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心臓は未だかえらず  作者: みなべゆうり
9.フェルンバッハの仮面

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9-5

 しんと静まり返った廊下に締め出され、グレンは暫しその場に立ち尽くしていた。

 硝子窓の外には残照によって不思議な色を宿す大きな湖と、それを囲むトゥルヤ公爵領の街並みが橙の彩りを添える。黒く染まった木々が風に揺られれば、屋内に灯る燭台までもが揺らめいた。


(は、腹立つ……)


 そんな心休まる景色とは裏腹に、今しがた一方的な解雇を言い渡されたグレンの胸中には嵐が吹き荒れていた。

 いきなり部屋に呼びつけたりドレスを選べと言ったり何事かと思えば、レアード王家の人間に捕まりそうだから家に帰るだなどと。ならもっと早い時点で帰れ気まぐれ娘が、とグレンは思わず空を蹴る。


(しかも何だと? 「ハヴェルさんを探したいのでしょう?」だと⁉)


 成り行きで拾ったコソ泥の下らない感傷など、端から興味もないくせに──いや。ジェセニアでの一件で珍しく取り乱していたことを思えば、そうとも限らないのかもしれないが。

 いずれにせよ無性に腹が立った。モニカが知ったような口でハヴェルの話題を出したことも勿論そうだが、それ以上にグレンを苛立たせていたのは、こうして簡単に感情を掻きむしられてしまう自分自身だ。この無様な状態こそモニカの思惑通りに違いないと。


「はぁー……っ」


 むしゃくしゃした気分で後頭部を掻き、グレンはチラと後方を振り返る。遠ざかった扉からは、もちろん何の音も聞こえてこない。まるでモニカそのものを見ているかのようで、また苛立ちが膨張した。

 そこで彼はピタリと動きを止めて、さらなる自己嫌悪に見舞われてしまう。


『あれほど解雇してくれと言っていたのに、嬉しくありませんか?』


 モニカの不思議そうな、探るような笑みと声が再生される。

 彼女の疑問はもっともだ。契約の終了はグレンが切に望んでいたことで、拳を打ち上げて喜ぶべき言葉だった。ようやくこの理不尽な護衛から解放されると胸を撫で下ろすべき場面だった。

 だというのに、実際に解雇を言い渡されたとき、何故だか全くもって嬉しくなかったのだ。

 代わりに湧き出たのは動揺と、怒りに似た何か。

 

 走馬灯のごとく脳裏をよぎったのは、小雨の中に消えていく師の背中だった。


 ずきりと痛むこめかみを押さえ、グレンは己の声なき主張を腹の底へと押し沈める。



「……だから嫌だったんだ」



 掠れた声で力なく呟いたとき、無音の廊下に一つの足音が響く。

 最悪の気分で視線を移せば、見慣れない女がそこにいた。

 紅赤の豪奢なドレスと大人びた化粧をまとってはいるが、歳は恐らくヒルデとそう変わらない。高めの身長とおっとりとした立ち姿も相まって、随分と貫禄のある少女だった。

 何となく、どこぞの貴族令嬢と似た雰囲気を感じ取ったグレンは、意図せず眉を寄せてしまう。


「まぁ、怖いお顔。お姉様に意地悪でもされてしまったの? 護衛さん」

「……あいつの妹か」


 げんなりとした面持ちで確かめれば、噂の異母妹──カルラがくすくすと笑いながらうなずく。

 社交界の華と謳われるだけあって、彼女の美貌は確かに並外れていた。ロベルトに限らず、蝶のように可憐なカルラを妻にと欲しがる男は数え切れないことだろう。

 ……とは言え、母親が違っても顔立ちは姉とそっくりだ。不本意ながら見慣れた心地のグレンは、類稀なる美姫を前にしても別段見惚れることもなく。寧ろ先程の出来事のせいで要らぬ苛立ちを覚えてそっぽを向いた。


「何か?」


 投げやりな問いかけに、カルラは少し意表を突かれたような顔をする。しかしそれも束の間のこと、桃色の瞳が艶をにじませてほほ笑んだ。


「お姉様が連れている護衛と聞いたから、気になっていたの。私はてっきり、学院のお知り合いにでも頼んだのかと思っていたのだけど……」


 ドレスの裾を軽く持ち上げて、カルラが軽やかな足取りでこちらへと歩み寄る。ゆるやかな螺旋状を描く亜麻色の髪が揺れると、花の香りが甘やかに漂った。


「……ねぇ護衛さん? お姉様じゃなくて私の元で働かない?」


 とん、と細い手に肩を押される。突き放すような動きをした直後、グレンの腕をそっと撫で下ろした指先がたなうらをくすぐった。

 桃色の瞳にじっと見詰められたまま、グレンは絡む右手を暫し好きにさせる。先程の誘いの意味を言外に問えば、余裕の笑みを携えたカルラの、艶めいた唇が弧を描いた。


「私、もう半年もすれば公爵夫人になる予定なの。ううん、もしかしたらもっと上の身分かもね。少なくともお姉様よりは良い条件であなたのことを雇ってあげられると思うわ」

「……もっと上?」

「ええ。興味が湧いた? あなたはここまで無事にお姉様をお守りしていたんだもの、さぞ優秀な方なんでしょう? 人使いの荒いお姉様の元で燻っているのは勿体ないわ」


 気遣うような声音は毛糸のごとく柔らかく、するりと相手の喉を絞めつける。慈愛に満ちた笑みは異母姉のそれとは異なり、相手の欲望を外へ外へと手繰り寄せる力を持っていた。

