7-4
「……暗黒!?」
サルバドールの大きな声で、はっと我に返る。
宙に投げ出されたような浮遊感の後、自身の腰がしっかりと椅子に据えられていることを知っては、無意識のうちに溜息が漏れた。
グレンは額に滲む汗を手のひらで軽く拭いながら、困惑に包まれたテーブルに視線を注ぐ。そこで固まっている国王の隣、平素なかなか調子を崩さないモニカまでもが、目を丸くして少年を見詰めていた。
「ま、待ってくれリュカ殿。暗黒が……大昔に葬られた神だということは、知っているかな……?」
天空神を筆頭とした七柱の神々。暗黒は、彼らが千年の闘争を経て打ち滅ぼしたと言われる、影の神の呼び名だ。
それは絶対の悪であり、存在してはならぬもの。神話において、そして今日に至る天空神の世界において、暗黒は死した邪神であった。
そんな許されざるものが未だ世界に息づいていると、異邦の少年は平然と言ってのけたのだ。
「……西大陸のキーシン地方では、聖者モーセルが命を賭して暗黒を封じたという話が残っています。多分そのことかと」
「封じた……こ、殺してはいないのか……?」
「少なくとも、僕らの大陸では彼らが生きています。封じられたまま、けれど少しずつ力を取り戻してる」
半信半疑、いや全く信じられない面持ちでサルバドールが天井を仰いでしまう。ただでさえ蒼白寄りの顔色が、また一段と青ざめていた。
国王の反応を眺めたリュリュは、そのままつと視線を横へずらして尋ねる。
「暗黒はやっぱり危険なものなの? モニカ」
「あ……ええ、危険──というより、いてはならないものと親から教わるのですよ。天空神が善の象徴なら、暗黒は悪の象徴。罪を犯した者が黒衣を纏い、暗い地下に幽閉されるのも、その教えが根付いているからだと」
ふと笑みを思い出したモニカが、相変わらずの滑らかな口調で己の知識を語った。彼女を含めた東大陸の民全員が、そういった「常識」の下で生きてきたのは紛れもない事実であり、この先も覆ることがないと信じている。
勿論、グレンもその内の一人だった。
天空神と暗黒の対立、そして勝敗が産み出した不変の摂理を、老いたシスターに説かれたときから。
(……あんたが熱心に語っていた教えも、嘘になるのか)
天空神は罪なき子どもに無意味な試練を与えない。
つまるところそれは──日陰者は一生、その泥にまみれた足跡を陽の下へ晒さぬよう生きねばならないと、説いているようなもので。
幼かったグレンを励まし、苛み続けた神の教えは、脆く崩れ去るのだろう。
暗黒が生きている。
ただそれだけで。
呆気なく。
それが嘆くべきことなのか、安堵すべきことなのか、グレンにはまだ分からなかった。
「暗黒は」
少年が再び口を開く。一人無言を貫いていたグレンは、衝き動かされるように顎を上向けた。
「まだ分からないことだらけの存在です。何故彼らがあの遺跡に封じられたのか、何故光の神々と争うことになったのかすら分からない。だから歴史考証の進んだ東大陸で、彼らのことを知るのが調査の目的です」
「何のために?」
滑り出た問いは、思いのほか掠れていた。弾かれるように振り返ったモニカの視線を無視して、グレンは少年だけを見据える。
「調査するってことは、使役する気なんだろ。暗黒を」
「そうだね。光の精霊と同じようにとは行かないだろうけど……人助けに必要なんだ」
人助け?
虚を衝かれたグレンが言葉を途切れさせれば、少年が自身の長い黒髪を指差した。
「エルヴァスティの精霊術師はね、供物として髪を与えるのが基本なんだ。よっぽど大きな術でもない限り、血は極力与えない。でもその弊害として──腹を空かせた我儘な精霊が、無差別に人を喰らってしまうことが多々ある」
「な……」
「グレンたちは血をあげてるよね。きっとこっちの聖霊は、上等な餌に満足してるからそんなこと滅多にしないんだと思う。……おかげで僕もいつもより多めに対価をあげなきゃいけなんだけどさ」
西大陸ではそれを「精霊の誘惑」または「神隠し」と呼び、避けられない死として受け入れるしかなかったと少年は言う。
だが──リュリュがペン先で紙面を軽く叩いた。
「暗黒の力が、その神隠しを防いでくれると分かったんだ。彼らは対を為す存在だから、お互いの力を相殺できる。ほら、“弑神の霊木”と一緒だよ」
「!」
魔術を封じ込める不気味な赤い植物。暗黒に汚染された黒核として忌避されるアレが、西大陸では神隠しを防ぐために用いられていたのだと、グレンはようやく合点が行った。
そしてそれを調べ利用することに、精霊術師たちは何ら躊躇しない。彼らは天空神の華々しい勝利など知らない上に、善悪で明確に仕切られた倫理観も持ち合わせていないから。
ただ、そこにいる「精霊」という存在と向き合っているだけ。
生きる術を見付けるため、誰もが忌避する泥の中にも手を差し入れる姿は、海を隔てているとは言え同じ人間のはずなのに、まるで違う生き物のようだった。
いや──全く、違う世界で生きているような。
「……グレンは、暗黒の力を使役するのに反対?」
グレンの妙な態度を見兼ねてか、リュリュが素朴な問いを投げる。
暫しの間を置いてから、彼は「いや」とかぶりを振った。
「別に。てっきりどこかの国みてぇに、反光神主義的な活動でもすんのかと思っただけだ。ただの人助けなら何も言わねぇよ」
「ぐっ」
どこかの国、というのは正しく今いるベラスケスのことである。視界の端でサルバドールが胸を押さえてしまった。
「そんなことしないから安心して。精霊の力は日々の暮らしを支えるもの、って掟で決まってるから」
「そうかよ」
「ということでサルバドール陛下、もしよかったら神話に関する資料を閲覧させていただけませんか」
魔術師同士の話を静かに聞いていたサルバドールは、心なしか改善した顔色でひとつ咳払いをする。モニカから「胃薬が必要ですか」と小さく問われては、何故か慌ててかぶりを振りつつ。
「わ、分かった。王立図書館に資料を揃えるように話しておこう。だが……」
「はい」
「……我がベラスケスは光の神々への信仰が薄れて久しいが、他の国々は違う。今の話を不用意に口にすれば、貴殿らの命が脅かされるかもしれない。調査の際はくれぐれも気を付けるように、良いかい」
サルバドールの親切な忠告に、リュリュとヒルデはちらりと顔を見合わせ、神妙に頷いたのだった。




