9-10
──王子の護衛団は果敢にも武器を構えたが、エクホルムの悪魔は彼らを呆気なく返り討ちにしてしまった。
頼もしすぎる殺人鬼が暴れている内にと、カルラを公爵家の侍女たちに預けたモニカは、屋敷の出口付近まで来たところでグレンの腕から降りる。
喧騒を遠くに聞きながら、ずいと手渡されたのはモニカの肩掛けかばん。勢いで受け取れば、グレンが正面玄関に隠していた外套も彼女に被せていく。
「……グレン」
「……」
「ヒルデさんたちは?」
「先に帝都へ向かわせた」
簡潔な返答を寄越した彼は、外套の前をリボンで雑に結ぶや否や、モニカの腕を引いて屋敷の外へ出た。
ひやりとした夜風が足元をすり抜け、真っ白な月が石畳を青く照らす。
あれほど厳重に配備されたはずの大勢の見張りは、何故だか揃って庭園の地べたに座り込み、間抜けなほど穏やかな寝息を立てていた。
「グレンが眠らせたのですか?」
答えはないが、十中八九そうだろう。
モニカも一度だけ──彼と出会ったばかりの頃、その魔術で眠らされたことがあるが、本当に一瞬で意識が消えてしまうのだ。強制的に与えられた眠りでありながら、とても心地よかったことも覚えている。
この兵士たちには目覚めたら叱責の嵐が待ち受けていることだろうが、さぞかし気持ちの良い夢を見ているはずだ。
前を行くグレンの、右手の人差し指にこびりついた血の跡を見つめていると、不意に彼が立ち止まった。
大門をとっくに越えていた二人の眼前には、公爵邸に隣接した大きな湖が広がる。細やかに波打つ水面が、街明かりの橙をまあるくぼかして煌めいていた。
その傍ら、大人しく草を食む一頭の馬。それがモニカを逃がすために用意されたものだということは、すぐに分かった。
「……おまえ、俺がハヴェルを探したがってるとか言ったな」
低く告げられ、モニカは一拍置いてから頷く。
ちらりと横を見てみたが、深く濃い緑色の瞳は、湖に固定されたまま。
「俺の心臓がおかしいだとかも言ったな」
「……はい」
先日モニカが告げた解雇の理由を並べ立て、グレンは苛立ちを逃がすように息を吐き出した。
「──おまえ、ここまでしておいて今さら善人ぶるなよ」
ぱちくりと瞳を瞬かせてしまった。
何の話だと固まっていれば、彼は吹っ切れたように指折り数え始める。
「俺の心臓叩きまくるわ、入るなっつってんのに“目覚めの森”に突っ込むわ、宝石箱は二回も取られるわ、魔術師狩り真っ最中のベラスケスに俺を連行するわ、そこでクソほど興味も関係もない内乱に巻き込むわ、おい挙げたらキリがねぇな!? とにかくおまえはどう見ても魔女だ魔女! こんな劣悪な雇用環境があるか」
「言い過ぎでは?」
「妥当だろうが! なに不満げな顔してやがる!」
グレンは途中で自分の受けた仕打ちの数々に引いてしまっていたが、呑気なモニカの相槌に対してはしっかり反発してきた。
正直なところモニカからしてみれば「そこまで酷かった?」と言いたいぐらいなのだが、彼の態度を見ていると多分そこまでだったのだろう。
あまり自覚はなかったが、振り回したことへの申し訳なさが小指の第一関節ぐらいまで芽生えたときだった。
「俺の事情なんざどうでもいいって言ったの、おまえだろ」
「!」
「それに俺も言ったはずだぞ、線引きをしろと。だからおまえは──何も知らねぇ振りして、今まで通りこき使えば良いだろうが!」
思わぬ切り返しに二の句が継げず、モニカの頭にはただ彼の言葉が繰り返し再生される。
眼前に突き付けられた人差し指を、少しばかり寄り目になって見詰めていれば、段々とグレンの鋭い眼差しが横にズレていった。
「……グレン」
「黙れ」
「まだ何も言ってません。グレン、私の護衛が嫌ではなかったのですか?」
「面倒事が嫌なのは変わらん」
「ホールに来てくれたのは? このお花は? 今まで通りで、良いのですか?」
立て続けに問い質してしまったところで、モニカはハッと口をつぐむ。彼は詮索されることが嫌いなのだ。線は越えないと約束したのに、彼と話しているとどうにもそれを忘れてしまう。
だが、あれほど護衛を嫌がっていたはずのグレンが解雇を拒むというのなら、それはつまり──。
「グレンは、まだ一緒にいてくださるのですか……?」
彼の手をそっと両手で掴み寄せ、絞り出した声は随分と弱々しかった。
だって、とモニカは誰にともなく言い訳のように思う。
グレンには大切な人間がいて、その人はモニカの元にいては見付けられない。それを抜きにしても心臓を奪った魔女の傍など、一刻も早く離れたいはずだろう。
──いつもそうだった。
これまでに接してきた人々は皆、モニカの知らない他の誰かを優先したから。
父も、婚約者も、継母も、……実の母でさえも。
だからいつか彼が自分の元を離れたがったら、そのときは手放そうと決めていた。踏ん切りをつけるまで、随分と時間が掛かってしまったけれど。
「私は、自分があなたの師よりも優先されるべき存在とは、どうしても思えません。ジェセニアでもそうでした。あなたは私のことなど見えてなかった。声すら聞こえてなかったではありませんか」
意図せず責めるような口調になり、子供じみた自分がまた嫌になる。
