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心臓は未だかえらず  作者: みなべゆうり
8.悪魔と呼ばれし男

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8-3

「──ブランシュがいないッ‼」


 またかよ。

 早朝から大騒ぎしている殺人鬼を遠目に眺めながら、グレンは深い溜息を漏らした。これで一体何度目だと肩を竦め、我関せずの態度で背を向けようものなら、背後から凄まじい勢いで足音が迫る。

 咄嗟に短剣を引き抜いて振り返れば、甲高い剣戟の音と衝撃に襲われた。


「貴様ブランシュをどこにやった⁉」

「真っ先に俺を疑うな! まずその辺探せ!」

「丸焼きにするだの串焼きにするだの言っていたくせに何を!」

「食ってねえよ‼」


 あんな肉付きの悪い子ブタ、食っても美味しくないだろうに──などと口を滑らせたら最後、確実にこちらが肉塊になりそうな気がしたので黙っておく。

 ひとまず力づくで殺人鬼の双剣を押し返し、宿場町の外を空いた手で指し示した。


「さっさと一周してこい。箱女にも聞いてみりゃいいだろうが」


 どうもあの子ブタはモニカに懐いているようだし、今朝も勝手にブヒブヒ歩き回っているだけだろう。いちいち大騒ぎして人を殺し回るのは止めろと言外に伝えれば、殺人鬼は不服そうにしながらも武器を下ろした。

 そうして何も言わずに背を向けた青年に、グレンは思わずボソッと呟いてしまう。


「……そもそも何で放し飼いにしてんだよ。首輪でも付けてろ」

「首輪ァ⁉」

「しまった」


 ぐるんと勢いよく振り返った頭部。薄色の瞳を限界まで見開いたまま、殺人鬼はずかずかとグレンの方まで詰め寄って来た。


「首輪だと⁉ 貴様っ……貴様は愛する女性に首輪をつけるのか⁉ 信じられない! 何て非人道的なコソ泥、いやクソ泥だ! 俺のブランシュを何だと思ってる⁉」

「ブタだろ」


 そう答えるしかなかったグレンに、再びエクホルムの悪魔が双剣を振りかざそうとしたときだった。


「ど、どうされたのですか、グレン殿、エクホルム殿……?」


 騒ぎを聞きつけて宿屋の扉から顔を覗かせたのは、まだ髪も結っていない状態のヒルデだった。

 怒り心頭に発した殺人鬼は、その薄紅の──子ブタとよく似た髪色を見て急激に冷静さを取り戻したらしい。先程よりも精彩のある動きで踵を返し、大股に宿場町の外へと出て行った。


「……えっ……な、何があったのです?」

「また子ブタが消えたんだと。どうせすぐ見付かんだろ」


 ひとまずヒルデのおかげで窮地を脱したグレンは、疲労感たっぷりに首を回す。抜いたままだった短剣を鞘に納めたところで、じっと注がれる視線に気付いて振り返った。


「何だよ」

「あっ、すみません」


 反射的に謝ったヒルデは、逡巡する素振りを見せてから扉を静かに閉じる。薄手の毛布を肩に羽織り直し、何やら意気込んだ様子でグレンに耳打ちをしてきた。


「あの、モニカ殿がどうしてお怒りなのか、分かりましたか……?」

「分かるわけねぇだろ。そもそもあの女の思考が分かる奴いんのか?」

「ええっ」


 昨日も曖昧に追及を躱されたことを思い返しては、面倒臭さが腹の底に蓄積していく。

 煩わしいからと深い人付き合いを避けてきたグレンに、モニカのような変わった女の扱い方など分かるわけがない。彼女がもっと単純な、それこそ将来の結婚相手のことしか考えていない貴族の娘だったなら、これほど難儀はしなかっただろうが。



