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からかい、否、鮮明な侮蔑を乗せた艶やかな声だった。
それは決して実の兄をそっと窘めるような語調ではなく、鬱陶しい罪人を肥溜めに蹴り落とすような厳しさが宿っている。
辺りの空気を瞬時に凍て付かせる喋りは、今までに見たどんな王侯貴族にもない威圧感をもって木霊した。
「……な……シャ、シャーロッテ……!」
怯えを表した声が聞こえてくるまで、グレンはうっかりマティアスの存在を忘れてしまっていた。
それぐらい、静かな声の主──大公妃シャーロッテ・エストマンの存在感は異常なものだった。
これが悪女と呼ばれる所以かと思いきや、そろりと岩陰から顔を覗かせたグレンは、実際に彼女の姿を見てハッと目を見開く。
「ごきげんよう、兄上」
白皙の面に濃く挿された口紅。後ろ頭で結わえた光沢のある淡い金髪。
そして──右目を覆う、黒い眼帯。
扇のように立てた襟から伸びる漆黒のマントを軽く払い、シャーロッテはにこりと小首を傾げた。
「せっかくお会いできて嬉しいですけれど、さっさとお帰りになって?」
用件を尋ねようともしない妹に、マティアスはわなわなと肩を震わせる。
シャーロッテの振舞いが心底気に食わないのだろうが──平民のグレンから見ても、大公妃は十五年も幽閉されていたとは思えぬほど堂々としており、王太子の座に固執するちっぽけな男とは比にならない。
マティアスの強張った眼差しには、自身を凌駕する権力への嫉妬と憤怒が入り交じっていた。
「くっ……この裏切り者が……!」
思わず、といった具合にこぼれでた言葉。
すかさず咎めようとした騎士たちを制止し、シャーロッテは柔和な笑みを浮かべたまま兄に歩み寄った。
「裏切り者? もしかしてわたくしのことを仰っているの?」
「肉親を捨てて帝国に擦り寄った者を、裏切り者と呼ばずして何と呼ぶ!」
「肉親!」
そのとき、シャーロッテがとびきりの冗談を聞いたとばかりに快哉を叫ぶ。
「わたくしに王妃殺しの罪を着せ、十五年も塔に閉じ込めた者どもなんぞ肉親ではないわ! わたくしの訴えを無視し、裏切り続けたのはそなただろうに、マティアス!」
怒りとあざけりを孕んだ声が、林全体を震わせる。対峙するマティアスがごくりと唾を飲み、閉口するのも無理はなかった。
しかし召喚した風の聖霊までもが怯み、道筋をたゆませたことにグレンは驚く。
(あの女、やっぱり──)
そのとき、獲物を射殺さんと見開かれた左目が、不意にこちらを向いた。
「!!」
まさか気取られるとは思わず、とっさにモニカの頭を掴んで岩陰に隠れる。二人が息を殺して固まっていると、しばらくしてシャーロッテが口を開いた。
「……クラウス様に報告しておかなくては。メーベルト家がまた勝手な行動を取っていると。今度は国王の権限も狭めることになるかもしれないけれど……自業自得ね」
「ち、父上は何の関係も──」
「王太子を名乗るならば、己の行動に相応の責任をお持ちなさい。例えそれが近々失われる地位だとしてもね」
ああ、それと。
シャーロッテが扇をぴしゃりと閉じたときだった。
「……ま、マティアス殿下っ!」
「何だ、静かにしろ」
「お、お召し物が燃えています!!」
「はっ?」
間の抜けた顔で振り返り、つと自身の上着の裾を見下ろしたマティアスが、そこで揺らめく炎を認めては悲鳴を響かせる。慌ただしく護衛がそれを脱がしたものの、土をかけても上着の火が消える気配はない。
どよめく彼らを笑いながら、シャーロッテはドレスの裾を持ち上げ、躊躇なく靴裏で上着を踏み始めた。すると不思議なことに、何をしても治まらなかった火がみるみるうちに小さくなり、やがて微かな煙を残して消えてしまう。
「あらあら大変! もう着られませんわね……でもちょうど良かった。こちらをお預かりすれば、兄上が帝都に向かっていたことが証明できそうね」
きゃらきゃらと笑声を上げる大公妃を前にして、マティアス率いるレアード王国の面々はすっかり腰が引けていた。
今、マティアスの上着を遊び半分に燃やしたのは他でもないシャーロッテだ。
召喚の呪文も何もなかったが、確かに聖霊の気配が辺りに充満している。一体どんな手を使ったのかとグレンが眉をひそめた直後、ぼろぼろの上着を騎士に拾わせた大公妃が手を叩いた。
「さあ、母国へお帰りなさいな。あまりにもちんたらしているようでしたら、追手に捕らえさせて強制送還して差し上げますけれど」
「な……追手だと⁉ 私を罪人扱いする気か⁉」
マティアスの問いを一笑に付したシャーロッテは、「まさか」と困ったようにかぶりを振る。
そして。
「羊を小屋に戻すには犬が必要だろうて」
嘲笑とともに大公妃が漆黒のマントを翻せば、傍に控えていた帝国兵が一斉に槍を構える。旗色悪く後ずさったマティアスは、悔しげに歯噛みしながらも帰国を承諾した。
血のつながった妹へ向けるものとは思えない、剣呑な眼差しをそこに残して。
王子一行が追い立てられるように引き返していく様を一瞥するに留め、シャーロッテがゆっくりとこちらを振り返った。
「……さて、そこに隠れている鼠よ。出てくるがよい」
やはり完全にバレていたらしい。岩陰に潜んだままモニカと顔を見合わせ、グレンはゆっくりと手を挙げる。武器を持っていないことを示しつつ腰を上げれば、大公妃の柔和な──それでいて一切の隙を見せぬ眼差しが彼を迎えた。
長い睫毛に縁取られた瞳が、つとグレンの隣へと差し向けられる。そこには同じように両手を挙げたモニカが、いつもの笑みを携えて立っていた。
「そなたらは?」
「お初にお目に掛かります、パラディース大公妃殿下。私はシュレーゲル伯爵家のモニカ・フェルンバッハと申します。どうか、私どもに申し開きの機会を与えていただけませんか」
「シュレーゲル……レアードの?」
モニカの挨拶を受けるや否や、シャーロッテがぽつりと呟く。しばし思案げに視線を宙に投げていた大公妃は、やがて腹の読めぬ顔でモニカの願いを聞き入れたのだった。
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