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ホールに足を踏み入れた途端、まばゆい光と無数の視線がモニカの全身を突き刺した。
久しぶりの感覚だ。微笑を貼り付けたモニカは、招待客の顔を軽く見渡しつつ目礼をする。それに応じて腰を屈めたのは、帝国貴族と、レアード王国からやって来た伯爵以下の貴族だろう。それ以外の──嘲笑と嫌悪を交えた視線を寄越す者は、フェルンバッハをよく思わない連中と捉えて良い。
つまり招待客のほとんどがそうなのだが……ロベルトは気付いていないのだろうなと、モニカは小さく肩をすくめた。
「お姉様、こちらです……って」
すれ違う男の絡み付くような視線をまとって現れたカルラが、人混みを抜けるなりポカンとした顔で固まる。橙色のドレスを何とも意外そうな目で上から下まで眺める様に、モニカは小首をかしげた。
「どうしたの? カルラ」
「え? ああ! その、珍しいなと思って……お姉様、こういうお色もやっぱり似合うわね!」
「まあ、嬉しいわ。ありがとう。カルラもすてきよ、そのドレス」
数あるドレスの中でもこれを選ぶとは思っていなかったのだろう。異母妹の動揺たっぷりの称賛に笑顔で対応したモニカは、給仕が差し出した葡萄酒をそっと受け取る。
濃厚な赤紫と独特な酸味を感じさせる香りから察するに、これはレアード王国で醸造された一級品だ。カレンベル帝国も酒造に関しては引けを取らないはずだが、あえてこれを選ぶ辺り、初めから最大のゲストは決まっていたらしい。ちらりと異母妹の横目にうかがってみれば、桃色の瞳がそわそわと辺りを見回していた。
「ねぇカルラ、王宮からはどなたがいらっしゃったの?」
「それは……え⁉」
葡萄酒に口をつける寸前にしれっと尋ねれば、カルラがこちらを二度見する。淑女らしからぬ所作を無言でたしなめれば、ぐっと悔しそうに唇を噛んだ。
「き、気付いていらしたのね。もう、驚かせようと思ったのに……でも、まだトゥルヤ公爵とお話しているみたい。ご挨拶はその後になりそうだから、それまでどなたかと踊ってみてはどう? 今日はお姉様と懇意になりたい殿方がたくさんいらしたのよ」
示された方を振り返れば、なるほど確かに話しかけるタイミングを窺う複数の紳士がいた。モニカと目が合うと頬を赤らめる若者もいたが、どれもこれもフェルンバッハの家督を狙う不届き者だと思うと笑ってしまいそうになった。
まあ、ここで一曲踊ったぐらいで恋仲になれると思っている輩はいないだろう。適当に受け流しつつ、王家の人間が現れる前に退場してしまおうか。旅行先で急きょ参加させられた身だ、体調不良と称しても多少は許される──。
(……あ)
ホールの扉から、化粧直しへ向かうであろう貴婦人がしずしずと出て行く。その際、隙間からチラリと見えたのは金髪の青年だった。
まだあそこにいたのかと意外に思っていれば、間に大勢の人混みがあるにも関わらず、ふと彼と視線が絡む。薄暗い廊下の壁に凭れ掛かったまま静かな眼差しを送った彼は、そのままふいと鼻先を逸らしてしまった。
やがてその場から立ち去る動きを見て、モニカは追いかけそうになった爪先を辛うじて床に擦り付ける。
(今、何を……)
無意識の行動に戸惑っているうちに、扉は閉じられた。
「モニカお嬢様、お初にお目に掛かります。私はカレンベル帝国の──」
止まっていた時間が動き出すかのようだった。気付けば近くにやって来ていた貴族の青年を見上げ、モニカはすぐに笑顔を浮かべる。
しかし。
「モ、モニカっ!」
「え」
勢いよく割り込んできた人影。頬に思いっきり口紅の痕をつけて、髪も何だか乱れ気味で現れたのは、案の定ロベルトだった。
婚約者の痴態にカルラが青筋を浮かべている傍ら、もちろん貴族の青年たちもぎょっと頬を引きつらせて絶句する。だがモニカからしてみれば、これはもはや日常的な光景というか──別に気にすることでもない。ゆえにグラスをテーブルに置き、肩で息をするロベルトの顔を覗き込んだ。
「どうされたのですかロベルト様。ぼろぼろですね」
「び、びっくりした、ここに入ろうと思ったらその、とても押しの強い女性に捕まってしまって、し、死ぬかと思った……」
「あらまぁ、ロベルト様に言い寄る女性はみんな押しが強いですけれど……。それで遅刻を?」
「はい……って、そうじゃなくて!」
気まずそうに視線を逸らしたロベルトはしかし、慌てて頬の紅を拭っては髪を後ろへと撫でつける。さぞかし強く引っ張られたであろうクラバットも締め直しては、ようやく見れるようになった姿でモニカに手を差し伸べた。
「モニカ、最後に──最後に僕と踊ってくれないか」
決死の思いでダンスを申し込むロベルトの後方、カルラが持っていた扇子を膝で真っ二つに叩き折る。皆がロベルトのとんでもない言動に釘付けになっているおかげで、幸い異母妹の剛力は誰にも目撃されなかったが、これにはさすがのモニカも驚いてしまった。
「ロベルト様……このパーティーで新しい婚約者を見付けて欲しいと仰ったのはロベルト様ではありませんか。これに応じたら、私があなたに想いを残しているように見られてしまいますわ」
