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「ひゃあー!」
「ああーッ!?」
左手で手摺に掴まり、伸ばした右手でモニカの細腕を掴み取る。ぐんと下へ引っ張られて背中が嫌な音を立てたが、グレンは気合いで踏ん張った。
先程からカイメラの頑丈な尻尾が橋桁にぶつかっていたのか、いつの間にか足場は酷い有様だった。崩壊の反動で投げ出され、水路の上で宙ぶらりんになったモニカの足下には、餌が落ちてくるのを待つように魚影が動いていた。
「くそ、重い!!」
「まぁ酷い! 女性に向かって重いだなんて!」
「こっちは片腕だぞ、重いに決まってるわ! さっさとどっか掴まれ!」
「ええと、どこに?」
贋物の力で氾濫寸前と言っても過言ではない水路には、この橋以外の障害物が全く見当たらなかった。壊れかけの橋桁にしがみつこうにも、モニカが飛び移るには少々無理がある。
日頃の恨みも込めて一回落とすか──と思ったが、そうなると魔術を行使して素早くカイメラを屠らなければならないだろう。
ベラスケス王国内で呪文を詠唱するなど、魔術師にとっては自殺行為。やるなら誰も見ていない場所が好ましいが、騒ぎを聞きつけた住民が既に裏通りに集まりつつある。
(こいつが自力で上がってくれりゃ良いが──そんな時間ねぇな)
グレンが気合いでモニカを引き揚げたとして、恐らくそれよりも先に橋が全壊してしまうだろう。
橋も煉瓦で頑丈に造っておけと内心で悪態をついた直後、水路から勢いよくカイメラが跳ね上がった。
「ほっ」
「うぐっ」
カイメラの突撃を、モニカが両足を上げて避ける。
グレンの右腕もみしりと音を立てる。
「待て動くな、腕が抜ける!」
「え!? 私の足を餌にしろと言うのですか!?」
衝撃を受けるモニカを無視して辺りを見回せば、高架下で逃げ惑っていたベラスケス兵は水路の壁を死に物狂いでよじ登り、無事に陸へと上がっては倒れ込んでいた。
彼らの視線がこちらに向いていないことを確認したグレンは、右手に力を入れつつモニカに呼び掛ける。
「箱女! 指輪を回せ!」
「指輪っ?」
ぐぐっと顔を上向けたモニカは、何のことかと瞳を動かし、すぐに彼の右手に嵌められた金環を見付ける。ぱちぱちとまばたきを繰り返した彼女は、空いた手を指輪に伸ばしながら、懸念の眼差しをこちらへ向けた。
「……よいのですかっ?」
投げ掛けられた言葉はそれだけだったが、意図は十分に伝わる。グレンは口角を上げて不敵に笑うと、手摺を掴む左手を一瞥してみせた。
「何もしないで良いならお前だけ落とすぞ」
「え?」
──だけ?
モニカが不思議そうにしながら指輪の刃を回すのと、橋が大きく傾くのは同時だった。
滑った指先はいつもより深く皮膚を裂いたが、今回ばかりは好都合だ。グレンは魚影からなるべく離れた場所を目指し、崩れゆく橋を踏みつけて跳躍した。
その際、モニカは水深の深そうなところ目掛けてぶん投げておく。
「きゃー!? 私泳いだことありませんー!」
「浮いてろ!」
「どうやってー!?」
泣き言を漏らしながら落ちていった彼女に続いて、グレンの視界にも水面が迫る。
その奥に待ち構えるカイメラの赤目を見据えながら、彼は小さく口を動かしたのだった。
「──ウィスカ、力を貸せ」
どぼん、と彼の体が水底へ沈む。
──刹那、水路全体がまばゆい光を発した。
裏通りを真白く染め上げる閃光に、集まった人々は思わず顔を背ける。しかし、その光は決して彼らの目を潰すような強烈なものではなく、寧ろ清浄な空気をもたらすもので──。
冷たい感触に全身を包まれたグレンは、ゆっくりと瞼を押し開く。
水中には幾重もの光が射し込み、塵一つ見当たらない澄み渡る青がそこにあった。これが街にある濁った水路の中だと言われても、信じる者はいないだろう。
そんな美しい清流の底を見遣れば、先程までの猛威を失った巨魚が沈んでいた。腹に埋め込まれている紫色の宝石こそが、恐らくはあれをカイメラに変貌させてしまった元凶──贋物だ。
