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『お姉様が、違うお母様から産まれたって、ほんとう?』
刺繍のレッスンを受けている最中だった。
あどけない顔をした異母妹は、その問いが周囲の空気を凍らせたことに気付いていない。それでも姉の指先に針が刺さったことだけは分かったようで、慌てて自分の刺繍を放り投げては駆け寄ってくる。
『だいじょうぶ? お姉様、血が出てるよ』
『モニカお嬢様、手当てを』
われに返った侍女がすぐさま動き出し、針とハンカチをやんわりと奪い取った。彼らは恐る恐るこちらの顔色をうかがいながらも、手早く止血と消毒を行っていく。
その手際をぼんやりと眺めるついでに、隣でおろおろとしている異母妹へとほほ笑みかけた。
『お父様から聞いたの?』
『えっ? あ……ううん、ロベルトさまのお友達が喋ってて……』
『そう。カルラはどう思ったの?』
ソファに両脚を乗り上げてしまっていた異母妹は、そこではっとして座り直す。居住まいを正してから改めて顔を俯かせ、黙考の末に口を開いた。
『カルラがお姉様みたいに振る舞えないの、お母様が違うからなのかなぁって』
『……私みたいに?』
『うん。カルラはお勉強苦手だし、刺繍も下手だし、嫌いな食べ物は残しちゃうけど、お姉様はそんなことしないもん』
幼い妹は「良いなぁ」と言った。
刺繍のレッスンが終わる頃、そんな話題も忘れてお菓子を頬張る異母妹にクッキーを譲ってやると、やはり嬉しそうに笑って受け取った。
その数日後、完成した刺繍を手に公爵邸へ向かった。
以前と比べてここに来る頻度も減った。でもこのハンカチは渡すと約束したのだから、顔を見せる意味でもそろそろ会わなければ。
外出用のヘッドドレスを外して、侍女とともに彼の元へと足を運ぶ。途中、随分とにぎやかな部屋に気付いて立ち止まれば、扉の隙間から話し声が聞こえてきた。
『ロベルトさま、また今度お屋敷に来ても良いですかっ?』
『駄目だよ、僕との約束が先だ。お父上から聞いてるだろ?』
『じゃあそのときにご一緒させてもらうのはどう? 大勢の方がきっと楽しいわ!』
ロベルトがよく遊んでいる子女たちだった。彼らは皆、屈託のない笑みでロベルトを囲み、我先にと約束を取り付ける。その中央で少しばかり気圧された様子の人気者は、それでも笑顔を崩さない。
『あ……モニカ!』
そのとき、ロベルトが急に立ち上がる。皆の視線が一斉に扉の隙間へと注がれるのが分かった。
こちらへ駆け寄って扉を開けたロベルトは、不思議そうに背を屈めて尋ねる。
『いらっしゃい、入っておいで。ほら、前に話してた子爵家のご令嬢も来てくれたんだ』
『……』
ゆるく首を左右に振って、握り締めていたハンカチをケープの下に隠す。
『……ごめんなさい、また別の日に来ます』
『へ?』
『失礼します』
『え、あ、モニカ⁉ ま、待って、じゃあ屋敷まで送るから──』
ロベルトの申し出にもう一度だけ首を振ってから、何も渡さずに公爵邸を後にした。
困惑する侍女の声にも耳を傾けず、ただひたすら馬車に揺られて。
◇◇◇
ほうと誰かが感嘆の息を漏らしたことで、モニカは靄のかかった追憶を打ち消す。
姿見の奥に控えていたのは、どこかうっとりとした視線を寄越す数人の侍女だった。ドレスを着付ける前からこんな調子だったが、プラネルト公爵家に仕えているだけあってその手際は一流だった。モニカが静かに礼を述べると、彼女らはサッと姿勢を正してお辞儀をする。
「大変お綺麗でございます。髪飾りは真珠だけでよろしかったのですか?」
「ええ。手袋をちょうだい」
頭の形に沿って大きく編み込まれた銀髪。その随所で輝く真珠は小粒で控えめだが、ホールの眩しい照明の下ならば十分に役目を果たすだろう。
モニカは手首まで覆い隠す白い手袋をはめると、姿見に映る自分をじっと見詰めてから廊下へと出た。
すると。
「──あら、グレン。いたのですか」
護衛の青年に、解雇の旨を伝えたのが二日前の夜。あれ以降全く姿を現さなかったが、どこで何をしていたのだろう。ヒルデやリュリュに尋ねてみても「知らない」とのことだったので、一応エクホルムの悪魔にも行方を聞いてみたが、答えは同じだった。
