6-1
ぽたり。
冷えた雫が真っ直ぐに床を打つ。
石床の亀裂に溜まった雨水は、格子の隙間から差す松明の火を映して揺らめいた。
無音に限りなく近い薄闇の中で、囚人は苛立ちの吐息で唇を湿らせる。
「──光よ、大地を焼き払う天の焔よ…………聞いてんのかオイ聖霊ども! もう二度と血くれてやんねぇぞ返事しろ!」
ぶつぶつと何度となく唱えた呪文の後、グレンはとうとう荒々しい口調で聖霊に喧嘩を売った。
しかしそんな横暴な言葉にも、聖霊は何一つ反応を示さない。土、水、風、火、全ての聖霊に呼び掛けてみたが、結果はどれも同じだった。
グレンは施錠された木製の手枷を床に打ち付け、ぐったりとその場に項垂れる。
「くそ、寝てる間にどんだけ経ったんだ……? まさかもう王都なのか、ここ」
あのときフーモの街で昏倒させられて、目を覚ましたときには既に檻の中だった。
意識が戻ってすぐ枷を嵌められた両手にぎょっとしたのも束の間、幸いにも奪われていなかった指輪を回して脱出を図ったのだが、未だこの有様である。
一体何がどうなっているのか。生まれてこの方、聖霊に呼び掛けて無視された経験など一度もない。おやつ欲しさに向こうが勝手に寄ってくることは多々あれど。
しんと静まり返った薄闇の中で、グレンが苛立ちを込めた手つきで頭を掻いたときだった。
「──“弑神の霊木”っていうのがあってね」
唐突にもたらされる、静かな声。
ハッと顔を上げてみれば、向かいの牢に誰かが鎮座していた。
グレンの視線が寄越されたことを確認し、その人影は続けて言葉を紡ぐ。
「真っ赤な幹と葉っぱの、ちょっと毒々しい見た目をした植物なんだけど。知ってる?」
「……いや」
「それがあるとね、精霊……ここでは聖なる霊? 彼らが逃げちゃうんだ。召喚にも全く応じてくれなくなる」
細い人差し指が、すいと垂直に立てられる。
促されるままに真上を見遣れば、暗い天井に紅い蔓が這っているのが見えた。
今しがた聞いた通りの、血を吸ったような赤──。
「ここに捕まった魔術師は、あれのせいで脱獄も出来ずに死んじゃうってこと」
訪れる沈黙。
しばし、語られた内容を無言で吟味したグレンは、ゆっくりと瞼を閉じ。
「やってらんねぇ!! てかお前ずっと見てたなら最初に言え!!」
鉄格子を思いきり蹴りつけ、けたたましい音を響かせながら牢屋に寝転がった。
向かいの牢に入っている黒髪の少女は──否、低めの声から察するに少年か──その碧海の双眸をぱちぱちと瞬かせてから口を開く。
「ごめんね。僕も今あれに気付いたから」
あれ、とは言わずもがな“弑神の霊木”とやらのことだろう。グレンは初めて見る不気味な植物を睨めつけ、忌々しい気分で舌を打つ。
「……クソ、こいつも贋物か……? にしては……」
──様子が違う。
人と聖霊の力で造られた贋物に、同じ聖霊を追い払う力など備わるものだろうか。少なくともグレンは、そんな奇抜で無用な術を見たことがなかった。
「待て、聖霊が逃げるって言ったか?」
「うん」
「……」
「……何か心当たりある?」
少年の落ち着き払った問いに、グレンは霊木を見詰めたままぽつりと呟いた。
「──……黒核だ」
巷で忌避されている贋物の中でも、極めて危険な力を有するもの。それが黒核。
黒核は天空神が生み出した聖霊の力ではなく、天地創造の時代に生きたもう一つの神──暗黒の力に取り憑かれた物質を指すという。
初めて黒核が発見された当初、大昔に討ち滅ぼされた暗黒の力が現代にまで残っているはずがないと、多くの神官や魔術師がその存在を真っ向から否定した。
しかし、明らかに人間の手では作り得ない謎の贋物が存在したことは確かで、他に説明する余地がなかったのも事実。
結果、黒い種子になぞらえて「黒核」と名付けられた贋物は、それまで絶対の真理であった光の神々の勝利に、ひとつの影を落としたのだ。
かつては聖術と呼ばれていた奇跡が、一転して魔術と呼ばれるようになったのも、この謎多き黒核が所以だったか。
