8-6
エクホルムの悪魔という存在は多くの人間、とりわけ良からぬことを企てる輩にとって、実は非常に魅力的であることを本人は理解していない。
そのおぞましい戦闘技術は言うまでもなく、独特すぎる善悪の判断基準や、ともすれば幼い子ども同然の知識量しかないことを知れば、上手く飼い慣らしたいと考える者も少なくないのだ。
今回、キュリオは徹底的にエクホルムの悪魔を調べ上げたのだろう。その過程でブランシュという最大の弱点に気付き、見事ここまで計画を進めてしまった。彼が最強の駒を手に入れるまで、もはや幾許もない。
「まぁ大変。エクホルムさんが黒翼の団に属してしまったら、大陸中の貴族が根絶やしにされそうですねぇ」
「あの人そんなに凄いの?」
モニカの呑気な予想に、殺人鬼の実態を知らないリュリュがのんびりと驚く。何かと危機感に欠ける二人の傍で、ヒルデだけはいつも通りおろおろと屋内の様子を窺っていた。
「グ、グレン殿、今からでも子ブタを探した方がよいのでは……」
「……はぁ……」
面倒臭すぎる。それがグレンの正直な気持ちだった。
貴族を派手に襲って貧民から支持されるような集団の動向など、実を言えば露ほどの興味もないのだが──雇い主のモニカが貴族である以上は、この状況を看過できないのも事実で。
何故なら先程のキュリオとのやり取りで、人の言葉に左右されたり思い込みが激しかったりいろいろと不安定な殺人鬼が、他人から洗脳される可能性が出て来てしまったのだ。
今はモニカのことを恩人として見なしていても、その認識がキュリオの言葉で容易く捻じ曲げられる日はそう遠くない気がした。
──さすがに、あの青年から本気で殺しに掛かられて凌げる自信はない。
「……ブタを探すぞ。あのアホ殺人鬼が完全に洗脳される前に」
「は、はい──」
グレンがげんなりとした声で告げたとき、屋内で動きがあった。
エクホルムの悪魔を懐柔できると確信したのか、キュリオが友好的な笑顔で立ち上がる。彼は目出し帽の隙間を覗き込んでは、その肩を馴れ馴れしく叩いた。
「コンウェル侯爵を打倒するまで、君の恋人の安全を図るために手を打っておいたんだ。見てくれ」
部屋の隅に控えていた団員が差し出したのは、精緻な硝子細工。王族が被るようなティアラを模したそれは、遠目に見ても非常に美しいと分かる代物だった。
淡く透ける青を見詰めたエクホルムの悪魔が、これは何だと言外に問う。
「これはベラスケスで造られた贋物“願いの冠”……。侯爵はブタを見付けるとすぐに矢で射ってしまうだろう? それを防ぐために、君の恋人には別の姿で過ごしてもらおうと思ってね」
はて、とグレンは首を傾げた。確かにあの冠は優れた技師が手掛けた逸品だろうが、そこから聖霊の気配は感じられない。贋物ではなく、単なる美術品のはずだが──。
「……何だと……? 別の姿?」
「ふふふ、“願いの冠”を被った者は、自分がそう在りたいと願った姿になれるんだ! ほら、見たまえ!」
ぐるりと肩を反転させられ、殺人鬼は部屋の入口を見るよう促された。
そこには──街中からこの民家まで道案内をした、あの女が立っている。
垂れ目がちな黒い瞳を瞬かせ、女は紅潮した頬を両手でそっと押さえた。そう、それはまるで恋い焦がれた男をまっすぐ見詰めるような……期待と羞恥に彩られた眼差しであった。
「黙っててごめんなさい。私がブランシュなの……──ご主人様」
どこかで雷の落ちる音がした。
あらゆる動きが急停止してしまったエクホルムの悪魔を見て、キュリオは更なる言葉を重ねる。
「彼女もずっと君と言葉を交わしたいと願っていたみたいなんだ。何と健気なことだろう、君たちの愛はやはり本物だ。美しい愛に魅せられた天空神が、御慈悲を与えてくださったに違いない!」
「ブランシュが……」
