12-2
思い切り後頭部を打ち付けたグレンは、痛みが引くのを待ってから、抱きついたままえぐえぐ泣いているイーリスを見下ろした。
年齢的には恐らくモニカと同じぐらいのはずだが、中身は昔と変わっていないようだ。随分と長い髪の毛を視界から退けつつ、グレンは彼女の背中をおざなりに摩った。
「おい、熱あるなら大人しく」
「グレンだ、夢じゃなかった……」
感極まった涙声に、過去の記憶が通り雨のように蘇る。
イーリスは、グレンがあの教会を飛び出す数ヶ月前に、どこかの貴族に引き取られた。貰い手が現れて良かったと胸を撫で下ろすシスターとは真逆で、本人はちっとも嬉しくなさそうだったことを覚えている。
いや、それどころか泣いて嫌がっていたような。
当時はグレンも幼かったがゆえに、しがみついて離れない少女を戸惑い気味に宥めることしか出来ず。養親に手を引かれ、何度も縋るようにこちらを振り返る姿を、果たして自分は最後まで見送れたのだろうか。
「……イーリス」
新しい家族の元へ行ってしまったイーリスを心配する反面、昔は羨ましく思っていた。彼女は自分と違って、他人に求められる存在なのだと不貞腐れたことだってある。
全ては過去のこととはいえ、幸せになったはずのイーリスが泣いている姿は、忘れていた自己嫌悪を再び思い出させた。
グレンは鬱屈とした気分を溜息と共に吐き出しつつ、熱っぽいイーリスの体を抱き起こすと、そのままベッドの縁に座らせる。ついでに彼女のケープを広げて頭から被せてやれば、赤く腫れた瞳がぱちぱちと瞬いた。
「相変わらず何か被ってないと落ち着かねぇのか? 外で目立ちまくってたぞ」
「……え……外……?」
「昨日、市場ですれ違った」
「えっ!?」
ショックを受けた様子でイーリスが声を上げる。
「そんな、全然気付かなかった……! グレンは私のこと気付いてたのっ? なのに声かけてくれなかったの……?」
「いや、まずお前だと思わなかった。十年以上経ってんだから無理ねぇだろ」
「十年……」
イーリスは酷いと言わんばかりに涙を滲ませていたが、そこで改めてまじまじとグレンの姿を眺めた。手や肩幅、それから背丈に至るまで隅々まで観察しては、じわりと顔に紅葉を散らす。
「ほ、ほんとだね。グレン、大人になったね」
「ああ、お前も気付かなかったからおあいこだ。──それで」
どこか落ち着きのないイーリスを仰向けに寝かせたグレンは、自身もベッドの縁に腰掛けた。
「何を一人で走り回ってた? 昨日も今日も」
「……」
「教会に逃げ込むぐらい不味い状況なのか」
イーリスは言葉に詰まっていたが、その沈黙こそが肯定を示しているようなものだった。
この大陸、とりわけカレンベル帝国において教会は保護区に該当する。保護区とはつまり、罪人や不当な疑いを掛けられた人間が、一時的に身柄を保護してもらえる場所を指す。保護区に逃げ込んだ人間は、如何なる理由があろうとも拘束を受けないのだ。
この制度は元々、アストレア神聖国が帝国から分裂する以前に定められたもので、光の神々を祀る空間で殺生や諍いを許してはならないという項目から派生したと聞く。
過去に、グレンのような盗賊が金品を奪った足で教会に逃げ込み、そこの司祭から教えを説かれるうちに改心してしまったなんて少々馬鹿げた実話もあるが──まさかイーリスが悪事を働いて保護区に来たとは思えなかった。
「あと、それ刺青か?」
グレンが先程から気になっていたのは、イーリスの額にある親指の爪ほどの印だった。
幼い頃よりも更に短く切った前髪は、彼女の白い前額をすっかり露わにしており、そこに刻まれた不可解な刺青もよく見える。
小さな印を指摘されたイーリスは、ハッと泣きそうな顔をしてケープを目深に被ってしまった。
「……イーリス。お前、引き取られた家で何された」
問いかける声に、意図せず怒りが滲む。
それは勿論イーリスに対してではない。強いて言うなら、何もせずに彼女を見送った自分自身に対してだろうか。
ハヴェルのときと同じだ。自分にはどうしようもないからと、大人しく流れに身を任せたのだ。イーリスがあの養親を嫌がっていると、シスターに一言告げることもせずに。
「グレン……違うよ、私……あの」
イーリスは必死に言い訳を探していた。養親を庇うためか、それともグレンの苛立ちを宥めるためか、躊躇いがちな声が途切れ途切れに続く。
「教会に行こうとしたの。ここじゃなくて、昔お世話になった……」
「……シスターの?」
「うん。でも場所を覚えてなかったから、いろんな人に聞いて回ってて、そしたら……その、怖い人に追いかけられて」
思わず溜め息がもれた。イーリスのような珍しい髪色と瞳を持つ人間、それも年頃の娘が一人でほっつき歩いていたら、人売りの類いに目を付けられるのは当然だ。
教会の場所を知っているなどと嘘をつかれ、あわや連れ去られそうになったところを何とか逃げ出してきたのだろう。
「お前、確か貴族の家に引き取られたよな? 遠出するなら護衛の一人ぐらい──」
「グレンに会いたかった」
食い気味に告げられた言葉に、グレンは口を開けたまま固まった。
目の前には怯えた表情から打って変わって、林檎のように真っ赤になったイーリスがそっぽを向く。
そして次第に彼女の顔はケープの中に埋もれていった。
「……外出、許してもらえなかったから。一人で来るしかなかったの」
「家出かよ……俺があの教会で今も暮らしてるわけねぇだろ」
「うっ……! だ、だってそれぐらいしか手掛かりがなかったし、グレンに会うにはどうしたらいいか、私ずっと考えてて」
イーリスからぎゅっと手を握られるのと同時に、部屋の入口に誰かの気配が現れる。
司祭が戻ってきたのかと思いきや、そこに突っ立っていたのは見慣れた銀髪の乙女だった。
唐突に訪れた沈黙。
モニカは曖昧な笑みを浮かべたまま、グレンとイーリスを順に眺めると、白々しい素振りで口許を覆った。
「…………グレン、私という雇い主がいながら……」
「何だその言い方は。おい、待て、ドア閉めるな、おい!」