 ──諦めなさいな。失ったものを求めたところで、何も得られはしません。虚しさと惨めさが増えるばかりだと、あなたなら分かるのではありませんか。



 ふと、ジェセニアで彼女が言っていた言葉が脳裏をよぎる。

 厳密には、そのときのモニカの表情がずっと頭に残っていた。

 普段は決して表に出そうとしない本音が、つい喉元までせり上がってきて、必死に押し留めているかのような──見たことのない顔だった。

 師に捨てられたグレンを故意に嘲ったのは、恐らく何かを隠すためだろう。

 今分かることと言えば、それくらいだった。


「モニカ殿が、以前おっしゃっていたのです」


 躊躇いがちなヒルデの言葉に振り向けば、淡い緑色の瞳がグレンを迎える。


「グレン殿との旅は、その……何を取り繕う必要もないから、気楽だと」

「……」

「し、心臓を取られている身からすれば疑問に思うところもあるでしょうが、決してグレン殿を蔑ろにする方ではないと私は思うのです。だから……」


 もう少し向き合ってくれ、とでも言いたいのだろうか。

 まとまりのない言葉を必死に捻り出している最中のヒルデを一瞥し、グレンは億劫な仕草で朝焼けの空を仰いだ。

 実を言えばベラスケス王国での一件で、モニカに対する印象はほんの少しだけ変わった。

 あの無慈悲な雇い主のこと、勝手にいなくなった護衛などさっさと見捨てるだろうと思っていたのに、彼女は迷わず助けに来たから。

 毒矢を受けてもなお他人の心配をする程度には、自身の怪我に関心がないことにも驚いた。普段あれほど己のか弱さを主張していたのも、ただグレンの神経を逆撫でするための方便だと知ってしまった。

 極めつけに彼女の鞄に入っている、萎れたラトリアの花など見てしまったばかりに。


 余計に分からなくなった。モニカという人間が。


 そして、そんな彼女の本心が見えずに苛立つ自分も、まるで知らない他人を見ているようで気分が悪かった。

 ヒルデがまだ何かを言おうとしているのを知りながら、グレンは少女の肩を反転させて遠ざける。


「グレン殿」


「──面倒だ」


 一言だけ低く返してやると、少女が目に見えて怯む。

 だがこれ以上モニカのことで頭を悩ませたくなかった。何の関わりも持たない他人同士であることを、自分で望んだというのに──その線を自ら超えるような真似は出来ない。

 グレンが小さく舌を打った直後、不意に宿屋の扉が開く。


「ヒルデ、起きるの早いね」

「ひゃ⁉」


 隙間からぬるっと出てきた黒髪の少年が、眠たそうにしながらヒルデを捕まえた。

 全く身構えていなかった少女が驚くのも構わずに、リュリュは素知らぬ顔で薄紅の髪も毛布の中へと隠していく。薄着で外に出たことを咎めるように頭から毛布を被せてしまった頃、ようやくグレンの存在に気付いては碧海の瞳を瞬かせた。


「グレンも早いね。……どうしたの?」

「……何でもねぇよ。ピンク髪、さっきのは忘れろ」


 半ば八つ当たりのように投げた言葉を取り消せば、毛布から顔を出したヒルデが戸惑い気味に振り向く。少しばかり気落ちした様子で頷いた少女に、グレンが瞼を伏せたときだった。



「ブランシュがいない……」

「…………」



 完全に忘れていた声が後ろから囁かれる。

 錆びついた動きで確認してみると、今にも気を失いそうな殺人鬼がそこに呆然と佇んでいた。

 グレンの脇からひょこっと頭を出したリュリュは、絶望に染まった青年を見て首をかしげる。


「ブタいなくなったの?」

「あ、モ、モニカ殿の部屋を見てきますから、待っててください」


 するとエクホルムの悪魔の暴れようを知っているヒルデが、慌ただしく宿屋の中へと駆け込んでいった。少女の背中を見送り、グレンとリュリュは再び失意の殺人鬼へと視線を戻す。

 子ブタ一匹でここまで感情が上下する人間はなかなかいないだろう。いや、彼にとっては唯一無二の恋人なのだが……。


「って待てよ、数年前に会ったときはもっとでかいブタ連れてたろ。あいつはどこ行ったんだよ」

「ブリギットのことか。彼女が他の男と交尾して生まれたのがブランシュだ」

「……え……?」


 不用意に要らぬ情報を入手してしまったグレンが頭痛を覚える傍ら、平然としたリュリュは殺人鬼のほうへと歩み寄る。

 そして。


「何か挟まってるよ、ここ」

「なに?」


 センスの悪い目出し帽の後ろ、長いスカーフの隙間には、一通の手紙が差し挟まれていた。


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[一言] エクホルムさん、業が深い。
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