日常生活におけるランプの魔人との戦いの記録
午後三時。私はお茶を飲もうと思った。小鍋に水を入れてコンロにかけ(私はヤカンというものが嫌いだ。洗う時に隅々までスポンジが届かないのが気持ち悪いのだ)、戸棚からティーポットを出してテーブルに置いた。茶葉の缶も出し、ティーポットの横に置く。茶葉の缶の蓋を開け、スプーンで山盛りにすくい、ティーポットの蓋を開ける。
ここまではいつもと変わらない、何でもない一連の動作だった。
異変に気が付いたのは、いざ茶葉を入れようとティーポットの中に目をやった時だった。いつもならつるりとした陶器の白い底が見えるのだが、今日は見えない。
中に何かが入っていた。
ティーポットの中に、赤い布に覆われた何かが、みっちりと入っていたのだった。
何だろう、と私は思った。赤い布・・・何も心当たりがない。よく観察すると、それはわずかに、規則正しいリズムで膨らんだり縮んだりしているようだった。そして、それはわずかに・・・どうやら寝息を立てていた。
もしかして、と私は思った。ティーポットの蓋を閉め、その表面をキュッキュとこすった。
注ぎ口から白い煙が出てきて、それはあっという間に狭い台所中に広がった。そしてその煙の中に、ボワンとおじさんが出てきてしまった。
そう、ティーポットの注ぎ口から。
「はじめまして、ご主人様。何なりと願い事をおっしゃってください」
さっきまで寝ていたおじさんは、そんな気配を微塵も感じさせない自信たっぷりといった表情で言った。いつから寝ていたのか知らないが、顔がパンパンだ。
「あー・・・」私は思わずおじさんを指差して言った。「えっと、ランプの魔人的な・・・」
白いターバンを頭に巻いた、上半身素肌に赤いベストの、ちょっとメタボぎみのおじさん。ティーポットの注ぎ口にくっついて、フワフワと軽そうに浮かんでいる。フーセンみたいだな、と私は思った。
「指差すなよ」
フーセンおじさん、いや、ランプの魔人は言った。
「スイマセン」
「いいけど。願い事は三つまで。やり直しはきかないからね」
「あー・・・、そうですねー」呆気にとられながらも、私は今の一番の希望を魔人に伝えた。「とりあえず、ポットを空けてくれませんか? もうお湯も沸いてることですし」
コンロの上で、小鍋がシュウシュウと音を立てている。魔人は眉を思い切り八の字にした。
「ランプから出ろと言うんですか? 私はランプの魔人ですよ?」
「いやそれ、ランプじゃないですから。ティーポットですから。形似ているけど、違いますから」
魔人は視線を落としてティーポットを見つめ、それから無言でシュッとポットの中に戻ってしまった。
「ちょっとちょっと」
私はとりあえずコンロの火を止めた。ティーポットの蓋を開けると、中で魔人が寝たフリをしていた。フテ寝である。
「すみません、そこ、寝床にされたら困るんですけど」
本当、困るのだ。うちにはティーポットがひとつしかないし、時計は三時をとうに過ぎている。ティーポットをこすると、ふて腐れた顔で魔人が出てきた。
「はあー、もう、せっかく十二時間ぶりに起きたと思ったら出て行けとか・・・」
「あ、意外と短い。千年ぶりとかじゃないんですね。普通にちょっと寝過ぎたレベルじゃないですか」
「千年も寝るかよ。退屈するわ。あんたアラジンの見過ぎだぜ」
「うんうん、分かりました。分かりましたから、とりあえずそこどきましょうか。ねっ」
私はティーポットに手を伸ばした。
「やだ、ちょっ、やめてー」
魔人は私の手から逃れるように、思い切り身をよじらせた。その拍子に、魔人の端っこーー脚の先、というのだろうか、魔人の脚は途中から先細りになって注ぎ口に吸い込まれていたーーにくっついているティーポットが魔人につられて引っ張られ、テーブルの端から転がり落ちた。
パリン!
