失礼だろう。
というわけで俺は停止線に差し掛かり、そのブレーキ時によく弾んでいる胸を鑑賞しつつ会話することにした。
「私あの子のお祝いには……、あなたを包んで、郵送しようと思ってます」
ところが横乳鑑賞会は、開始二秒でそんなことやってる場合じゃなくなった。
「あっこれもしや現在進行形で拉致監禁の過程? じゃあごめんですさよなら!」
俺は脱出しようとした。さいわい停止線で停まったばかりだから外に転がり出せる――ってなぜ?! ドアが開かねえぇぇぇ!
「あなた小説とか映画はたしなむ方?」
「えっなに急に?!」
「『オズワルドにされるぞ』……っていう、ほら。アレよ」
「これパトカーじゃねぇぇじゃん!」
犯人の逃走防止のためドアは内側から開かないようになってる、って俺はアレ映画の方で観たんだけどさ!
いやとにかくなんで閉じ込められてんのなんで俺逃げらんないのコレ絶対拉致じゃんん!
「ちゃんと六月三日までなに不自由なく生活の面倒見てあげますからね」
「そんな宣言されてもなにひとつ安心できないぃ!」
「? あなたの安心なんていま話題にしたかしら……」
「ナチュラルにサイコパスっぽいムーブかますのやめて! こわいから! というかたぶんあいつ、こういう形で俺を捧げられても、喜びませんからぁー!」
「そうなの?」
「そうなの! そういうもんなの! そういう感じになってるの!」
必死で抵抗すると、きょとん顔で八雲さんはグラサンを胸元から取り出してつるを立てる。
ヴーんと走り出したリムジンの中で、つるの先端を噛みながらむぅとうなった。
「困りましたね。喜んでもらう方法、ほかに思いつかないわ……」
このひともこの人で大概、綾瀬とか佐野とか倉刈さんとかと思考幅が変わんねえ気がするんだよなぁ。視野がクソ狭というか……。
「もっと普通にパーティーやるとか、そういうのでいいんじゃないですか……?」
「普通のパーティーってどういうものを想定してるのかしら」
「ええぇ? そりゃあなたたち上流なご家庭なんですから、あー、そうだな。客船貸し切って船上パーティー、とか?」
「はぁー……。そういう大規模な誕生パーティーはね、須々木。『お祝い事だから』と断りづらくさせて誘った相手とコネクションをつくり上げ、次の仕事や交渉に繋げるためのものなのです」
「え、そうなんですか」
「ええ。あくまでビジネスのためのものであって、ホストや主賓は接待に追われるし楽しいことなどほとんどない――そんなさみしいパーティーなのよ。小雨とそんな無機質なパーティー、私はやりたくありません」
「ため息まじりにガチめの説教されても、そんな世界知りませんもん俺……つーかこないだ俺が誘われた八雲さん帰国時のパーティーって、まさにそういうさみしぃーのじゃありません?」
「そうだけど?」
「なんでそんなトコに誘うんすか俺を!」
「小雨が『須々木さん呼んでくれたらあたしも参加します』って言うから……! だったら、誘うしかないでしょう?! でも結局あなた来てくれないから小雨も不参加で、この落とし前はどうつけてくれるの!? そうです。あなたが誕プレになればいいのよ!」
「理不尽!!」
いっそ金払って鑑賞したくなるレベルの逆切れだった。掃いて捨てるも靴探しに燃やすもヨシってくらいに金持ってるだろうから払われても要らんだろうけど。
「……つか、あんまこういうこと言うのアレですけど、八雲さん過保護が加速してませんか」
「私が? いったい、どこが?」
「無自覚系かー」
本日二度目のきょとん顔だった。このひと子煩悩隠さないようになったらどんどんキャラ崩壊してるな。いやむしろこっちが素だったのか。
……ともあれ、誕生日でお悩みだというのは事実だろう。
頭の後ろで両手を組み、俺も少し真剣に考えてみる。
「ってもあいつ、好きなもの欲しいものがないんだよなぁ」
「そうなのよ。まあ私のせいなんですけども。でもそれは置いといて、いまはなにが小雨を喜ばせてやれるか考えないと」
