5-3
濃霧が晴れた先でグレンたちを迎えたのは、一言で表すと異様な景色だった。
露出した梁と漆喰で造られた半木骨造の家屋はごく一般的なものとして、グレンの目を惹いたのはその壁や屋根にまでびっしりと張り巡らされた管だ。
薄く加工された金属板を丸めた、継ぎ接ぎの管。接合部には見慣れないレバーのようなものが取り付けられ、ところどころから白い煙が噴き出している。川の上流を脈々と仰ぐ気持ちで顎を上げていけば、曇天をいくつもの煙突が貫いた。
「何だこの街……」
「見慣れないものが沢山ありますねぇ」
思わずこぼれた独り言は、隣でぼうっと街並みを眺めていたモニカに拾われた。
彼らの前に聳え立つ壁──もとい上へ上へと積み重ねられた民家の山には、管のほかにも水車のようなものや大きな昇降機まで見える。それらは動くたびに、やはりどこからか白煙を吐いて。
「吹き荒れる白煙……」
ヒルデが占い師の言葉を反芻し、気を引き締めるように頬を叩いたとき、石橋の向こうから一人の男がこちらへやって来た。
錆びた鉄の桶を抱えた全身煤だらけの男は、グレンの目の前まで歩み寄っては不思議そうに首をかしげる。同時にふわっと舞う埃にグレンは小さく噎せてしまった。
「旅人さん? 珍しいね、よくこんなとこまで……え!?」
男は唐突に目を剥くと、グレンたちと霧の渓谷を交互に見遣る。
「鬱陶しいコウモリのカイメラがいたはずだろう! あんたら襲われなかったのか!?」
「何だよ、あんたのペットか?」
「違う違う、飼うかあんなもん。ずっと迷惑してたんだ、あいつらなっかなか駆除できなくてよぉ! あんちゃんが処理してくれたんだな! ありがとうよ!」
上機嫌に笑った男はグレンの肩をばしばし叩いてから、ようやくモニカとヒルデの存在に気付いたようだった。薄暗い景色に似合わぬ見目麗しい娘を見てか、男は「こりゃいかん」と慌ただしく帽子を脱ぐ。
「もしかしてどっかの貴族さまかい? とんだ無礼を……」
「ああいえ、そう畏まらずに。それよりもこちらは──フーモの街で合っていまして?」
「はあ、そうですよ」
モニカのやわらかな問いかけに、男はきょとんとした顔で首肯した。
その返答から一拍置いて、グレンたちはつい同じタイミングで街を見上げてしまった。目的の場所に辿り着けたは良いが、如何せん落ち着かない。白煙に奇妙な管、金属の板が取り付けられた水車──何もかもが分からず、ゆえに何から問うべきかも分からなかった。
しかしそんな彼らの反応は予測済みだったのか、男は大らかに笑って街へ入るよう促したのだった。
「いきなり街ごと崩れたりしねぇから、入りなよ。ちゃんと宿屋もあるぜ。……ボロいけど」
▽▽▽
フーモの街。
そこは二十年ほど前まで、国から見放された貧民街でしかなかった。転がされた死体は幾日も放置され、屍をつつくのはカラスではなく同じ人間だった。王都の程近い場所にありながら、誰もがその惨状に見て見ぬ振りを決め込んでいた。
やがて死にゆく街の取り壊しが狂王によって決定されようかというとき、ある一人の男が提案する。
──どうかフーモの街を私めにくだされ、陛下。
男の名はクレメン。ベラスケス王国で侯爵位に就いている老齢の貴族で、少しばかり変わった人物として知られていた。
クレメンはとある事業開発のため、領地とは別に土地の購入を考えていたと言う。誰も欲しがらない、かつ人の出入りがあまりないフーモの街は実験の場として相応しかったのだろう。
外れくじを自ら引いたクレメンに他の貴族が冷笑を浴びせる中、無事に土地を手に入れた当人は満足げに王宮を後にした。
そして──彼は誰もが予想だにしなかった技術を、他でもないこの街で発展させることに成功したのだ。
「見てくださいグレン、煙が入ってきます!」
「ぶぇっ熱いわ! 閉めろ!」
モニカが木製の小さな戸を開けると、もくもくと白煙が宿屋の廊下に侵入する。はしゃぐモニカを押し退け、グレンは溜息交じりに戸を閉ざした。
「あっはっは、珍しいお嬢さんねぇ。ここに来る貴族はみんな嫌そうな顔するってのに」
「まぁ、そうなのですか? 私は見てるだけで楽しいですよ」
「そりゃ良かったよ」
ふくよかな女主人は部屋へ案内をしながら、分厚い窓硝子の向こうを見遣る。
曰く、街のあちこちから噴き出している白煙は、そのほとんどが水蒸気らしい。地下施設で大量の水を熱し、生じた水蒸気をすべての管に送っているのだという。
そうすることで何が起きるかというと──先程グレンが見た大きな昇降機が動くそうだ。
「あれが動く? 人力は?」
「要らないよ。ほら、勝手に上下してるだろう? ま、たまに置いてかれたり落ちたりする奴がいるんだけどねぇ」
促されて窓の外を見てみれば、数人の男と荷物を載せた分厚い鉄板が、ゆっくりと上昇していく光景が見える。
鉄板から伸びる頑丈な鎖を辿っていくと、民家の隙間に設置された複数の大きな歯車が回転していた。あれが鎖を自動で巻き上げていることを知り、グレンはつい疑問符を浮かべて硬直してしまう。
その隣、同じように硝子戸に張り付いていたモニカが歓声を上げる。
「まあ! すごい! 一体どなたがあのような装置を考えたのです?」
「街の階段をずーっと上っていけば会えるよ。そういや最近見かけないねぇ、まぁた変な実験してんだろうか」
「グレン! 会いに行きましょうっ!」
「はあ? 一人で行けよ面倒くせぇ」
いつになく上機嫌なモニカから一歩後退しつつ、グレンはしっしと片手を払う。こちとらカイメラと戦った後で疲れているというのに、休憩もさせずに階段を上らせる気かと。
すげなく同行を拒否されてしまったモニカは唇を尖らせたが、窓硝子を人差し指で突いてはなおも言い募る。
「興味を惹かれませんか? 魔術もなしに独自の技術で発展しているのですよ、この街は!」
「俺は疲れてんだよ、興味もクソもあるか。ピンク髪と行きゃ良いだろうが」
「はー……相変わらず釣れないですね。じゃあヒルデさん──」
ひょいとグレンの後ろを覗き込んだモニカは、そこで言葉を途切れさせた。
「……あっ、すみません」
ずっと考え事をしていたのか、少女は今までの二人の会話を何一つ聞いていなかったらしい。視線が寄越されたことで我に返り、慌ただしく姿勢を正す。
心ここにあらず。恐らく同行人のことで頭がいっぱいなのだろう。それを悟ったグレンが無言で部屋へ向かう傍ら、モニカも笑顔を浮かべて少女の肩を摩る。
「ヒルデさん、少し休みましょうか。歩きっぱなしで疲れましたね」
「え……ですが」
「ほらほら、お部屋に行きましょう!」
もはや今日に限ったことではないが、モニカはやはりグレン以外の人間と動物にはしっかり優しく接する。そのあまりに徹底された切り替えに少しの感心すら覚えつつ、グレンは奇怪な蒸気の街を一瞥したのだった。