「うっ、確かに、確かにそうなんだが、これは僕のその、け、けじめというか」
歯に衣着せぬ物言いではっきり告げてやると、ロベルトが苦悩の表情で頷いた。
おかしい。彼も父エッカルトから伯爵位の承継については聞き及んでいるはずだ。モニカが自ら婚約を破棄させるよう動いていたことも、とっくに気付いているはず。
──幼いモニカはもうどこにもいないと、分かっているはず。
それでもなおこんな行動をするのは、何か話したいことでもあるのだろう。モニカはため息を飲み込み、仕方なく彼の手を取った。
「あ……ありがとう、モニカ」
ふっと浮かんだ泣きそうな笑顔は、いつも自信たっぷりのロベルト・アンデではなく……過去によく見た、優しい少年の笑顔だった。
曲が始まれば、好奇の視線が一斉に注がれる。
何ともだらしない形で婚約を破棄したはずの二人が、こうして踊っているのだから無理もない。現在進行形で放置されているカルラもきっと居心地が悪いだろう。
モニカは故意にツンとした表情を作り、幼い頃から一度も踏んだことのないロベルトの足を強めに踏みつけた。
「いっ⁉ え、ふ、踏んだ? 嘘、モニカが僕の足をっ?」
「本題は何でしょう、ロベルト様。早くお話しくださいな、ダンスは久しぶりですからたくさん足を踏んでしまうかもしれません」
足を踏まれて何故ちょっと感動しているのかは謎だが、早く話さなければステップごとに踏むぞとモニカは笑顔で脅しをかける。ヒールで床を鳴らせば、ロベルトはいつになく乱暴なモニカの仕草に「ひっ」と喉を引き攣らせていた。
「ご、ごめんよモニカ。もしかしてお酒飲んだ……? ああいや、別に良いんだ。その……ええと…………成人後の初めてのダンスは僕が良いと、言ってくれたの、覚えているかな……?」
リードに合わせて左足を出しながら、モニカは唇を真一文字に結ぶ。それが不機嫌の表れだと知っているロベルトは、慌てて彼女の腰を引き寄せた。
「今更そんなこと言うなって思うかもしれないけど、僕はモニカとの約束は全部覚えてる。刺繍の入ったハンカチが欲しいって言ったことも、成人後のダンスも、モニカが楽しく過ごせるように努力するのも……母君の代わりに、そばにいると言ったことも」
「……」
「……いつからか聞いても良いかい?」
「何をですか?」
「僕を、その……嫌いになったのは」
そこで初めて顔を上げてみれば、すぐ近くにロベルトの気落ちした瞳があった。
嫌いになった理由。もしこれがカルラだったなら、すぐさま彼の浮気癖を挙げたことだろう。カルラでなくとも大体の人間がそれを原因だと思うかもしれない。
だが──モニカは彼に悪気がないことを知っていた。そしてモニカのことを蔑ろにしているわけでもない。フェルンバッハの顔に泥を塗りたいわけでもないのだ、彼は。
彼はただ、昔から人に好かれやすいというだけ。人並み以上に見目が良くて、刺々しい空気が苦手で、大抵のことは何でも笑顔で引き受けてしまうから、良くも悪くも彼は大勢の人間に囲まれる質だった。
それがここ数年になって、歳相応の女性関係に派生していったのも自然な流れだと理解している。
「モニカに段々と距離を置かれていることに気付いて、その、ちょっとだけ女の子と二人で会ったりもしたけど、それは」
「私の相談に乗る代わりにデートしろと言われたのでしょう? あと私に嫉妬してほしかったことも存じていますよ」
「何で存じてるの⁉ 恥ずかしい!」
小声でショックを受けている元婚約者を一瞥し、モニカはふと息をついた。
「私、ロベルト様を嫌いになったわけではありませんよ。疎ましく思うことはありますけれど」
「う、疎ましく……」
「ただあなたが周りからとても愛されていて、そして多くの人を愛する才能があると知って、一人で勝手に拗ねてしまっただけです」
──私とはあまりに違うから。
最後に付け足した一言に、ロベルトが急に足を止めた。
まだ曲は終わっていない。周りの者もダンスを続けている。それでも彼はいたく衝撃を受けた様子で、愕然とモニカを見詰めていた。
「……モニカ、どうしてそんな……」
「ロベルト様は私がどんなふうに見えていますか?」
「え……」
「仰っていましたね。たまには我慢せずに、我儘も言ってほしいと。お母様やお父様の代わりに僕が聞いてあげるから、遠慮しなくて良いよと」
母が病死して、ほどなくして後妻がやって来て、カルラが産まれて。
目まぐるしく変わる環境の変化に付いていけず、当時の自分はひどく塞ぎ込んでいたように思う。だからこそロベルトはいつも、モニカにそんなことを言っていた。他人に等しい後妻との距離感を測りかね、じっと我慢しているように見えたのかもしれない。
しかしそれ以降もモニカは、ロベルトに何も望まなかった。だから彼から見れば、自分はとても大人しくて、無欲で、愛してやらねばならない哀れな存在なのだろう。
数多くいる彼の、愛すべき人々のうちの、一人。
「……私はとてもワガママな女ですよ、ロベルト様。だからあなたを遠ざけたんです。聞き分けのない子どもみたいに」
彼の腕から手を離し、笑顔で告げる。
ロベルトが言葉の意味を理解し、見開いた瞳に大きな後悔をにじませたときだった。
「──マティアス・メーベルト=レアード王太子殿下!」




