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心臓は未だかえらず  作者: みなべゆうり
10.しるべを新たに

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10-5

『──ウーイル、ウィスカ、ティーナ、グィー』


 聞き慣れない単語を連ねた唇が、穏やかに笑む。

 遊ばせた指先にひらりひらりと舞い降りたのは、宙に浮かぶ花弁に似た何かだった。

 それが己の意思を持って動き、踊るように揺らめいていることに気付いたなら、彼の紡いだ音が単なる子守歌の一部でないと知る。


『グレン、こいつらの名を人前で口にするんじゃあないぞ』

『……何で?』

『見ず知らずの人間に、自分のことを詳しく知られてたら気持ち悪いだろ?』


 質問に答えているようでその実、見当違いの答えを寄越す横顔に首をかしげた。

 太くカサついた人差し指に鼻を押しつぶされたグレンは、頭を振ってそれを退ける。反動でごろんと後ろに転がってしまえば、笑い声と大きな手に抱き起こされた。


『でも、こうしてたまに呼んでやるとな──』


 黄金に紅、瑠璃に翠。四つの光が満点の星空へと打ち上がり、大輪の花のごとく弾け散る。


『わ……』


 美しい星々の欠片が、地上を目指して落ちてきた。ゆっくりゆっくりと回転して、白砂と見紛うほどの細やかな軌跡を残して。

 誘われるように両手を差し出せば、やわい皮膚に光が溶け込んでゆく。雪どけを見守るつもりで動かずにいると、頭上を照らしていた光も次第に弱まった。

 いつもの夜が再来する頃、膝を貸していた男がグレンの両脇を軽々と抱き上げる。


『グレン、こいつらとは仲良くするんだぞ。きっとおまえを助けてくれる』

『ハヴェルは助けてくれない?』

『俺? 俺は大前提だろうが──話聞け、別にいいですってか、おい寝るな!』


 尋ねた直後に寝たフリをすれば、すぐさま金髪を掻き混ぜられた。

 男の愉快な反応に笑いをこぼしたとき、グレンはふと両足に痛みを感じて呻く。強張った手で男の肩にしがみつき、感覚のない爪先を睨み付ける。そんなことをしたって激痛が和らぐわけではないと知っていても、他にやり過ごす方法が見付からないのも事実だった。


『また足か? 医者に見せた方がいいかねぇ……いや……──ウィスカ、力を貸してくれ』


 額から、手のひらから、背中から。噴き出す汗は留まることを知らなかった。苦しむ少年を宥めながら、男が淡い青色の光を呼び寄せる。分厚い布に包んだ氷を押し当てたような、仄かな冷たさが足を覆う。乗じて温かな手が足首を掴み摩れば、ようやく呼吸が落ち着いてきた。

 肌に張り付いた金髪を後ろへ流し、その顔色を確かめた男がほっと息をつく。


『治まるのは早くなってきたな。明日は宿でゆっくりするか!』

『……ハヴェル、依頼があったんじゃないの……』

『んなもん適当にやりゃあ良いんだよ。あとは納品だけだしな』


 また依頼主から怒鳴られるよ、と途切れ途切れに伝えれば、男の朗笑が夜空に木霊した。そうして足に響かぬようグレンを抱えると、いつものように歩き出す。

 広い肩にしがみつき、荷物のように運ばれることに不満がないわけではない。本当は男の隣や後ろをついて歩きたい。足裏を押し返す柔らかな土の感触も、風を切って走る心地よさも、グレンはまだ知らなかった。


『グレン』


 不貞腐れていることを察してか、男の声が耳元で響く。


『おまえ、すぐ喋れるようになったじゃねぇか。魔術もちょっと使えるようになってきたし、それも気付いたらなくなってるって』

『走れるようになる?』

『なるさ』


 ──何のために時間が進むと思ってんだ。グレン。



 ◇◇◇



 夜空はすっかり紺碧に移り変わっていた。

 燦々と注ぐ陽光を透かし、色を濃くした木立の影が揺れ動く。昨晩よりも風が強いのか、一つも動いていないにも関わらず、視界が明滅を繰り返した。


「……?」


 ひとまず、寝過ぎたということだけは分かる。

 グレンは鈍痛を訴える頭を摩りながら、固まった体をぐぐっと伸ばした。

 昨晩のうちに風の聖霊を森の周囲に漂わせ、マティアス王子の追手が来ればすぐに知らせるようにはした。何も言ってこないところを見ると、幸い異変はないらしい。

 ……とは言え、これほど深い眠りに就くつもりは全くなかった。


(またハヴェルの夢か……いや)


