4-1
「──ヒルデ」
打ち寄せる波。飛沫、雨、雷。
全てが一つとなり、混ざり合い、唸り声を上げて、胎の中へ迷い込んだちっぽけな船を襲う。
黒い海と空が閃光を放ち、また黒く渦巻けば、とうとう帆柱が折れてしまった。
「全員を助けるのは無理かな。君たちだけで限界だと思う」
鼓膜を打つ轟音の中、頬に感じる冷たい熱と声だけが、辛うじて少女の意識を保つ。ただひたすらに浅い呼吸を繰り返していると、雷光に照らされた碧海の双眸が寄越された。
細い指先が濡れた髪を退け、真っ直ぐに視軸を合わせる。少女の恐れ竦んだ心を宥める静かな瞳が、ほんのわずかに細められた。
「落ち着いて。ヒルデは死なせないから。……でも、怒らないでね」
視界を塞ぐ頼りない肩。背後で行われた短いやり取りは、恐怖で薄れかけていた少女の意識には届かなかった。
ただ、一度だけ強張った両腕と痛みに堪える息遣いだけは、波に飲まれた後でもはっきりと──。
◇◇◇
「ですから、白い煙です! この辺りで白い煙が見られるところはありませんか?」
人相の悪い男たちは酒瓶片手に、突然現れては訳のわからないことを言い出した銀髪の乙女を見下ろす。頭から爪先までじろじろと不躾な視線を巡らせた彼らは、にたりと下卑た笑みを浮かべて酒を置く。
「煙? そこらじゅうから上がってるぜ、ほら」
一人が指差したのは煉瓦の街を漂う、曇りがちな空に溶け込む煙突の煙。もくもくと立ち昇るそれは、程なくして色を失い見えなくなる。
残念ながらあれは「吹き荒れる白煙」ではない。まず吹き荒れていない上に、乾燥の甘い薪でも使ったのか、それとも煙突自体が汚れているのか、あの煙にはところどころ黒が混ざっていた。モニカは溜息交じりにかぶりを振ると、古びた煙突を備えた民家から視線を外した。
「違います、もっと轟々とですね」
「なぁ嬢ちゃん、俺らと遊びたいなら素直にそう言えよ」
「可愛い顔して欲求不満かぁ?」
これも本日五回目の流れである。モニカは言葉を紡ぐ途中で口を開けたまま、やがて落胆をあらわに肩を竦めた。
やおら鞄から宝石箱を取り出したところで、後方からとんでもない速度で駆けてくる人影がひとつ。そのままごろつきを殴り飛ばす様は疾風迅雷のごとし。数分と経たずに全員まとめて路地裏に転がした金髪の青年は、鬼の形相でモニカを振り返った。
「だからその箱で応戦の姿勢を見せるなクソが!!」
「そんなにびくびくするなら一緒に聞き込みしてくださいな。ごろつきの中にか弱い乙女を放り込むなんて畜生のやることですよグレン」
「平気で人の心臓痛めつける奴に言われたかねぇ!」
「グ、グレン殿、モニカ殿……! ひとまず離れましょう……っ」
慌ててグレンの後を追いかけてきた少女が、相変わらず仲の悪い二人の背を押して立ち去ろうとしたときだ。路地裏で伸びていたごろつきの一人が、グレンの顔を見てぎょっと目を剥く。
「おい! て、てめぇこの前、俺の財布掏った野郎だな!?」
「ああ? 人違いだろ。こんな如何にも金なさそうな男から何が取れんだよ、木の実か?」
「てめぇ!!」
「財布を掏ること自体は否定しないのですねグレン」
最近は幸か不幸かモニカ(の財布)のおかげで盗賊稼業は休止しているものの、グレンにとって掏摸など朝飯前だった。起床からの朝イチの掏摸、奪った金で酒場へ向かうといった「腐れルーチン」と他人から罵倒されそうな日々を送っていたぐらいである。なので当然、過去に財布を拝借した相手の顔など覚えているはずもない。
……のだが、ここはあらゆる魔術師が避けて通るベラスケス王国との国境。さすがのグレンもこの付近で盗みを働いた記憶はなかったので、今回は完全な言いがかりだった。
ぎゃあぎゃあと勘違いして騒ぐ男を置いて大通りへ出ると、賑やかな煉瓦の街が彼らを包み込む。ベラスケス王国の特産品でもある紅土が家屋に使われた景色は、緑豊かなレアード王国とはまた違った味を醸し出していた。