輝きを失った宝石が砕ければ、針状に尖っていた鱗がぼろぼろと溶け始める。水面へ上昇していく小さな魚を見届けたグレンは、そこでふと振り返った。
ゆるやかな水流に運ばれながら、モニカがこちらをじっと見詰めている。
浮き方が分からなかったのか、彼女は口元を押さえたまま体を縮めて。自由に漂う銀髪が薔薇色の双眸を遮ってしまえば、ようやく我に返ったらしい。じたばたと両足を動かし始めた。
グレンはもがく彼女の腕を掴み寄せ、そのまま水面へ引っ張り上げる。眩しい光とくぐもった喧騒に手を伸ばせば、間もなく二人を新鮮な空気が出迎えた。
「ぷぁっ、く、苦しかった……死に目を見ました……」
「そのわりにはボケッとしてたろ」
「あれは──」
「グレン殿、モニカ殿! 無事でしたか……!」
ずぶ濡れの顔を拭いつつ見上げてみれば、水路の上にヒルデの姿があった。ほっと安堵の息をつく彼女の後ろには、レジェスと幼い兄妹がはらはらとこちらを窺っている。
「近くに階段があります、あちらまで泳げますかっ?」
ヒルデの問いに無言で頷き返すと、グレンは大きな溜息と共にモニカの背中を引き寄せた。乗じてひしと首にしがみついてきた彼女を一瞥し、ぐしゃぐしゃに乱れた銀髪をおざなりに退ける。
「さっき見たことは言うなよ」
「ん……やはりあの光はグレンの魔術だったのですか?」
「……。誰に何を聞かれても、光の神々の奇跡ですーとか何とか言っとけ。俺たちは水の中に落ちただけだ、いいな?」
いつぞやと同じ、温度を感じさせない声で囁く。
戸惑いを滲ませたモニカの瞳が瞬くたび、睫毛に溜まった雫がこぼれ落ちた。彼女は暫しの沈黙の末、どこか不服そうに頷いては水面を掻き混ぜる。
そうして流れゆく美しい青を眺めながら、グレンの耳元で告げたのだった。
「分かりました。でも……今のうちに言っておいても?」
「あ?」
「グレンの使う魔術は、どれも美しいのですね」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
グレンが少しの間を置いて瞳を動かすと、いつも通りの平然とした横顔がそこにある。
彼女の見詰める先を追えば、そこには大勢の人々が水路を覗き込み、煌めく鏡面を指して驚きを露わにする光景があった。
静まり返っていたはずの裏通りは気付けば人で溢れ返り、彼らはカイメラ騒動があったことなど既に忘れ去っているようだ。
「お母さまが仰っていたのです。今でこそ魔術は悪く見られがちだけど、本当はとても神聖なものだと」
喧騒から視線を戻す。
薔薇色の瞳は人々を見ているようで、どこでもない虚空を眺めていた。
亡き母との思い出に耽っているのか、浮かべた微笑に平素の毒はない。ただ、それが心から過去を懐かしむものではないのも確かで、グレンの目には些か奇妙な表情に映った。
彼の訝しむ視線に気が付いたモニカは、ようやく紅い瞳をこちらに寄越しては小首をかしげる。
「グレンの魔術を見て確信した、というお話ですよ。そう怪しまないでください」
「……その流れで俺に魔術を教えろなんて言うなよ」
「あらっどうしてお分かりに? やっぱり褒めても駄目ですか?」
「お前には贋物がお似合いだ。魔女みてぇな顔と性格してるしな──ごぼぁっ」
ざばっと後頭部を掴んで水に押し込まれ、瞬時に顔を上げたグレンは信じられないとばかりにモニカを振り返った。
「てめぇ誰のおかげで今浮いてると思ってんだ!! 沈めるぞ!!」
「褒め言葉を素直に受け取ってくれないばかりか悪口まで言われたので、つい」
「つい人を溺死させようとすんな、このっ」
「あー!? 待った待った悪ふざけが過ぎました、手は放さないでください!」
階段を目前にしてばしゃばしゃと喧嘩を開始した二人を、ヒルデと子どもたちは何とも言えない表情で眺めていたが、やがて釣られるようにして相好を崩したのだった。