「黒核は単なる贋物と違って、どれもこれも不気味な見た目をしてる──らしいが、これはさすがに気色悪ぃな」
グレンは絵の具で塗り潰したような鮮烈な赤色を見上げ、思わず首をすくめた。同じような植物が存在しないわけではないが、この赤はどうにも人の不安を掻き立てる。
体の内側をざらりと浅く削られるような、不快な感触が胸部に生じた。
「ふうん……そうなんだ」
ぼうっと天井を見ていた少年が、興味深そうな声で相槌を打つ。
「そうなんだ、って……お前、知ってるような口振りだったろ」
「いや? 物心ついたときから近所に生えてただけ」
「これがぁ!?」
黒核が近所に生えてるという強烈な字面に、グレンは思わず飛び起きる。と同時に右肩と腹部が痛み、再び彼は床に頽れた。
そこでようやく思い出す、目の前にいる幼い魔術師の素性。
投獄された上に魔術まで封じられた状況下、つい冷静さを失っていたが、この少年は──ヒルデが探し求めていた同行人である。
つまりは光の神々と暗黒が世界の覇権をかけて争った決戦の舞台、西大陸からやって来た異邦人だ。そんな凄まじい歴史を持つ大地なら、暗黒の名残とも言える黒核がそこら辺に生えていてもおかしくない……のだろうか。
いや、多分おかしいだろうとグレンは首をひねる。
「暗黒に取りつかれた……ああ、だからあの人……」
「おい」
虚空を見詰めて思考に耽っている少年に呼び掛ければ、ゆるゆると青い瞳がグレンに移された。
「なに?」
「ピンク髪のガキが探してたの、お前だろ」
「……? あ、ヒルデのこと? 元気だった?」
少年が初めてこちらへ身を乗り出し、乏しい表情の中に微かな心配を宿す。
しかし、グレンがその問いに何かを返す前に、獄中に大きな音が響き渡った。
「おい、さっきから騒々しいぞ。静かにしないか!」
二人の会話が外まで漏れ聞こえていたのか、通路の奥から咎める尖り声が飛んで来る。文句を言う代わりに鉄格子をガシャガシャと揺らしてやれば、もう一度「うるさい!」と看守の怒声が返り、扉が荒々しく閉ざされた。
反響が止むまでじっと耳を澄ませていたグレンは、格子の隙間から通路の様子を窺う。各部屋に“弑神の霊木”とやらが張り巡らされていると仮定して、少なくとも魔術を行使するには牢獄の外へ出なければならない。看守を呼び寄せて牢を開けさせ、連行中に力づくで逃亡を図るしか有効策はなさそうだ。
「……脱獄するの?」
「死にたきゃそこにいろよ」
「やだ。ヒルデに会う」
子どもっぽい返事に──いや十代半ばの子どもだが──グレンは鼻を鳴らしつつ少年を見遣る。
いかにも体力のなさそうな、下手をすればヒルデよりも華奢な肩は見るからに頼りない。こんな少年を連れて脱獄したところで、看守に取り押さえられるのが関の山だ。
それに西大陸の魔術師には、人を傷付けてはならないとかいう厄介な掟がある。例え少年の魔術が優れていたとしても、戦力的な価値は期待できなさそうだった。
グレンがどんどん面倒臭そうな顔つきになっていくのを見てか、少年は一人黙考する。じっとグレンの目を見たまま、やがて緩慢な動きで自身を指差した。
「僕にも戦えって?」
「よく分かったな、その通りだ」
「良いよ」
「は?」
意外にもあっさりと承諾した少年は、長い黒髪を煩わしげに退けながら続ける。
「一人になったときは下手に逆らうなって言われてたから、ここまで大人しく付いて来たけど……今はお兄さんがいるし、ヒルデにも会えそうだし」
「……それは分かるが、掟は? 変な決まりがあるってピンク髪が言ってたぞ」
「うん。でもお兄さんが死なないように守るぐらいなら簡単」
簡単。その言葉は何も、幼さゆえの無知から来る自信ではないのだろう。実際、この少年は霧の谷で襲ってきたカイメラからヒルデの身を守っている。聖霊の扱いは非常に長けていると見て良い。
暫しの間を置きつつもグレンが頷けば、それを了承と捉えた少年が両手を持ち上げる。格子の隙間から右手をくぐらせた少年は、ぼんやりとした表情のまま己の名を口にしたのだった。
「僕はリュリュだよ。お兄さんの名前は?」