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空の青と森の翠をまぜて、ゆっくりと流し込んだかのような海──ロジタ湾の景色はいつ見ても穏やかだった。
がたがたと揺れ動く馬車の中、ちらりと視線を持ち上げてみれば、門代わりの洞窟に「ようこそシーランへ」と記された錆びた鉄看板が吊るされている。
あの看板をもっと綺麗なものに差し替えてはどうかと言われたとき、反対して良かったと心から思う。あれは、元は小さな漁村でしかなかったシーランが、観光業に力を入れ始めた時期に飾ったものだと聞いた。ゆえにつたなく、見映えのよいものでは決してないが──シーランの歴史を知るのに、あれほど適した看板はあるまい。
少し寂れた印象を受ける洞窟を抜けたとき、視界一面に広がるパステルカラーの街並みと海の組み合わせは、何物にも変えがたい感動を客人に与えてくれると好評だった。
「失礼いたします、大公妃殿下。お伝えしたいことが」
だが今日はいつもと様子が違った。
洞窟に少し入ったところで馬車が止まり、護衛の騎士が馬を寄せる。
「街外れのほうに素性の分からぬ集団がおりましたので、調べさせたところ……」
若き騎士はこちらを気遣うような視線を寄越した後、小さく耳打ちをした。
「……彼らの目的は?」
「それはまだ何とも……ひとまず妃殿下はこのまま別邸にお急ぎください。あれは我々で対処」
「いいえ、大丈夫よ。わたくしが行きましょう」
「え⁉ し、しかし、あっ」
うろたえる騎士にくすくすと笑いながら、閉じた扇を軽く振る。すると向かいに座っていた侍女がすぐに腰を上げ、馬車の扉をこんこんと叩いた。
外側からゆっくりと開かれた扉から、眩しい水面の光と潮風が舞い込む。馬から降りた騎士は気乗りしない表情で、渋々と手を差し出した。
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「──……おい、違うじゃねぇか」
揚陸作業の真っ最中な船の陰から、グレンは何とも渋い顔で呟く。ついでに隣の頭に外套のフードを深く被せ、自身の後ろに隠しておいた。
「意外と追い付くのが早かったですねぇ……」
再び彼の背中からひょこっと顔を覗かせたモニカは、船着き場から少し離れた林に目を凝らす。そこにはつい先日、トゥルヤ公爵邸で目撃した豪奢な馬車が、茂みの中に隠されていく光景があった。
扉に刻まれた紋章は布で覆い隠されているが、あれは──間違いなくレアード王室の馬車だ。
「マティアス殿下、エクホルムさんに半殺しにはされなかったみたいですね。残念です」
「いっそのこと不慮の事故で足でも折ってもらったほうがいいんじゃねぇか。二度と動き回れねぇように」
「まぁ! 不慮の事故、ステキな響きですね」
きゃっきゃとはしゃぐ様子を見るに、モニカはもう王族への不敬だとか何だとかは頭から消えているらしい。
とは言えマティアスの護衛団には当然魔術師も在籍しているはずなので、不慮の事故を装うには少々無理があるだろう。ここは大人しく身を隠してやり過ごすのが賢明だ。
「どうせあいつら、シーランでおまえを捜すつもりだろ。大公妃が来るまで隠れて──」
「あっ、待ってくださいグレン。どなたか話しかけてますよ」
モニカの指した方向を見ると、シーランの玄関口でもある洞窟から数人の騎士が現れた。騎馬にまたがった彼らは、怪しい集団──マティアス王子の馬車を囲うように布陣する。
よくよく見れば、その手にはすでに抜身の剣が握られている状態だった。
「何だ? シーランの衛兵か」
「いえ……もしかすると……グレンっ、もう少し近くに行ってみましょう!」
「はあ⁉ おい待て!」
船の陰から飛び出したモニカは、ふらふらと軽い足取りで林の方へと向かってしまう。時おり船着き場の柱やら柵やらに触れているが、まさかそれで身を隠しているつもりだろうか。いっそのこと真っすぐ走れ、丸見えだ。
下手クソな隠密行動を見ていられるはずもなく、グレンはすぐに彼女の後を追っては細い腕を引っ張った。背の高い直線的な木々が植わった林に素早く駆け込み、茂みの手前にモニカを座らせる。
「──光よ、天翔ける薫風よ」
そうして小声で風の聖霊を召喚すると、林の奥から微かに聞こえるだけだった双方のやり取りが鮮明に届き始めた。
「……、……の真似だ! 我々に……て、武器を……とは!」
「まぁっ、マティアス殿下の声ですね」
「静かにしろ」
相変わらず魔術に興味津々なモニカの口を手で塞ぎ、グレンは指輪を回しつつ意識を集中させる。辺りに散らばった聖霊をかき集めれば、次第に声を運ぶ道筋が強固なものとなっていく。
「速やかに帝国領内から退去を。あなたがたは自由に帝国に出入りできる身分ではありません」
「誰の許可を得てこんな真似をしているのかと聞いているのだ。一介の騎士風情が王太子である私の進路を妨げるなど……!」
まだ自分のこと王太子って言ってる、とモニカが手の内側でふがふがと不満げな顔をした。
それからしばらくマティアスと帝国騎士の応酬、いや不毛なやり取りが延々と繰り返され、少々退屈さを感じたグレンは欠伸をしてしまう。
話の通じない相手に試みる説得ほど、時間がかかるものはない。
「……ねぇグレン」
「あ?」
先程よりもぐっと声を抑えたモニカが、鞄の中からごそごそと何かを取り出す。シーランの大通りで購入したであろう小さな包みを開くと、香ばしい匂いのサラミが出てきた。
「美味しそうだから買ってしまいました。食べますか?」
「自分で探りたがった癖にもう飽きたのかおまえは」
「グレンだって暇そうではありませんか。カレンベルの塩で作られたサラミは絶品と聞きましたよ。スパイスも独特で……ところでどうやって食べるんですか?」
「齧れ」
モニカが目を丸くして円筒状のサラミを見詰める。「切ってもいない肉をかじる……?」と戸惑っていた彼女は、意を決して包みをちょっとだけ剥がし、がぶりと齧り付いた。
今もなおマティアスたちがやかましく言い争っている傍ら、黙々と咀嚼していたモニカはやがて相好を崩し、瞳を輝かせる。
「まぁ美味しいっ、塩っ気が強いですけどハーブの香りが癖になりますね。はい、グレンもどうぞ」
「いや要らな──」
拒否する前にサラミを口に突っ込まれ、グレンはその食欲を掻き立てる香りにあっさり負けた。腸詰め特有の弾力のある食感と、しっかりと味付けされた塩気。酒飲みがカレンベル帝国の酒場を絶賛する理由がよく分か……いや待て、サラミに舌鼓を打っている場合ではない。
暇を持て余した雇い主につい流されてしまったグレンが、運ばれてくる声に再び耳を傾けたときだった。
「──いい加減になさいな、兄上」