どうせ近いうちに解雇される身だからと、市街地に赴いて遊びに興じていたとか、そんなところだろうか。レアードの大都市ラトレで最初に逃げようとしたときも、彼は解放祝いと称して酒場に行こうとしていたようだし。
モニカがそんな詮無いことを考えていれば、壁にもたれ掛かっていたグレンがようやくこちらを振り向き──盛大に顔を引きつらせた。
「はっ、ほ……あぁ⁉ おまっ……おまえ何でそのドレス着てんだ⁉」
「え?」
彼の動揺っぷりを不思議に思いながら、身にまとったドレスを見下ろす。
モニカが侍女に着付けてもらったのは、彼が指定した青いドレスではなかった。露出を肩のラインだけに留め、二の腕で絞られたふっくらとした袖が特徴的な──上品な橙色で染められたドレスだった。メインカラーであるオレンジのドレスの下、何層にも重ねられたクリーム色の裾が可憐な印象を抱かせる一方で、背中から流れる薄手のマントがそこに気品を添えている。
これほど明るい色はあまり好まないのだが、存外なかなか着心地のよいものだった。
モニカは太いヒールで支えられた靴で床を鳴らし、ひらりとドレスを翻して告げる。
「だってあなたが最初に指差したのは、こちらのドレスだったでしょう?」
「見てたのかよ!」
「いっそ殺せ」と独り言を漏らして蹲るグレンを、ついつい瞬きを繰り返して見詰めてしまう。先日もそうだったが、橙色に何か個人的なトラウマでもあるのだろうか。わざわざ目隠しまでして青色を選ぶよう訂正した理由は──と、いつもの癖で追及しそうになったモニカは、辛うじて問いを喉元に押し留めた。
「それで? もしかしてホールまでエスコートしてくださるのですか? 解雇祝いに」
「はー……くそ、口を開けば解雇解雇言いやがって……」
続けてやって来る暴言は「誰がやるか箱女」辺りだと思っていたモニカは、引き寄せられた手首に理解が追い付かず、半ば引きずられるようにしてグレンの斜め後ろを歩く。
エスコートと呼ぶにはあまりに粗末な、それでいて彼にしては随分と優しい行動に、モニカはしばらく不機嫌そうな横顔を見詰めていた。
「……どうしました? 脅したつもりはなかったのですが」
旅の間ずっと携帯していた鞄はヒルデたちに預けたため、この場には“隷属の箱”もない。つまりグレンが素直に言うことを聞かなかったとして、彼を罰する手立てはここにないのだ。
それでもなお冗談じみた言葉に応じた理由を問えば、広い背中が大きく上下した。
「……おまえ、一旦家に帰るって言ったな」
「はい」
「王家に聖遺物との関わりがバレたからか?」
「……いえ、まだそこまでは分かりませんけれど」
モニカは視線を落とし、曖昧な答えを口にする。
だが可能性としては十分にあり得るだろう。どこからか亡き母の情報が洩れ、諸々の鍵を握るモニカの行方を王家が追い始めた、なんて場合も考慮しなければならない。この件に異母妹と元婚約者がどこまで関わっているのかも、残念ながらモニカは把握できていなかった。
だから──ひとまず、ここまでにしようと思っただけだ。
母との約束も、気儘な旅も、グレンとの契約も。
当面はレアード王家への対応を、父と共に練らなければいけないから。
「大丈夫ですよ、グレン。あなたはもう解放しますから。これ以上、私の事情に付き合う必要はありません」
穏やかな声音で告げて、掴まれた手首を引き抜こうと試みる。
ふと離れた体温は、すぐに手のひらを握られたことで戻ってきた。
今度こそ驚いて硬直してしまえば、見慣れた翠玉の瞳がこちらを振り返る。
それは先日と同じ、不満げな目付きだった。
「モニカ様、お待ちしておりました」
不意に掛けられた声に、互いの視線が他所へと散る。不格好に繋がれていた手も。
彼が何を訴えようとしたのか、そろりと横目にうかがってみても、もう先程の空気は消え去ってしまっていた。
あさっての方を見る瞳に落胆を覚えてしまう前に、モニカは瞼を強く閉じる。まばたきを終える頃には気持ちを切り替えて、グレンの横を通り越した。




