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紡がれた名前が、まるで自分のものではないような気がしたのは、それがきっと彼の声だったからだろう。
騒がしいホールの中、堂々とこちらへ向かってくる足音に振り返れば、立ち去ったはずの護衛の姿がそこにあった。
「どうしたのです、グ……」
呆けたまま彼を呼ぶ前に、視界が塞がれる。背中に回された腕と、言葉を封じるように添えられた後頭部の手が、ホールを飾るきらびやかな照明からモニカを隠す。
抱き締められていると気付いた頃にはもう、驚きよりも安堵が勝っていた。
なぜここに来たのだろう。
助けろなんて言わなかったのに。
解雇だと告げたのに。
何の関係もないのに。
疑問はたくさんあった。でも、どうでもよかった。
「誰だ貴様? 警備は何をしている。平民が忍び込んでいるぞ、摘まみ出せ!」
マティアスの鋭い声が木霊し、ホールの警備に当たっていた兵士が弾かれたように動き出す。
このままだと彼が不審者として投獄されかねないので、モニカはすぐに制止を叫ぼうとしたのだが、いかんせん拘束が強くて身動きが取れず。目の前の胸板を手のひらで叩けば、頭上からは億劫そうなため息が降ってきた。
「……私は護衛として雇われた者です。緊急事態なのでお嬢様の回収に参りました、あしからず」
「回収だと? 何を」
「ああそれと」
訝しむマティアスの言葉を遮ったグレンが、不意に腕をゆるめる。
鼻腔を掠めた甘い香りに誘われ、ゆっくりと顔を上げてみれば、はっと目を引く鮮やかなオレンジが咲いていた。
一輪の花──みずみずしく花びらを広げたラトリアに、モニカは瞠目したまま言葉を失う。
いかにも不慣れで、無骨な手は少しの躊躇いを経ると、素朴な花を銀髪の編み目に挿した。
頭の右側を彩ったそれを見詰めたまま、彼はするりと髪を撫でおろす。
「…………成人祝いです」
ならばもう少しそれらしい顔をしろと、モニカは浮かんだ文句とは裏腹に、声を上げて笑ってしまった。
社交の場でこんなにも笑ったのは初めてだ。淑女としてあるまじき行為とは分かっているが、周囲の驚く視線も今はちっとも気にならない。
露骨に不機嫌な顔をしていたグレンは、そんな彼女を見て大きく息をつく。がしがしと頭を掻いては、こちらを捕縛すべくにじり寄る警備兵を一瞥した。
「……ご機嫌のところ悪いが、そろそろ良いか?」
「はい?」
ぐいと腰を引き寄せられ、幼子のように抱き上げられる。反射的に彼の首にしがみつけば、膝裏に回された腕がモニカを横抱きにした。
「──光よ、天翔ける薫風よ」
そうして彼が呪文を口にすれば、たちまちホールの中に風が吹き荒れる。黄金に輝くシャンデリアが大きく揺れ、テーブルに並んでいたグラスがけたたましい音を立てて割れていく。
方々から悲鳴が上がる中、グレンは背後から迫る兵士を容赦なく足蹴にして駆け出した。
「おい、逃がすな! 賊を捕らえ、シュレーゲル伯爵令嬢の身柄を保護しろ!」
マティアスの声はその後もやかましく続いたが、あまりの騒がしさに聞き取ることが出来なかった。喚き散らす姿だけ眺め置いたモニカは、ふっと視界が暗くなったことで、グレンがホールから出たことを悟る。
華やかな灯りが遠ざかる様を何ともなしに見詰めていると、そこから見慣れた姿が慌てて転がり出てきた。
「ちょ、ちょっと! どこへ行くのよ⁉」
「あ……カルラ」
「お姉様っ! アストレアの神官がお姉様を捜してる! 私のところまで訪ねて来たのよ! ……っ聖遺物について、何か知らないかって……!」
異母妹は周囲を気にしながらも、必死の形相でそう叫んだ。それは何もモニカが逃亡しそうだから、というわけでもなく。
「あんな気の狂った国に捕まるより、王家の方がマシでしょ⁉ なのに何で……っ」
ああ、とモニカは目を丸くする。
妹は昔よりも遥かに賢くなったのだと、そのとき初めて実感した。
婚約者を押し付けてきた異母姉への仕返しと、アストレア神聖国という不穏因子への対抗策、未発見の聖遺物の扱い──それらを全て自分なりに考えて、片を付けようとしたのだ、彼女は。
その計画が崩れたことに焦り、モニカを引き留める様は、まるで「答え合わせ」を求めているかのようだった。
「マティアス殿下だって悪いようにはしないって約束──ちょっと止まりなさいよコソ泥ッ!!」
「グレン、少し止まってあげてください」
「あ? おまえの妹、話長ぇんだよ」
カルラとは既に面識があったのか、何ともうんざりした声音でグレンが言う。それでも少しだけ走る速度を落としてくれたので、モニカはこちらへ駆け寄ってくる異母妹にほほ笑みかけた。
