8-7
床板が激しい悲鳴を上げた瞬間、白い軌跡が一閃する。
刃を受けた者は断末魔を木霊させることなく、その場に呆気なく倒れ伏した。噴き出す鮮血が壁と天井を一挙に汚したなら、次なる獲物を捉えた悪魔の双剣が振り抜かれる。
「うっ──」
垂直に突き立てた刃で首筋を深く抉り、獲物を引き倒す要領で悪魔が跳躍した。一瞬のゆるやかな滞空を経て、立て続けに二人の頭部を蹴り飛ばす。重さを感じさせぬ動きで着地した彼は、露わになった薄色の眼球で残る獲物の数を確かめた。
最中、禍々しい影を纏う双剣は、不気味にもその装飾をざわざわと変化させて。
「な、何なんだこいつ……⁉ お頭、ありゃ一体」
「知るか! お前ら時間稼いどけよ‼」
「え⁉ お頭⁉」
怯える団員たちをよそに、真っ先に部屋を飛び出そうとしたのはキュリオだった。部屋の入り口手前で腰を抜かしている女を素通りし、肩で扉をぶち破る。何とも迷いのない敵前逃亡に、団員たちも絶望と抗議を口にしつつ後に続いた──が。
「どこへ行く」
キュリオの後頭部を掴んだのは、音もなく距離を詰めたエクホルムの悪魔だった。
いつの間にここまで、と皆が目を見開いたのも一瞬のこと。気付かぬうちに背中や腹を斬られていた者たちが、血を吐いて崩れ落ちた。ほどなくして訪れる死を恐れてか、彼らは口々にキュリオへ助けを求める。
視線を前に固定されたまま、段々と弱りゆく声を最後まで聞く羽目になったキュリオは、がたがたと歯を鳴らしながら嗚咽のような呼吸を繰り返していた。
「わ……悪かった……き、君を侮っていたようだ。許してくれ、あの子ブタはちゃんと、生きてるから」
惨めな命乞いに、悪魔が嗤う。
キュリオの後ろ髪を引きちぎる勢いで掴み寄せては、真っ赤に濡れた刃を首筋にひたりと押し当てて。
「許してくれキュリオ、俺は……ブランシュを危険にさらした人間は、一人残らず殺すことにしている」
「待っ──」
「謝れば済むと思ったか?」
耳元で静かに囁きながら、躊躇なく刃を引く。絶命したキュリオの襟首を放り投げ、悪魔はそのまま狭い通路を大股に進んだ。
やがて辿り着いた扉を蹴破っては、そこに立っていた見張りの男を一撃で斬り伏せる。にわかに騒然となる外を一瞥した悪魔は、双剣を素早く握り直したのだった。
□□□
「──……あらまぁどうしましょう」
あっという間に血腥くなった赤い部屋を呆然と覗き込みながら、モニカは心底参ってしまった。
エクホルムの悪魔がどれだけの手練れなのか、一応理解はしていたつもりだったのだ。しかし、レアード王国で目の当たりにした彼の暴れ具合は、実力の半分も出していなかったことを今更ながら知る。無論、顔を合わせるたびに勃発するグレンとの喧嘩なんて、単なる戯れに他ならない。
獲物に逃げる暇を与えず、一人一人確実に死をもたらす姿は、まさしく悪魔──否、死神の所業であった。
気付けば背中にじわりと汗をかいていたモニカは、動揺を落ち着けるように息を吐く。
「ヒルデ、あのお兄さんに双剣のこと聞かなきゃ、っていうかあの人もしかして卿の……」
「ま、待ってリュリュ落ち着いてっ、今行ったら危ないわ! 先に子ブタを探してエクホルム殿に持って行きましょうっ……モニカ殿、大丈夫ですか?」
不気味な双剣のことで頭がいっぱいのリュリュを引き留めながら、ヒルデが慌ただしくこちらを気遣う。意外にも少女たちの方が平気なようだと、モニカは苦笑を浮かべた。
「ええ、ブランシュちゃんを早く返して差し上げなくては。街の住人に被害が出てはいけません。……あの女性に案内してもらいましょう」
幸いにも悪魔の刃に掛からなかった自称ブランシュの女は、瞬く間に死んでいった男たちの死骸の傍で縮こまっている。彼らに協力したことへの後悔と懺悔を、一人ぶつぶつと唱えている最中のようだ。
「分かった、行こうヒルデ」
「ええ。確かあっちに裏口が──」
小走りに民家の裏へと向かう二人を見て、モニカもゆっくりと腰を上げる。しかしその途中で、はたと目を丸くして後ろを振り返った。
そこには依然として、鎧板の隙間をじっと見つめるグレンの姿があった。
どうしたのだろう。そういえばエクホルムの悪魔があの双剣を手にした瞬間から、一切喋っていないような。
グレンは刃傷沙汰に慣れていない自分とは違う。間近で繰り広げられた惨殺の現場に、畏怖と動揺を覚えて硬直しているとは考えづらい。モニカは逡巡の後に、そっと声を掛けてみた。
「グレン?」
