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モニカ・フェルンバッハは非常に目立つ少女だった。
貴族の娘でありながら学院の入学試験を好成績で突破したことは勿論だが、最も周囲の目を惹いたのはモニカの貴族らしからぬ振る舞いだ。
扇子で口元を隠して笑う夜会の娘たちとは似ても似つかぬ大らかな笑顔。
装飾品や髪型に拘らない、こざっぱりとした身なり。
性別や身分の違いを取っ払った物腰柔らかな態度。
まるで古くからの知り合い、いや友人だったかと錯覚してしまうほどには接しやすい娘だった。
「偶然、講義で隣席になった私にも微笑みかけてくれて、数日後に控えていた試験のことまで応援してくれて、この娘は天使かと……」
確かにうざったくなるほど馴れ馴れしい性格はしているなと、グレンは死んだ魚のような目をしながら、純情坊やの熱っぽい語りを聞かされていた。
部屋の入口という微妙な場所にも関わらず、ついでに言えば廊下を通る宿屋の利用客からじろじろと見られてもお構いなしに、フォルクハルトは数年前の出逢いと胸の高鳴りを吐露する。その手はしっかりとグレンの腕を掴んでおり、この場からの逃亡を許す気配はなかった。
「けれど彼女にはすでに婚約者がいた。レアード王国の由緒ある公爵家の……だから思いが溢れないよう、私は遠くから眺めるだけに留めようと自制していたのだ」
「押してもねぇのに引くなよ」
「だというのにあの男、よりによって妹に乗り換えただと!? どれほどの美女か知らんが、残酷な行いだと思わないか!?」
グレンは耳の穴を掻きながら適当な相槌を打つ。
「はっ、もしや卒業する少し前から姿を見かけなかったのは、婚約者との不仲に傷心して……!?」
それは多分──聖遺物を探す旅のために資金集めをしていた時期ではないだろうか。
刺繍を売ったり密かに私物を換金したり、貴族であることを隠して大衆食堂の手伝いをしたりしたと、先日モニカが嬉々と語っていた。大層楽しかったのだろう、頼んでもないのに注文の取り方まで披露してきたほどだ。婚約破棄など何処吹く風である。
しかし恋は盲目とはよく言ったもので、どうやらフォルクハルトにはモニカがとっても繊細な乙女に見えているようだ。好都合だが些か腑に落ちない。心臓を物理的に奪われている身としてはいろいろ訂正したくて堪らないが、ここは涙を呑んで黙っておくべきだろう。
だがこのまま延々と話を聞いていると頭がおかしくなりそうだったので、グレンは頃合いを見て手を挙げた。
「ギレスベルガー、ちょっと、ちょっと待て。そろそろあいつが起きる。俺は外に出てるから、二人で穏便に話をつけてくれ、な」
「あ、ああ! すまない、熱が入ってしまった……ところでグレン殿はどうやってモニカ嬢と知り合いに」
「屋敷の前を通りがかっただけさ。金はやるから旅に付き合ってくれーってな。そんだけだ」
だいぶ省いたが納得してくれたようで、フォルクハルトはようやっと大人しくモニカの目覚めを待つことにしたらしい。その緊張した背中を一瞥し、グレンは密かに握りこぶしを打ち上げて退室したのだった。
──これでモニカが説得に応じて護衛役を変えれば、晴れて自由の身!
グレンとフォルクハルト、どちらが旅の護衛として適しているかなど一目瞭然。十人に聞けば十人全員がフォルクハルトを指名するはずだ。そもそも屋敷に忍び込んだ盗賊をお供にする神経がイかれているのであって、こちらとしても善意たっぷりの素晴らしい提案だったと思う。
久々に人のことを考えて行動したグレンは、似合わない労力にわざとらしく嘆息して肩を揉んだ。
「はー……いや良かった。予想より早くおさらばできたな、感謝するぜ騎士様! お幸せにな! がはは!」
グレンは人目も憚らずに大声で笑い、ちょっと気の早い解放祝いをすべく中央広場へと足を向けたのだが。
「──失礼」
とん、と後ろから誰かに衝突される。
人混みでわざとらしく肩をぶつけてくるのは掏摸の常套手段。興を削がれたグレンは、素早く背後の人物の腕を引っ掴んだ。そして手首を捻り上げようとしたところで、予想していなかった感触にぎょっと目を剥く。
(コイツ刃物突き付けてねぇか!?)
頬を引き攣らせながら恐る恐る後ろを窺ってみると、黒いローブを纏った怪しげな風貌の男──などはそこにおらず。
「不躾に申し訳ありません。お尋ねしたいことがございまして」
「不躾どころじゃねえよコレ引っ込めろ」
街中の露店でにこやかに食料品を売るような、いかにも善良な顔をした男が笑う。囁く声も柔和そのもので、グレンと同業者とは到底思えない。
財布を狙われた経験は多くあれど、ここまで直球に命を狙われたことはなかった。いま刃物の先端が狙っている場所に残念ながら心臓はないのだが、それは置いておくとして。
グレンは一つ呼吸を置き、鼻先を前に戻す。行き交う人々の群れをゆっくりと追いながら、落ち着き払った声で背後へ尋ねた。
「……何だよ。狙う相手間違えてねぇかオッサン」
「いえ、あなたで間違っておりません。シュレーゲル伯爵……フェルンバッハ家のご息女と一緒に歩いていませんでしたか?」
「初めから一人だっての。誰だ? そのお嬢さんは」
嘘をつくことには慣れているが、グレンは気だるげな表情の内側、言い知れぬ不安を覚える。
人混みのど真ん中で刃物を突き付け、表情ひとつ変えずに脅しをかける人間など、盗賊なんかより何倍も物騒だ。そんな出来れば近付きたくない人間が何故、よりにもよってモニカの行方を尋ねるのか。
不本意ながら彼女と一心同体になっているグレンにとって、これは非常に好ましくない状況だった。
……ところでここで胸を一突きにされたとして、やはり心臓にも直接ダメージが行くのだろうか。それだけが心配である。とにもかくにも、今はこの刺客をどうにかせねばなるまい。
「見間違いではなかったと思うのですが……銀髪のご令嬢です。少し前に伯爵邸から姿を消してしまったそうで」
「銀髪の……あー! そりゃお前、俺があそこの宿屋に入る前の話か?」
今しがた出てきた宿屋を指して言えば、男が「ええ」と相変わらず笑顔で頷く。心なしか刃物を突きつける力が強まったが、グレンは気にせず口を動かした。
「悪いな。その辺で引っかけた娼婦だ。今ごろ部屋で寝てるから見てきたらどうだ?」
「……娼婦? こんな朝から?」
「こんな朝から」
全く悪びれずに堂々と答えてやると、穢らわしいとばかりに男が顔をしかめた。意外と潔癖だなと笑いつつ、生まれた隙を突いて男の腕を強く捩じ上げる。
「なっ!?」
抵抗する暇を与えずに男を転がしたグレンは、仰向けになった胸を思いきり踏みつけてから人混みの中へと駆け込んだ。
「エ、エクホルムの悪魔だ!! 全員逃げろー!!」
そうして怯えを乗せた声で叫んでしまえば、一瞬の静寂を経て中央広場全体が騒然となる。
グレンを追い掛けようとした男はパニックに陥った人々の足裏に敷かれ、ついに立ち上がることはなかった。