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心臓は未だかえらず  作者: みなべゆうり
10.しるべを新たに

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10-4

 ジェセニアの時と同じだった。その萎んだ声は自らの傷を抉る、こぼれた刃のようで。使い古されたそれを腹に突き立てるのは、両の指では到底足りぬ数に及ぶのだろう。

 視線から逃れるためか、頭を傾けたモニカは静かな声で語った。


「……お母様は病弱な自分の後を任せられる、地図の守人が欲しかった。お父様はそれに応じただけで……私を特別に望んだわけではありません」


 両親の結婚には愛などなかったと、彼女は言いたいのだろう。聖遺物という特殊な事情が絡んだがゆえの、必然的な出来事だったと。

 エッカルトが決して感情を露にしないことも、幼い娘の不安を煽る材料だった。


「お母様が亡くなったとき、お父様は屋敷にいませんでした。私は一人でずっと、お母様の死に顔を見て泣き続けました」


 当時は街道の整備が難航していたせいで、父の仕事が多忙を極めていることは理解していた。娘のそばにいてやれなかったのは仕方のないことだと、モニカは苦笑混じりに言う。


「……それから一年と経たずに、お父様は再婚しました。私、とてもビックリしてしまって……知らない女にお母様の部屋を使わせるなと、初めて癇癪を起こしたんです」


 だが、泣き喚くうちに気が付いた。

 父はもしかして、初めから母ではなくこの女と結婚したかったのではないか。だからこんなにも早く再婚したのではないか。

 そう思うと嫌がる素振りさえ憚られ、また一人で塞ぎ込むしかなかった。

 邪魔者は後妻ではなくて、自分の方なのだと。


「それで」


 モニカの声がまた一段と冷たくなる。小瓶を握り締める手が白くなっていくのを、グレンは視界の端に留めたまま続きを促した。


「それで?」


 彼の低い声でハッとわれに返ったのか、銀色の頭が沈む。抱えた両膝に顔を埋めたモニカは、長い溜め息の後で事実を述べた。



「……知らない男が、お母様を、訪ねてきました。墓前に花を供えたいから、案内してくれと」



 その日は霧のような雨が降っていた。

 ずぶ濡れのまま現れた男を不審に思い、後妻はすぐに追い返せと言った。モニカも理由は違えど賛同し、半ばすがるように父の袖を引っ張ったが──。


「お父様はその男を墓に通したのです」


 墓に向かう男の背中を呆然と見送りながら、頭の中が真っ白になったとモニカは笑う。

 やはり母にも、父と同じように愛する者が他にいた。幼い子どもの妄想として辛うじて押し留められていたものが、事実として突き付けられた瞬間だった。


「……だから私、この役目を誰にも譲りたくなかったのです。私は、紛れもなくあの人たちの娘だと主張したかった」



 ──母が亡くなるまでの幸せな時間を、信じていたかった。



 モニカは最後にそう呟くと、ひどく疲れたように項垂れた。いつもより数段は小さく見えるその姿を一瞥し、グレンもゆっくりと息をつく。

 彼女が出会った当初から「お母様お母様」と連呼していたのも、両親への疑念をまぎらわせるためだったのだろう。何の疑いもなく愛情を享受していた頃の記憶に、与えられた役割に、彼女は必死にしがみついていた。

 モニカからすれば、大好きな父母にそっぽを向かれたも同然なのだから。


『愛情などという不安定なものを、間違っても信じてはならないのですよ』


 大都市ラトレで彼女が放った言葉も、やはり己を戒めるためのもので。

 贋物で心臓を抜き取り、その上で金銭まで用意して護衛を雇ったのも、他人への不信から来る行動だと気付いたなら、哀れみとは別の嘆息が漏れた。


 ──誰かが離れていくことを恐れ、いくつも予防線を張ろうとする姿は、奇妙なほどに自分とそっくりだった。


 誰かと深く関わること自体を辞めてしまった自分よりは、遥かにマシだろうけれど。


「ごめんなさい、グレン。あなたが師に置いていかれたと知ったとき、私は安堵を覚えました」

「……同類が見付かったからか?」

「はい。身寄りのないこの人なら、私の傍にいてくれるんじゃないかって、馬鹿なことを考えていました」


 でも、とモニカがようやく顔を上げる。ほんの少し赤くなった目許を細めて、彼女は美しく笑ってみせた。


「気付いたらまた私が置いて行かれそうになってて。慌てて解雇しようとしたんです」


 これが、グレンを勝手に巻き添えにして、勝手に離れようとした理由だと、モニカは今までの経緯を締めくくった。

 誰に癒されることもなく、捻れたまま打ち捨てられた性根が、そう簡単に治るものではないことはグレン自身がよく知っている。彼女の生き方と行いは、同様の辛酸を舐めた自分が頭ごなしに否定できるものではなかった。

 だが──。


「……父親は、別におまえのこと邪魔者扱いしてねぇと思うがな」


 こういうのは非常に苦手だ。苦手だが、言わねばならないと思った。

 しょぼくれた顔を見せられるのが面倒なだけだと己に言い聞かせて、グレンは彼女の湿った目尻を指の背で拭う。


「邪魔ならさっさとおまえを一人で外に放り出すだろ。護衛の候補をことごとく却下したのだって、まさか本気で嫌がらせだったと思ってんのか?」

「……違うのですか?」

「俺には変な親子が遊んでるようにしか聞こえなかった」

「変な親子……」


 男親──血こそ繋がっていないが、師のハヴェルも分かりづらい優しさを見せる人だった。いや、傍から見れば幼い子どもに構いたいだけだとすぐに分かるのだが、当事者にはいかんせん伝わらないのが常らしい。


「おまえが旅に出る前に、わざわざ時間を作ってたってことだろ」


 モニカが持ってきた資料を見もせずに暖炉へ放り込んだのは、目的がそもそも違ったからだろう。

 つまるところエッカルトは、部屋を訪れる長女とお茶がしたかっただけだ。


「…………お父様が、そんなことを?」

「俺の主観だ。本人がいるなら直接聞け」


 呆けるモニカの頭をぐいと引き倒し、傍らに置いてあったオレンジ色のドレスを枕に横たわらせる。そのまま有無を言わさず外套も被せたグレンは、布に埋まった銀色の頭を軽く押さえながら告げた。


「心臓は不安ならまだ持っとけ。ただし叩くな落とすな水没させるな」

「え……でもぅぶ」

「隠してある聖遺物を守ってくれそうなやつはいんのか? レアードとアストレア、どっちも牽制できなけりゃ話にならねぇぞ」


 ドレスに沈めたモニカの頭がこくこくと頷く。


「伝手とまでは言えませんが、当てなら一応あります」

「なら俺は、おまえが世間から“創生の地図”を完全に隠し切るまでの護衛だ。──分かったな、雇い主様」


 少しの間を置いて、ゆっくりと彼女が頷いた。

 それを確認したグレンは、ふと息をついて手を離す。

 火の聖霊が蛍のように明かりを添える森は、最後まで二人の会話を見守っていたようだ。ようやく彼女と正面から向き合ったことを褒めるかのように、橙色の光がグレンの前髪をさらりと撫でていく。


 ──しかしあまりにも長々と構うのが煩わしく、思いきり片手で払っておいた。



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