「カルラ、私をマティアス殿下と引き合わせる見返りに、何を求めたのかしら?」
「えっ」
「新しい結婚相手なら、止めておいた方がいいわ。あなたをちゃんと大事に、夫人として扱ってくださるのはロベルト様しかいないもの」
それはカルラの能力が云々ではなくて、その類い希なる美貌ゆえの問題だとモニカは静かに前置く。
「少し前にね、ザイデル国王がカルラを後妻に欲しいとほざいたのよ」
「……ほ、ほざい……え? ザイデル⁉ 帝国との戦に負けた……?」
「ええ。当時まだあなたは十三歳だったのに。ちなみに国王は確か五十歳ぐらい」
カルラがぞっとした表情で自分の体を抱き締めた。このことは一切耳に入れないようにしていたから、当然の反応だろう。
モニカとて、まだ成人もしていない妹にこんな話をするつもりはなかったのだが、こうなっては致し方ない。
「王家はあなたをザイデルに差し出すつもりだったわ。あの変態国王が正式な申し入れをする前に、パラディース大公殿下が念入りに殺してくださったけれど……。いい? カルラ。マティアス王子は、平気であなたの人生を壊すような人間だと覚えておきなさい」
例えこのままモニカを手に入れたところで、王家は己の利益しか考えない集団だ。褒美と称してカルラにどんな相手を宛がうか分かったものではない。それがロベルト以上の家格を持つ人物だったとしても、カルラを蔑ろにしない保証などどこにもないのだ。
それから、と青ざめる異母妹にモニカは告げた。
「私のことは心配しないで大丈夫よ、カルラ。詳しい事情を話せなくてごめんなさいね」
「し……心配なんて、してない……」
「あら、そうでしたか。ともかく、ロベルト様のそばを離れてはいけませんよ」
ぐっと右手を伸ばし、俯くカルラの頭を撫でたところで、武装した兵士がホールから飛び出してきた。振り返れば、進行方向からも同様に人がやって来る。
前後からの挟み撃ちにモニカが少しばかり危機感を抱く一方、最も命の危険があるはずのグレンは平然としていた。
「止まれ! 武器を捨て平伏せよ!」
「シュレーゲル伯爵令嬢をこちらへ──ぶばっ」
大声で警告をしていた兵士が一人、後ろ頭を殴られて昏倒する。皆が「えっ」と動きを止めて振り返れば、そこに半端なく怪しい出で立ちの男が突っ立っていた。
暗色の目出し帽に、抜き身の双剣を携えた──。
「言い忘れてたな。緊急事態ってのは、屋敷にお立ち寄りになったエクホルムの悪魔のことだ」
グレンの気だるい説明に、一瞬の沈黙が走り抜ける。
そして次の瞬間には、大勢の絶叫が廊下に響き渡った。
「うわあああああああ⁉」
「助けて! 命だけは!」
「エクホルムの悪魔だ‼」
王子からの命令など頭から吹っ飛んだのか、兵士たちが武器を投げ捨てては我先にと逃げ出す。
当の殺人鬼は特に何の感慨もなく彼らの逃走を眺め、スタスタとこちらに歩み寄ってきた。
「モニカを手込めにしようとしている輩はどこだ。そいつだけ殺そう」
「いや待て待て待て、血の気が多い。おまえは適当に歩き回るだけで十分っつったろ」
「何を甘いことを! 女子供を道具のように扱う男は万死に値する! なぁそうだろうブランシュ!」
「フゴッ」
肩に乗せた子ブタが同意するように鳴く。その体には黒い布が適当に巻き付けられているが、仮縫いの途中だったのだろうか。
それはともかく、どうやらエクホルムの悪魔が逃走に手を貸してくれるようだ。何とも心強い味方にモニカは微笑をたたえると、今にもマティアスをなぶり殺しそうな殺人鬼に声をかけた。
「エクホルムさん、殿下を手にかけるとあなたに余計な罪が重なってしまいます。ここはどうか驚かすだけにしてくださいね」
「モニカがそう言うなら…………殺しは、しない」
半殺しにする可能性はあるということか。少々不安だが彼の言葉を信用するしかあるまい。
そうこうしている間に、先程の衛兵よりも遥かに屈強な騎士が後を追ってきた。あの徽章は──レアード王国の精鋭を揃えた、マティアスの護衛団だ。
「カルラ、あなたも早くお逃げなさい。ロベルト様と一緒にプラネルト公爵領に帰るのよ」
「え……あ」
いつの間にかカルラは腰を抜かしてへたり込んでいた。エクホルムの悪魔を見て怯えているのは明白だったが、震えたまま何とかうなずく。
「あ、あの、お姉様」
「なぁに?」
「……ご、ごめんなさい」
取り返しつのつかないことをしたような、今にも泣きそうな顔だった。久々に見る幼げな表情に、モニカはかぶりを振る。
「あなたのことを子供扱いした私がいけなかったの。ごめんなさいね」