ティーポットは床に落ちて割れてしまった。
「ああーっ!」
と大きな声を出したのは魔人だった。
「どうすんのこれ! 俺の家なくなっちゃったじゃん。割れちゃったじゃん。勘弁してよー。今日からどこで寝んの。宿無しじゃん。ホームレスじゃん。ホームレスの魔人なんて聞いたことある?」
知るか。
「最悪ヤカンでもいいけどさあ、この家ヤカン無いじゃん。ヤカン無い家なんてどうなってんの? どうやってお湯沸かしてるの」
「ほっとけ。ヤカンは嫌いなの」
「やだもう、何か心許ない! おうち無いと落ち着かない! あ、どうしよう、何か不安定になってきた」
ああもう、うるさい。
「分かりましたよ。じゃあ、ひとつめの願い」
「えー、今あ?」
「割れちゃったティーポットを元どおりにしてください」
「お、ナイスなお願い」
魔人はぱっと嬉しそうな顔になった。
「お任せあれ! ウムムムムー、ハアッ!」
床に散らばったポットの破片が、逆再生のビデオのように浮き上がってテーブルの上に集まり、元のとおりにくっついた。継ぎ目もなし。すっかり元どおりだ。そして注ぎ口には、ちゃっかりともう魔人がくっついていた。これじゃあ元の木阿弥だ。
ちきしょう、と思いながら、私は、
「二つめの願い!」
と言い放つ。今度は割れないやつをーー
「金属製のラ・・・」
ランプ、と言い掛けて、ちょっと待てよと思った。普通ランプの魔人が使ってるアレ。アレは『ランプ』と言ったら出てくるものなの? 普通『ランプ』っていったらランタンみたいな照明器具なんじゃないの? だいたい何でアレが『ランプ』なの。形状からしたら、どっちかというと『茶器』じゃない? やり直しはきかないって言ってるし、ランタン出てきたらどうしよう。それなら、いっそのこと、
「ティー・・・」
ティーポット、と言い掛けて、また、ちょっと待てよと思った。ティーポットだと大き過ぎない? 普通ランプの魔人が使ってるアレ。アレはティーポットというより、どっちかというと・・・。
「そう、金属製の・・・きゅうす!」
「オーケー。金属製のきゅうす、承りました。マテリアルは何にいたしましょう? 金、銀、プラチナ、機能面でいうとチタンなんかもオススメですが」
「じゃあ、金。ゴールド」
「承知いたしましたー。ウムムムムー、ハアッ!」
カララン、と音を立てて、テーブルの上に金のきゅうすが現れた。
「いかがでござんしょう、ご主人様」
「いいね。じゃあ三つめの願い」
「いきますねえ。はい、どうぞ」
「あなたはこっちに移ってください」
私は金ピカのきゅうすを指差して言った。
「え・・・」と言い、魔人は目をキラキラと輝かせた。「いいの? ・・・くれるの? もらっていいの? この金ピカのおうち俺のもの?」
おうちっていうかきゅうすな。
「いいよいいよ。持っていきな」
私はヘラヘラと愛想笑いしながら言った。
「やったー。ありがとう! マジでありがとう。さてと、それじゃあ・・・」
私と魔人は、たっぷり三秒間見つめ合った。
「願い事三つ、終わってたわ。それではご主人様、ご利用ありがとうございました」
魔人はニマッと笑い、ポワンと消えた。新品の、金ピカのきゅうすと一緒に。
ふう・・・。
静かになった部屋で、白い煙の余韻が少しずつ薄くなって消えてゆく。ちょっともったいなかったかな、と私は思った。せっかく何でも願い事が叶ったのに。
でも・・・。
私はティーポットを見つめた。
渡すわけにはいかなかったのだ。だってこれは、亡き祖母から受け継いだ、大切なティーポットなのだから。
私は改めて小鍋に水を入れ直し、コンロにかけた。時計は三時半をまわっている。ヤレヤレ・・・。私は空になったティーポットを手に取り、茶葉を入れる前に、いつもよりも念入りに洗っておいたのだった。