元凶は悪びれもせず、自分のおこないを棚に上げて真剣に悩んでいた。いや、改心したというか向き合うようになったんだからいいことなんだけどね。うん。
ともあれ、あいつが喜びそうなことかぁ。
「それこそ、フツーのパーティーとかでもいいのかなぁ……」
「普通の、とはどういうもの?」
「ほんのりと普段より豪勢なメシとケーキ用意して、好みかはさておき相手の暮らしの役に立ちそうなものとかプレゼントする……そんな感じじゃないすかね」
「一般的なご家庭では、そういうことをしているのかしら?」
「少なくともうちはそういう感じでしたよ」
「ふむ……検討の余地有りね。我が家ではしてこなかった類のパーティーですから」
「そうなんですか?」
「あいにくと暇が無くてね」
相変わらず悪びれはしないが、後悔は滲んでいる様子でそう言った。
詮索はしないが、いろいろあったんだろう。
「プレゼントにされんのは困りますが、やるんなら協力しますよ。料理とかケーキとか」
「あなた、ケーキも作れるのですか」
「かんたんな奴なら。スイーツ作れたらモテると思ったんで、昔ひと通り練習しました」
「動機はさておき、能力は買いましょう。まぁ、あなたが作るものならたとえ産業廃棄物でも小雨は喜ぶでしょうし」
「持ち上げてんのか貶してんのかどっちなんですかね?」
「お好きなほうで受け取りなさいな」
つーんとした顔で八雲さんは言った。
綾瀬の手前だとまた態度も変わるのだろうが、やっぱ俺単体に対する評価とかはそんなに高くないらしい。つーか綾瀬をとられると思ってるような感じがひしひしと伝わってくる。子離れできなさそうだなこの人。
「とりあえず、日時とか決まったら教えてくださいよ。俺の方でもある程度パーティー内容考えますし、呼ぶ面子も考えた方がいいでしょ」
「ふうむ……面子はあなたとその妹、小雨のご友人と私。あと御手洗もついでに呼びましょうか。そのときあのまじない師が閑暇であれば、ですけれど」
「そういや契約内容変わってなんか変化あったんすか?」
ちなみに俺はまもなく友達契約が切れる。「更新するなら月末締めだから早くしろ」という友達らしさのかけらもない催促RUINが届いたのは記憶に新しい。
「あいつのシフト時間とかをもう少しフレキシブルに対応することになったわ」
「フレックス制とかいうやつ」
「そんな感じね。で、いまもシフトずらして別件対応中というわけ。まあ、私が国外に居たころとは状況がちがいますから、小雨の面倒をいつも見てもらう必要もないのですけど」
「まあそうですよね。しかし、別件ですか」
「なにやら大ごとのようだけれど。詳しくは守秘義務だからと話してくれなかったわ」
俺にそうしたように、話せないながらもその範囲内でコッチが推測できる程度の情報を与えてくれそうな人ではあるので。八雲さんみたいな大人が読み取れないというなら本当に今回は情報遮断してんだろうな。
「忙しいんですねぇ」
「東海地方最強はダテじゃない、というところかしら……さて、ひとまず参考になったわ。礼を言っておきましょう、須々木」
「いえいえ」
車を路肩に停めて、がちょんとロックを外してくれた音がする。密室空間からの脱出に俺はしみじみと平和を感じた。
グラサンをかけ直した八雲さんは軽く片手を振り、「用があればこれのメッセ機能で連絡するわ。メールだのSNSだのは仕事の連絡で埋もれるから」と言って綾瀬もやってたソシャゲの画面を見せてきた。察して俺が自身のスマホ画面を見ると、同じゲームでフレンド登録が入っている。
プレイヤーネームは『ホーリードーター』だった。
こ、子煩悩の表れか……というか元ネタから察するにその並びに組み替えるとご自身に残される言葉が『毒親』になるがそれでいいのか。それは自虐なのか。ネタにしていいのか困るぜ……。
「ではよろしくね」
「あ、はい」
静かにリムジンは去っていった。
そしてリムジンから降りてきたにしてはみすぼらしい身なりの俺だけが残された。
……うーん周囲の目が痛い。