 これも同じ血が為せる技かと納得する反面、やはりその手管は些かつたなさが際立つ。グレンは鼻腔から吐息を逃がすと、応じる素振りを右手に込めつつ小首をかしげた。


「そりゃ光栄な話だな。だが──」

「え?」


 しっかりと指を絡めた手を強引に引き寄せ、呆けたカルラを後背の壁に縫い付ける。明らかな怯えを露わにした少女を見下ろし、グレンは小さく笑ってしまった。恐らくこの少女はモニカほど肝の据わった女ではない。加えて、あれほど感情を読みづらいということもなさそうだと。

 あっという間に動揺を丸出しにした未熟な華を手折るように、グレンはその白い耳にあざけりを込めた声で囁いた。


「俺が卑しい盗賊でも雇いたいと?」

「と……盗賊っ?」


 カルラの声が恐怖に裏返る。途端に抵抗しだした少女を呆気なく解放してやれば、たたらを踏んだ拍子に亜麻色の髪が慌ただしく舞う。


「な、何で賊なんか……お姉様から金をせびる気⁉」

「いやむしろ一方的に与えられた側だけどな。……ところで、もっと上の身分ってのはどういう意味だ? お嬢さん」

「ちょっと! 近付かないで!」


 誘惑作戦は早々に止めたのか、カルラがしっしと手を払う。しかし退路を塞ぐように立つグレンを見て、少女は強気な姿勢をにわかに崩した。うろうろと視線をさまよわせては、廊下に飾られた観葉植物の裏へと身を隠す。社交界の華たる威厳はどこへやら、その姿はまるで幼女である。


「あ、あなたには関係ないわよ。どうせお姉様もあなたに貴族の事情なんて話してないでしょ。ああそうだ、さっき解雇でも言い渡されたんでしょう⁉ だから怒ってたんだわ!」

「ああ⁉ うるせぇな、それ以上言うと身ぐるみ剝いで外に放り出すぞ小娘」

「いやああケダモノ! って小娘⁉ 私のこと小娘って言ったの⁉」


 プライドが傷付いたのか、カルラが憤慨した様子でわなわなと唇を震わせる。一方のグレンも図星を突かれてついカチンと来たので、大人げなく言い返してしまった。

 そんな一触即発の空気を収めたのは、廊下の奥から聞こえてくる間延びした声だった。


「カルラー? どこに行ったんだい?」

「はっ、ロベルト様」


 婚約者の呼び声に鬱陶しそうな顔をしたのもつかの間、カルラは忙しい動きでグレンを見上げる。


「と、とにかくお姉様の犬なんて辞めることね。お姉様は──自分の思い通りに動く人間しか傍に置かないの」

「!」

「はっ、可哀想な人。あなたも操り人形の一つってことよ!」


 操り人形。妙にしっくり来る表現だと、グレンは苦虫を嚙みつぶしたような顔で視線を逸らした。

 思い通りに動かない人形はモニカにとって不要なもので、早急に排すべき要素なのかもしれない。師の存在に惑わされ、予期せぬ体調不良に見舞われたグレンを解雇するに至ったのも、きっと。



「──だから私はもう、お姉様の脚本シナリオで踊らされるつもりはない」



 ふと目を見開き、顔を上げる。

 そこには不満げに唇を尖らせたカルラがいた。少女はこちらの視線など気付きもせずに、異母姉の曖昧な笑顔を思い浮かべては奥歯を噛む。


「お姉様だけ得をするなんて許さないわ。昔からずっとそう、私のやることなすこと、全部お姉様のお膳立てで得られたものだと知ってどれだけ屈辱だったか! このドレスを仕立てた店も、浮気性の婚約者も、寄って来た貴族もみんな! お姉様の存在あってこそよ!」


 自分で得たものなど一つもない──怒りと悔しさを滲ませた少女は、化粧が崩れるのも厭わずに捲し立てた。


「だから今度は私がお膳立てしてやるのよ。お姉様も、他人に自分の人生を決められる不快さを味わったらいい。……ついでに浮気野郎も一緒に捨てる!」


 最後は駄々をこねる子どものような口調で吐き捨てて、くるりと踵を返す。相手が何の発言力も持たない盗賊と知ってか、思う存分に鬱憤を喚き散らしたカルラは、大股にロベルトの元へと向かってしまった。

 廊下の角を曲がったところから、少女の猫撫で声が再び聞こえてきたが、グレンはひとまずそれを遮断して後ろを振り向く。

 閉ざされたままの扉を一瞥し、彼は深いため息をつくと、少しばかり口元を引き締めたのだった。



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