「ここでグレンに似た人が掏摸をやっているのでしょうか。全くもう、金髪の殿方への風評被害ですよ」
「知るか。それより早く宝石箱を鞄にしまえ」
グレンが片付けを命じれば、モニカは特に嫌な顔もせずにごそごそと宝石箱を鞄に押し込む。
もう何度となく繰り返しているやり取りだが、さすがにヒルデも気になってきたのだろう。緑色の宝石箱を凝視し、「あの」と控えめに口を開く。
「そちらの宝石箱、なにか大事な物なのですか?」
「えぇまあそれなりに」
「めちゃくちゃ大事だわ何だそれなりって」
盗賊よりも倫理観に欠けた発言に愕然とする傍ら、モニカは少し考え込んでから正直に宝石箱について語った。これが先日ヴェルナー邸の占い師ゾフィが使っていたものと同じ贋物で、中にグレンの心臓が入っていることを実に淡々と、他人事のように。
案の定、正常な感覚を持っているヒルデは説明を聞きながら青褪める。少女の反応は予測済みだったらしく、モニカはにこやかにその肩を摩って告げた。
「箱に衝撃を与えるとグレンにも感覚が伝わるようでして。彼に嫌なことをされたらいつでも貸して差し上げますね」
「貸すな」
「い、いえ結構です、丁重に扱います……! ですがモニカ殿、贋物は……所持していてもよいのですか? ゾフィ殿のように危ない状態に陥ったり……」
ヒルデの言葉に、グレンは目から鱗が落ちる思いだった。今までモニカのことが忌々しくて一度も考えたことが無かったが、贋物の使用には相応の対価を要求される。つまりモニカの身にも負荷が掛かるのではないかという、善良な人間ならではの心配だ。ついでに「そんなこと止めた方が良い」と遠回しな非難も込められた言い回しである。
占いをするたびに対価を要求していた“予見の宝珠”とはタイプが異なるだろうが、他人の心臓を継続して箱に閉じ込めるための定期的な対価の支払いは必要かもしれない。
わずかな間で思考を巡らせたグレンは、期待に満ちた目でモニカを振り向いたが。
「ああ! そういえば」
彼女は言われて初めて気付いたとばかりに手を打ち、そのまま首をかしげる。
「……いえ、血をあげたのは最初だけでしたね? 特に異常はありません」
「はあ? そんな都合のいい控えめな贋物があってたまるか、干からびるまで対価吸い取られて死んじまえ」
「見てくださいヒルデさん、自分の期待が外れて暴言を吐くコソ泥ですよ──うっ」
そのとき、急に前のめりになったモニカが顔面からグレンの腕に突っ込む。いきなり頭突きをされたグレンが眉をひそめたのも束の間、彼はすぐさまハッと目を見開いては銀色の頭を鷲掴んだ。
「おい、いま誰かにぶつかられたか」
「ええ、背中をドンと……あら? 鞄が軽い」
額を摩りながら顔を上げたモニカは、肩掛け鞄の蓋が開いていることに気付いて言葉を失う。無論、彼女の動きを見ていたグレンとヒルデも、そこにあるはずの“隷属の箱”が消えていることはすぐ分かった。
モニカはたっぷりと間を置いてから、やがて両手を鞄から離してはあっけらかんと笑う。
「まぁ大変、盗まれました!」
「盗まれましたじゃねぇ!!」
掏摸がどうのこうの話した数分後に標的にされるとは露にも思わず、グレンは舌打ちまじりに周囲を見渡した。国境の街というだけあって大通りには人が多く、賊が紛れ込むには十分すぎるほど視界が悪い。
だが彼もれっきとした同業者、盗みを働いた人間の行動は手に取るように分かる。獲物を手にした後は大抵、怪しまれぬよう人の流れに従って歩き、ちょうどよい脇道に逸れて身を隠すのが定石だ。ならば──グレンは進行方向にある左右の脇道に目を凝らした。
すると。
「いた、あの金髪ッ……金髪だと?」
素知らぬ顔でさっさと角を曲がっていった金髪の少年を、グレンは据わった目で睨めつけたのだった。




