7-8
どれほどの間、そうして暗い細道をすがるように見詰めていたのか。
途方もない寂寞に突き動かされ、ついにグレンが日陰へと踏み込んだときだった。
「──グレン」
「っ!?」
奪われた心臓が容赦なく絞られる。
視界が大きく揺れたかと思えば、糸が切れたように両膝から力が抜ける。
硬く湿った石畳に崩れ落ちたグレンは、かつてないほど激しく痛む胸部を押さえた。
空気を求めて喘ぐ肺が、自由を失った震えるばかりの手が、これは決していつもの戯れではないと主張する。
贋物の主が、確かにお前を殺そうとしたのだと。
ようやく巡り始めた思考の末、その事実に気付いたなら、ぞくりと背筋が冷える。
──同時に、自分がどんな顔をして路地を見詰めていたのか、嫌でも分かってしまった。
咳き込みながら後ろを振り返れば、“隷属の箱”を手にしたモニカが冷ややかな目でこちらを見下ろしていた。
まばたき一つせず佇む姿に、先程まで上機嫌にお喋りをしていた娘の面影はない。
「あちらに、どなたかいましたか?」
口角を上げた雇い主は、抑揚のない声で尋ねる。
吹き出す蒸気の音に紛れた声が、彼女の耳には聞こえていたに違いない。その名がグレンにとって非常に大きな存在であることも──彼の迷い子のような横顔を見て、察している。
「……いなかった、って言ったほうがいいのか?」
私情に惑わされ勝手な行動を取るような手足を、モニカは必要としない。そんな人間とは長くやっていけないから、グレンを選んで正解だったと、彼女は過去に言った。
あれはきっと嘘偽りのない本心で、今の仕置きも本気だった。
グレンはようやく痛みが引いてもなお、哀れなほどの動揺を残す胸を押さえて、溜め息混じりに項垂れた。
「殺りたきゃ殺れよ。……俺も今、自分に嫌気が差したところだ」
殺人鬼の青年に飯を奢った日だったか。どれだけ探しても見付からない師の行方に、自然と諦めがついた日。
あれ以降、グレンは師を忘れることを選択した。
何の前触れもなく捨てられた痛みも、別れの苦しみも、丸ごと記憶の底へ沈めてしまおうと思ったのだ。
それでも時折、幼い頃のおぼろげな日々を夢に見て、大好きだった声を思い出しては苛立つのを繰り返していた。
そして──今、師とおぼしき姿を遠目に見付けた瞬間、体は勝手に動いてしまった。
ハヴェル。
必死に消そうとしていた名前も、呆気なく口からこぼれ出て。
未だ過去を捨てきれない自分は、とんでもなく惨めで無様だった。
「……やはり」
しばしの静寂を破り、おもむろに近付く声。
目の前に膝をついたモニカは、何の感情も読み取れない顔でこちらに手を伸ばす。
氷のように冷たい指先は、強張った頬に触れる寸前で止まった。
「駄目なのですか。心臓まで取ったのに」
広げた五指で鳩尾をぐっと押して、モニカはひどく冷めた声で呟く。細々とそそぐ陽射しの下、暗く陰った面は青ざめているかのようにも見えた。
「……? 何……」
今にも心臓を潰されるかもしれないというのに、グレンの中に恐怖や焦りはなかった。
ただ、初めて気になった。
モニカが何を考えているのか。
母親との約束を果たすために、何故グレンのような盗賊を選んだのか。
何故、自分と似ているなどと言って笑ったのか。
何故、こんなにも──落ち込んだ顔をしているのか。
「おい、どういう意味……」
ハヴェルのことは不思議なほど頭から抜けていた。その時ばかりは、離れたくて仕方ないはずの雇い主に意識が引っ張られて、知らぬ間に細い手を掴んでしまった。
しかし、モニカはするりと、ともすれば逃げるように手を引き抜いて立ち上がる。
「諦めなさいな。失ったものを求めたところで、何も得られはしません。虚しさと惨めさが増えるばかりだと、あなたなら分かるのではありませんか」
振りかざした刃は思いのほか、弱々しくグレンの胸を刺すに留まった。
否、今の言葉は──グレンを無闇に傷付け嘲るためのものではない。
自らの腹に鋭利な言葉を突き立てて、叱りつけているような……。
「残念ですけれど逃がしませんよ。お母さまの地図を見付けるまで、あなたは私の下僕ですもの」
つと顎をなぞった人差し指は、そのまま静かに折り畳まれた。
モニカは呆然としたグレンの顔を、どこか満足げに眺めて踵を返す。彼女の背中が雑踏へ踏み入れば、止まっていた時がにわかに動き出した。
はっと我に返り、グレンはすぐさま石畳を両手で突き放す。よろめきながら立ち上がっては、後を追うように喧騒の中に飛び込んで。
「おい!!」
行き交う人々の向こうへ呼び掛けても、その乙女が応じることはなかった。
※ここまで読んでいただき誠にありがとうございます※
第7章で前半終了となります。幕間のお話を挟んだ後、少しだけ準備期間を取ってから8章を投稿する予定です。
どうぞ今後もよろしくお願いいたします。