反応はない。
その代わりに、吹き抜けた風が彼の金髪を微かに揺らす。
深い翠玉色の瞳は、ただひたすらに屋内を──いや、通路の奥にいるエクホルムの悪魔を見詰めているようだった。
怪訝な面持ちで彼の視線を追ったモニカは、再び鼻先を戻してはハッと息を呑む。グレンの右手が民家の壁を強く引っ掻き、爪と皮膚の間からは血が滲んでしまっていた。
「グレン、聞こえていますか? どうしたのです」
彼の手をハンカチで包みながら、壁から離す。掴む物を失った右手は、そのままモニカの手の甲に爪を食いこませた。
痛みに顔を顰めつつ、モニカは彼の意識を引っ張り戻さんと、仕方なしに宝石箱を使おうとしたのだが。
「……え?」
──何だ、この鼓動は。
すっと背筋が冷え、モニカはもたつく動きで鞄の蓋を開ける。深緑の宝石箱を掘り起こしては、ごてごてとした表面を手のひらで押さえた。
手のひらに伝わる尋常ではない動悸。まるでそれは、自身を閉じ込める贋物を突き破らんと暴れているかのようだった。
そう、心臓が己の意思を持ったような──今までにない異常な現象に焦り、モニカは咄嗟に彼の肩を揺する。
「グレン、グレン! 私の声に答えなさい!」
一体どういうことだ。エクホルムの悪魔が持つ双剣が、何か良くない影響を与えてしまったのだろうか。あの武器に、“影の精霊”──暗黒の力が宿っていたから?
だがそれなら何故自分やリュリュたちには何の異変もないのかと、疑問と不安の答えは見つからない。暗黒についても、魔術師についても、モニカは深く知らないのだから。
そして勿論、この青年についても。
ベラスケス王都で見た彼の不安げな横顔が脳裏をよぎり、ぐっと唇を噛み締める。
「グレン‼」
無視を決め込む護衛の胸倉を掴み、勢いよく額をぶつけた。
鈍い音を立てて衝突した額は、モニカ自身にも相応の痛みを跳ね返す。生理的な涙が滲んだところで、目の前にある翠玉がふっと光を取り戻した。
「いっ──だぁ⁉ お前なんっ……」
ようやく声を発したグレンだったが、文句を言う途中で大きく咳き込む。長らく呼吸を止めていたのか、彼は理解が及ばない顔で蹲ってしまった。
苦しげに噎せる姿を見下ろし、モニカはすぐに宝石箱を両手で抱える。先程の激しい動悸は鳴りをひそめ、次第に正常な鼓動が戻りつつあった。釣られて彼女の乱れがちだった呼吸も落ち着き、ほっと安堵の息をつく。
「……はぁ、痛い……頭突きなんてするものじゃありませんね」
「いや、おまっ……説明しろ説明を……! 何で頭突きなんだ」
額を摩りながら座り込めば、グレンがゆっくりと深呼吸をしつつ顔を上げた。頬はまだ少し青褪めているが、いつもの彼だ。
その恨みがましい目つきをじっと観察してから、モニカはふと肩を竦めて事情を語った。
「あなたの様子がおかしかったので何度も呼び掛けたのですけど、一切の応答がありませんでした。心臓も妙な挙動をしていましたし」
「はっ?」
「だから頭突きを。……あのまま放置していたらどうなっていたことか。感謝してくださいな」
溜息交じりに説明してやると、グレンが“隷属の箱”に視線を注いでいた。「嘘をつくな」と反論してくるかと思っていたのだが、彼自身も先程の記憶があるのだろうか。
事情を尋ねようとしたモニカは否とかぶりを振り、いつの間にか静かになった民家の周辺を見渡す。
「体調が悪いならリュリュさんに診ていただいては? 今はエクホルムさんを落ち着かせなければなりませんけれど」
「待て」
短い呼びかけと共に、腕を掴まれる。
中腰のまま見てみれば、気怠く壁に凭れたグレンと目が合った。彼はちらりと血だらけの部屋を一瞥し、ついでモニカの手の甲を見遣る。うっすらと皮が剝けた引っ掻き傷に、グレンは何やら罰が悪そうに後頭部を掻いた。
あまり見ない表情に首を傾げたのも束の間、気付けばモニカは彼の腕に引き込まれていた。
唐突な抱擁に思わず疑問符を浮かべて固まってしまえば、少々荒い手つきで外套のフードが深く被せられる。狭まった視界に入り込んだ大きな手が、モニカの額を覆った。
「──光よ、まどろみを誘う憩いの水よ」
召喚された水の聖霊が、額と手の甲にふわふわと集まる。
痛みがゆっくりと引いていく間、モニカは所在なく視線をさまよわせるしかない。何の鼓動も感じられない胸板に頬を押し付けたまま、治癒が終わるのを大人しく待った。
「……」
随分と冷たい彼の温度に、一抹の不安を覚えながら。




