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「は?」
大都市ラトレに到着するや否や、のんびりと告げられた今日の予定に、グレンは険しい表情で応じてしまった。
三日ほど馬車に揺られていたおかげか、モニカは痛む腰を摩りながら右に左にと体をねじる。貴族令嬢らしからぬ朝の体操を続けていた彼女は、朝っぱらから血管が切れそうなお供に晴れやかな笑顔を向けた。
「ですから、ラトレで開かれるお祭りに参加したいので、ここに立ち寄りました」
「聖遺物まったく関係ねぇな!? 遊びに来たのかお前!?」
思わずモニカの胸倉を掴んで怒鳴ってしまい、通行人からひそひそと訝しむ視線が投げられる。
駐屯兵に目をつけられても鬱陶しいので、仕方なしにグレンは細い肩を掴んだまま脇の路地に移動した。
「そう怒らないでくださいグレン。お祭りついでにラートルム神のお告げも聞けるかもしれないじゃないですか!」
「何っでそっちがついでなんだよ。俺ぁてっきり胡散臭い神サマのお言葉に頼るのかと思って渋々ここまで付いてきたってのに、祭りだと!?」
「あら! ということはグレンも聖遺物捜索のために、お告げのことは考えてくださっていたのですか? うふふ、口では嫌がってても心は優しいのですね」
ああ言えばこう言う。
いかがわしい物言いで喜ぶモニカの額を軽くひっぱたけば、意図せず溜息が漏れる。ここ数日で今までの人生分の溜息をついた気がした。
──レアード王国の大都市ラトレ。
聖遺物“目覚めの森”と密接に関わって発展してきたおかげで、かの街は一般的な市街地とは様相が大きく異なる。
森の外縁部に青々と生い茂る巨木を利用して造られた、暖かみのある頑丈な家屋。我先にと陽光を奪い合う植物の下では、至る所に吊るされたオレンジ色のランプが人々に光を分け与える。
都市全体を囲う城壁さえも背の高い樹木で構成されており、人工物と自然が融合した神聖なる街として有名だ。
吟遊詩人はしばしば、ラトレを「神人のまみえる庭」と表するが──その辺りの情緒に欠けるグレンからすればひたすら青臭い街という印象しかない。あと虫が多い。奥まった場所にある地下広場など覗いた日には、視界を飛び回る虫の羽音がしばらく耳から離れなかった。
人が住む場所じゃない──とまでは言わないが、理想と現実の乖離がそこにはある。
ゆえに何度か訪れた機会はあれど、モニカのように気持ちよさそうに深呼吸する人間の気持ちは、未だ理解できなかった。
「ここはいつ来ても空気が新鮮ですね! ラートルム神のご加護が漂っているのかしら……! グレンの心も少しは綺麗になると良いですね」
「余計なお世話だ」
「ふふふ。えっと、中央広場はどの門でしたっけ」
柔らかく足裏を押し返す樹皮の道を進みながら、モニカがふと頭をもたげる。
巨木の下半分が大きく割れて出来た自然の門が、進路に三つほど並んでいた。中央広場に繋がっているのは右の門だが、グレンは特に助言することなく沈黙を保つ。
この旅を主導するのは、グレンの心臓を握るモニカだ。下手に逆らって宝石箱をひっくり返されでもしたら堪らないので、一応は護衛として従うものの、慣れ合うつもりはない。
もちろん助け合いなど言語道断。知識の不備でモニカの心が折れる可能性だって十分にあるのだから、グレンはただ適当に宝石箱の身を守るだけでそれ以外は何もしな──。
「グレン、聞いてますか?」
「おぎゃあぁ!?」
心臓が飛び跳ねるような感覚に陥り、全身に鳥肌を立てたグレンは勢いよく地に伏す。
いきなり奇声を発して転がった成人男性のそばを、子連れの女が小走りに通り過ぎていった。