「そう、君の愛に答えるため本当の姿になって……」
「ブランシュが」
呆然と名を呼んでいた殺人鬼が、突如としてその語調を荒げた。
異変に気付くのが遅れたキュリオは、顔面を片手で鷲掴みされたことでぴしりと硬直し、浮かべた笑みを恐怖に引き攣らせる。
エクホルムの悪魔はわなわなと女を睨み付け、獣のような唸り声を漏らした。そして。
「ブランシュが……ブランシュが! 強欲で低俗な人間なわけ‼ ないだろうが‼‼」
「ぶぉっ──」
目にも止まらぬ速さで腕を振りかぶり、キュリオの頭を床に叩きつける。残像すら見えるような速度と轟音に、自称ブランシュの女が声なき悲鳴を上げて崩れ落ちた。
外で様子を窺っていたグレンたちにも衝撃が伝わり、四人の髪がふわっと風に靡く。
「……いやまぁ、そうなるだろ」
余韻が消える頃、グレンは思わず呟いてしまった。
どうしようもなく人間が嫌いなエクホルムの悪魔にとって、この展開は絶対にナシだ。どれだけお膳立てされようと、経緯に説得力を持たせようと、彼が愛するのは子ブタのブランシュであって人間のブランシュではないのだから。
キュリオが致命的な悪手を踏んだおかげで洗脳からは一発で脱け出せたようだが、当の殺人鬼の怒りは治まらない。
「貴様、ブランシュは丁重に預かっていると言ったな⁉ 嘘をつけ‼ 本来の姿を歪めておいて何が丁重だ! 今すぐ戻せこの外道が‼ 俺は! 可愛い子ブタのブランシュを愛しているんだ! こんな女は知らない! 愛せない!」
「ぐ、うっ、やめ、お、お前ら! 早く取り押さえろ!」
怒鳴り散らすたびにキュリオを蹴りつけていたエクホルムの悪魔を、慌てて団員たちが取り囲む。そうして案の定、隠し持っていたナイフを引き抜きつつ彼を組み伏せてしまった。
双剣を奪われたままでは抵抗も儘ならないはずだが、エクホルムの悪魔はそれでも構わずに手足を振り乱す。
さすがに助勢してやった方が良いだろうかと、グレンが渋い顔で指輪を回そうとしたとき、不意に殺人鬼の目出し帽に誰かの指が引っ掛かる。
そのまま引っ搔くようにして剥がされ、帽子が宙を舞う。
あっと声を上げる間もなく、誰も見たことのない殺人鬼の素顔がそこに晒された。
「え」
顎まで伸びきった藍白の髪、陶器のような白い肌。密度の濃い睫毛に縁取られた薄色の瞳は、怒りに見開かれていてもなお美しさを損なわず。
突如として現れた麗しい青年に、その場にいた誰もが言葉を失ってしまった。皆の反応より一歩遅れて、青年も自分の顔が露わになっていることに気付いたらしい。剥き出しの歯に一層の憎悪を滲ませて、自らの顔を床へと伏せる。
「──見るな、見るな見るな見るな! 全員殺してやる‼」
彼が絶叫した瞬間、強い耳鳴りがグレンを襲った。
何事かとこめかみを押さえれば、静まり返っていた空間の隅で「ひっ!?」と男の震えた声が上がる。
「な、何だこれ⁉」
見ると、男の腕で殺人鬼の双剣がどろどろと溶け始めているではないか。武器は完全な黒い液状と化し、床へ落ちると同時に獣のような姿を取る。
顔も胴体も脚も、何もかもが漆黒の靄で構成された二匹の獣。
不気味な異形をはっきりと捉えるや否や、箱詰めにされたグレンの心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
音のしない胸部を無意識のうちに掴み、呆然と影の獣を見詰めていれば──驚愕を露わにしたリュリュが身を乗り出す。
「“影の精霊”だ……!」
少年の声をよそに、影の獣は俊敏な動きで床を蹴った。
得体の知れぬ化物を恐れ、団員たちは怯えた様子でその軌道から逃げる。開けた視界を真っ直ぐに跳躍した二匹の獣は、再び自身の姿を双剣へと変貌させ──美しき悪魔の両手にしかと収まった。