 あぐらをかいたグレンは、自身の右足首を掴む。試しに力を込めてみても、それ以上の痛みが生じることはない。幼い頃、あれほど苦しめられた痛みだというのに、その感覚はもう思い出せないほど霞んでしまっていた。

 そしてついさっき、夢の中で間近に感じていたハヴェルの声や冷えた夜の空気も、やはり同様に遠ざかっていく。一抹の憂愁を覚えたものの、グレンは深呼吸をすることで気持ちを切り替えた。


「あ! 起きましたかグレン!」


 見計らったように明るい声が掛けられ、そういえば隣に転がしたはずのモニカがいないことに気付く。振り返ると同時に茂みが割れ、旅装に身を包んだ銀髪の乙女が姿を現した。

 その手には濡れたハンカチが握られており、ぼたぼたと雫を落としている。近くで小川でも見付けたのだろうかと思っていれば、べしゃっと顔面にそれをぶつけられた。


「っぶ」

「もう、フーモの街でもそうでしたけど、意外と眠りが深いですね。私、何度も起こしたんですよ?」

「いや何で今これ投げたんだおまえ?」

「寝汗でお顔がべたついてるかと思って」

「せめて一回ぐらい絞れ」


 たっぷり水を含んだハンカチは存分にグレンの顔を濡らし、それだけでは飽き足らず服までビシャビシャにしながら彼の手元に落ちる。川の水を直に掛けられたような有様で、グレンは溜息をついた。

 すると、近くまでやって来たモニカがハンカチを拾い、言われた通りに軽く絞りつつ彼の顔を覗き込む。


「……嫌な夢でも見ましたか?」

「あ?」

「呼吸が乱れていたんです。汗も凄くて……」


 モニカは控えめな手つきで、グレンの額に滲む汗を丁寧にハンカチで拭う。

 不意に訪れた沈黙の中、鳥のさざめきを遠くに聞きながら、彼女がせっせと手を動かす様をしばし眺める。

 モニカは魔術で誰かを癒すことなど出来ないし、こうして他人の世話をすること自体も不慣れさが拭えない。にも関わらず、不思議なことにその姿を見ているだけで、少し頭痛が和らいだ気がした。


「……あの、聞いてもよろしくて? 心臓の異変はエクホルムさんの武器が原因だろうなとは思いますけど、もしかしてグレン、他にも病気とか、悪いところとか……」


 腹を割って話したとはいえ、昨日の今日だ。躊躇いがちに、ちらちらと反応を窺いながらモニカが体調を気遣う。

 どことなく、教会にいた人見知りの少女を彷彿とさせる仕草に、グレンは知らずのうちに苦笑をこぼしていた。


「ほら、たまに眠りも異常に深いですし、あっ、それに頻繁に頭痛を堪えていませんこと? こめかみの辺りを押さえて……」

「よく見てんな」

「え? 人を操……人と信頼関係を築くために観察は基本ですからね」


 モニカは笑顔のまま、しれっと物騒な物言いを訂正する。

 だが常々感じていた彼女の探るような視線は、やはりグレンの些細な仕草も記憶していたようだ。

 察しの通り、グレンはよく頭痛に襲われる。大半は軽いものだが、最近は聖霊や暗黒の影響を強く受けたのか、悶絶するような痛みもしばしば見受けられた。これが昔の──あの肉体が裂けるような、途方もない激痛の名残かどうかは定かではないけれど。

 無意識のうちに手足へ視線を移動させていく間に、一通り汗を拭き終えたモニカがハンカチを引っ込めた。


「まだ体調が優れないなら、出発はもう少し休憩してからでも…………?」


 身を乗り出したままだったモニカの肩を掴み、軽い力で引き寄せる。よろめいた彼女がこちらに手を伸ばしたのを良いことに、そのまま華奢な体を腕の中に閉じ込めた。


「……グレン?」


 鼻腔に広がる仄かな甘い香りは、肩や背中にかかる銀髪から漂っているようだった。ラトリアの残り香かとも思ったが、これは彼女自身が放つものかもしれない。

 細い毛を退けて白い耳殻に鼻を擦り寄せれば、夢の中でハヴェルの腕に抱かれていたのと同じ感覚に襲われる。寝起きの気怠さがゆっくりと抜けていったところで、次第に意識も覚醒してきたグレンは、大人しいモニカの頭に顎を乗せて──。


「病気だ」

「はい?」

「何でもない」


 ハッとわれに返った彼は、弾かれたように抱擁を解いたのだった。


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