だらだらと冷や汗をかきながら上体を起こしたグレンは、青褪めた顔でモニカを見上げる。困ったように唇を尖らせる彼女の手には案の定、“隷属の箱”が乗っていた。
「大丈夫ですか。産声みたいでしたよ」
「お、おまえ……何した、今……」
モニカの例え方に何かしら文句を言うこともできず、弱々しい声で問う。再び心臓が飛び跳ねるのではないかと危惧するグレンへ、彼女はにこやかに宝石箱を指して答えた。
「ちょっと宝石箱を叩いてみました。びっくりしました?」
「軽い気持ちで実験すんな!!」
「わぁ、どくどく聞こえます!」
駄目だ、こいつに箱を持たせていたら駄目だと本能が警鐘を鳴らす。深緑の宝石箱をしげしげと眺めてから鞄に戻そうとするモニカを見咎め、グレンは咄嗟に彼女の足首を掴んだ。
「待て、その箱は俺が持つ! お前に持たせてたら寿命がごりごり削られる!」
「え? 心配しないでくださいグレン。この箱は誰かに悪用されたり破損したりしないように、私が雇い主としてちゃーんと保管しますからっ! よーしよしよし」
「そこらの賊よりもお前が一番危険だって話をしてんだよ!! って頭を撫でんなクソ女──」
「モニカ嬢っ?」
突如としてそんな声が飛んで来たのは、宝石箱を奪おうと手を伸ばしたときだった。
通行人がことごとく二人を避けていくなかで、その青年はぽかんと口を開けたままモニカを凝視する。
グレンの頭を飼い犬よろしく撫で回していたモニカは、しばらく薔薇色の瞳をぱちぱちと瞬かせていたのだが、やがて「あっ」と友好的な笑みを咲かせた。
「まあ! お久しぶりです、こんなところでお会いするなんて! フォ……ギ、フォル、ん? フォルべ……ハット……」
しかしそこから待てども待てども青年の名前が出てこず、あろうことかモニカは助けを求めるような気まずい視線を寄越した。
「……いや、何で俺を見る。知らねぇよ」
「そこをなんとか……」
「お前の知り合いだろうが」
一方の青年はこちらのやり取りが聞こえなかったのか、はっと表情を引き締めて歩み寄ってくる。
その上等な衣服や装備を眺めては換金額をザッと計算してしまったところで、グレンはようやくある事実に気付いたのだった。
「は……? おい、あれカレンベル帝国軍の鎧じゃねぇか! お前まさか俺のこと通報しやがったのか?」
「へ? 違いますよ、あの方は学院で知り合った方で……ここまでずっと行動を共にしていたのに、いつ通報する暇があったというのです?」
「俺はお前を貴族令嬢じゃなくて詐欺師と同じように見てんだよ。俺に気付かれないように手回ししてたって何も不思議じゃねえわ」
「まぁ酷い! 口の悪いコソ泥はもう一回お仕置きしておきましょうか!」
「ちょ、やめ……やめろ! 箱に触るな!」
二人が小声で詰ったり弁解したり脅したりする間にも、騎士の青年は歩みを止めない。むしろどんどん歩幅を大きくし、整った眉をも次第に顰めていく。
そしてとうとう間近く迫ると、素早くグレンの腕を掴んだ。強い握力で彼をモニカから引き剥がしては、躊躇なく地面に組み伏せてしまう。
ぐるりと目まぐるしく回った視界。すかさず背骨の辺りに膝をぐっと押し込まれ、折り畳まれた腕の痛みも相俟ってグレンは呻いた。
「貴様、モニカ嬢に何をしている? 嫌がる女性に迫るのは感心しな──」
「わ、わー! お、お待ちくださいっ、そちらは私の知人なのです、フォ、フォッヘルベルガー様!? ギルハルト様! あっベルフォレスト様!」
「おい全部違うみてぇだぞ」
モニカが当てずっぽうで名前を呼べば、併せて三段階ほど目に見えて落ち込んだ青年がとうとう悲しみに暮れて蹲ってしまう。
拘束がゆるんだ隙を突いて脇へ転がったグレンは、痛む腕を摩りながら長い溜息をついたのだった。