贋物まで使って心臓を抜き取って、見ず知らずの青年を手元に縛り付けてみたとしても、彼の大切なものまでは奪えない。何も変わらない。
──私は誰かの大切な人にはなりえないと、いい加減に諦めるべきだ。
輝かしいその席には、いつも違う誰かが座っているから。
「……で?」
「え?」
離そうとした手に握り返され、モニカはハッと顔を上げる。
そこではいつもの不機嫌そうな眼差しが、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「前じゃなくて今、俺が勝手におまえを助けてることについてはどう思う」
「……それは」
「少なくともおまえと接している間、俺はハヴェルに捨てられたときの記憶も、あの地獄みてぇな絶望も思い出さない」
「え……あの」
「おまえが“隷属の箱”を落としやしねぇか、その辺で転んで頭打って死にやしねぇか、王族の前に一人で突っ立って捕まりやしねぇか、常に考えてなきゃならんからな」
ちょっとばかし忌々しげに語ったグレンは、そこで大きく溜め息をついて、戸惑うモニカの手をぐいと引き寄せる。
他方、空いた左手でラトリアの花を深く挿し直し、囁いたのだった。
「おまえが言ったんだろ。何事も時が経てば変わる。……俺は、ろくに理由も言わずに離れていく奴を、大人しく見送るのをやめただけだ」
ハヴェルの背を追いかけられなかった幼い自分に、別れを告げるために。
だからこうして引き留めているのだと彼は言い捨てると、ふと目を見開いた。
ついで何ともやりづらそうな顰め面を浮かべ、モニカの体をさっさと抱き上げては馬上に移してしまう。
うんと高くなった視界でグレンを見下ろしたとき、モニカはようやく眦に涙がにじんでいることを知った。
「ったく」
横乗りにさせたモニカのすぐそば、木に括りつけていた手綱をほどきながら彼が言う。
「俺を解雇するって言ったかと思えば、今度は俺が自ら離れるような言い方しやがって。結局どっちだ、はっきりしろ」
「……どっちとは」
「解雇したいのかしたくねぇのか、簡潔に」
グレンはほどいた手綱を握らせて、真剣な表情でそう尋ねた。
「……」
緘した唇は、なかなか開くことが出来なかった。
言っても良いのだろうか。いいや、言うべきではない。
本当に?
彼が今ここで、見本まで示してくれたのに?
葛藤の末、モニカは答えを待ってくれている青年の頬に、恐る恐る指先を触れさせた。
「わ、たしは……。……グレンとの旅が、楽しくて好きです。だから、あなたを師の元になど行かせたくありません」
彼を解放してやれと、理性は言う。
師の元へ行かせてやれと言う。
心臓を返してやれば、体の異変も起きないのではないかと言う。
己の冷静な声には従うべきだ。判断は感情のままに下すものではないはずだ。
それでも彼が「言え」と言うなら、口にすることを許すと言うなら。
「本当は……解雇したく、ありません」
言ってしまった後、心臓が大きく脈打つ。
湧き起こった恐怖に抗えず、すぐに取り消そうと思い直したモニカは、いつの間にかきつく閉じてしまっていた瞼を押し上げた。
けれどそこにいたのは、いつもの不満げな青年ではなく。
「……初めからそう言え」
少しだけ目を丸くしていたグレンは、やがて苦笑交じりにそう言った。
彼自身もすっきりしたような、満足げで優しい声に、モニカはゆっくりと時間をかけて安堵を得る。釣られて泣き笑いのような表情を浮かべれば、対する彼は呆れ顔で付け足した。
「いや待て、俺を引きずり回して楽しいって感想が出るのもアレだな」
「……グレンはやっぱり楽しくありませんか?」
「知るか」
さすがにそこまで寛大ではないか、とモニカは肩を落としてしまったが、グレンの不自然に逸らされた瞳を見てはすぐに思い直した。
「…………ああ! 私、変わりたいので前向きに捉えることにしますね。もう少し旅を続けたいからわざわざ助けに来てくださったのでしょうか? このお花もありがとう、グレン」
「はいはいそうですどういたしまして!」
投げやりな口調で応じる彼に、モニカがくすくすと肩を揺らして笑ってしまったときだ。
トゥルヤ公爵邸の方から「何を寝ているんだ貴様ら!」と誰かの怒鳴り声が聞こえてくる。どうやら屋内から貴族が逃げ出してきたようだ。
「そろそろ行くぞ。王家の連中を撒くなら帰るより帝都に逃げた方が良いだろ」
「ええ──エクホルムさんはどうするのですか?」
「誰がアレ捕まえられんだよ。放っとけ」
無慈悲に聞こえる言葉だが、彼は何だかんだでエクホルムの悪魔と長い付き合いらしいので、無事に逃げられると分かっての発言だろう。
身軽な動きでモニカの後ろに騎乗したグレンは、存外手慣れた仕草で馬を繰る。
よくよく考えてみたら、横乗りのまま誰かに馬を走らせてもらうのは初めてだったような、などと今更な気付きを得た直後、揺れに驚いたモニカは慌てて彼の衣服を掴んだ。
「グレン、速いです、明日お尻が筋肉痛になります」
「散歩じゃねえんだよ我慢しろ」
「そんな厳しいこと言わずに、わっ」
苦情の途中で強引に抱き寄せられ、グレンの胸に凭れ掛かる。
しっかりと彼にしがみつけば幾分乗り心地は良くなったが──モニカはふわふわと跳ね踊る体の中心を押さえるように、広い肩に額を擦り付けたのだった。




