3-8
夜風に包まれた街の片隅、家屋の隙間に連ねられた細い階段を下りていくと、ふと開けた場所に出る。
誰もいない、こぢんまりとした公園だった。美しく整備された溜め池には、植物神ラートルムを象った女神像が静かに佇む。そこに青い影を落とす楠は、月明りを浴びて淡く輝き、浜辺のごとく波打った。
「まあ、こんな素敵なところに出るなんて!」
「何を普通に付いて来てんだ?」
グレンが顰め面で後ろを振り返れば、階段を下りてきたばかりのモニカがへらりと笑う。
ヴェルナー子爵邸──じきに彼の所有物件ではなくなるそうだが──その裏口から伸びる仄暗い階段を発見したグレンは、特にどうするつもりもなく徒然とそこを下りた。途中、後方からモニカの呼び掛ける声は聞こえていたのだが、まさかここまで付いてくるとは思わず。
さっさと声に応じて屋敷の部屋に突っ込んでおけば良かったと後悔していると、こちらのことなどお構いなしにモニカが女神像の手前までやって来た。
「ラートルムの石像もこの辺りで見納めですねぇ。ベラスケスに入ったら、鉱物神クシャラの像があるのでしょうか」
これを独り言とみなしたグレンは無視を決め込み、これみよがしの溜息と共にベンチに腰を下ろす。早く屋敷に帰れと言わんばかりの分かりやすいアピールは、しかし彼と同様に無意味なものとして無視された。
覆い被さる楠の樹冠を見上げれば、ひらりと一枚の葉が落ちる。
何の気なしに軌跡を追い、風に煽られたそれがとうとう鼻先を掠めようかというとき。
「ねぇグレン。どうしてヒルデさんのことを気に掛けているのですか?」
両手を皿のように丸めたモニカが、ふわりと葉を受け止める。
夕闇にあっても鮮明な薔薇色の瞳を一瞥し、グレンは上向けていた顎を元に戻した。
問いの答えを返さずにいると、小さく息をついたモニカがごそごそとベンチを跨ぐ。すとんと隣に腰を落ち着けては、二人の間に葉身を置いた。
「先に謝っておきますね。エクホルムさんからグレンのことを聞きました」
「……」
「あなたが師の行方を探していると」
風が止む。
靡いてばかりいた前髪が動きを止め、冷たい沈黙が落ちる。辛うじて時の動きを知らせるのは、どこからか聞こえる水のせせらぎだけ。
件の殺人鬼が何故その話を知っているのかと、グレンは暫しの黙考の末に舌を打った。恐らく行き倒れていた彼に飯を奢った日だろう。各地をさまよい歩く殺人鬼に、一度だけ師の話をした記憶がある。よもや今日に至るまで覚えているとは思わなかったが──。
自分から持ち出すならまだしも、他人からこの話を振られると無性に腹の辺りがむかむかとした。日頃から感じているモニカへの苛立ちが鮮明な輪郭を持ったような、焦りに似た嫌悪がこみ上げる。
渦巻く黒々とした感情は、やがてグレンの喉へとせり上がって、存外早く吐き出された。
「だから何だ。俺があのガキに同情してるって、そう言いたいのか?」
嘲りを乗せた声は低く、夜闇に虚しく溶け込む。
グレンは女の後髪を加減なしに鷲掴むと、軽々とその頭を引き寄せた。珍しく驚いた薔薇色の瞳を覗き、酷薄な笑みを近付ける。
「俺はお前のダチじゃない。お前の迷惑な我儘に付き合ってやってるだけの他人だ。謝るならそんぐらい分かってんだろ?」
「……ええ」
「いくらお喋り好きだとしても線引きはしてもらわねぇとな。……良いか箱女、今後また同じ話題を出したら──」
そこでグレンは細い肩を突き飛ばし、浮いた両手を頭上に縫い留めた。骨が軋むほどに強く彼女の体をベンチに押さえつけてしまうと、襟元から首にかけて片手を這わせる。
手のひらから徐々に力を込めれば、やわい皮膚に指先が沈んだ。
「死なない程度に痛めつけて解呪の言葉を吐かせてやる。いくらでもやりようはあるからな」
月明かりに照らされた紅玉の瞳が、陰った翡翠の瞳をまっすぐに見つめ返す。それは憎らしいほどに、いつもと変わらぬ冷ややかな眼差しだった。
──何故あの夜、モニカを殺してしまわなかったのだろうかと幾度も考えた。
盗みを目撃された時点で、いつもの自分なら迷いなく手に掛けていたはず。命を奪うまでは行かずとも、殴って気絶させることぐらい容易だったというのに。
今こうして妙な契約関係を結ばされているのは、不意に湧いた一瞬の戸惑いを打ち払えなかったのが原因だ。
薄暗い部屋に現れたモニカを見て、自分が何を思ったのか。
あの違和感が何だったのか、グレンは今も納得のいく説明ができない。
ただ一つ分かるのは、この何をも恐れぬ瞳が心の底から嫌いだということだけ。
「……そうですか」
誰にでも良い顔をしておきながら、決して和らぐことのない空虚な目付き。他人への深い興味を窺わせない錆びた笑みは、それでいて相手の腹の底を見透かそうと常に目を凝らしているようにも見える。
長いことグレンの剣呑な面差しを眺めた後、モニカは普段通り、唇に笑みを刻んだ。
「ですが安心してください、グレン。私はあなたを哀れむために過去をお尋ねしたのではありません。もしもグレンがその私情に惑わされ、私との契約を忘れて勝手な行動を取るようなら……“隷属の箱”を発動させなければならないと思ったからです」
「……心臓を潰すつもりだったと?」
「はい。私は情に厚い人間と長く付き合える自信がないので。ここでうじうじと過去を語られたらどうしようかと思いましたが、その様子だと無用な心配でしたね」
事も無げに語る女の態度に、嘘偽りは見えない。
すぐに憤慨すべきところを、グレンの胸中に広がったのは奇妙な安堵だった。
それは何も命の危機が去ったからではない。モニカが何ひとつとして、グレンの過去に──あまりに脆い内側に、干渉する姿勢を見せなかったからだ。
私たちは繋がりを持たない他人だと明言されて、愚かしいほどに彼の心が安らいだのだ。
まるで、欲していたものを親から与えられて喜ぶ童のように。
「馬鹿みてぇだな……」
ぽつり、彼の口からこぼれたのは自嘲だった。
彼女の存在を嫌だと言いながら、グレンは今、彼女の言葉に救われてしまった。
その事実がやはり腹立たしくて、遣りようのない苛立ちがまた一つ増えてしまった。
気付けば首に掛けていた手を離し、彼はベンチの硬い木目に額を擦りつけていた。なし崩しに重なった胴から、久しく感じたことのなかった他人の鼓動が伝わる。
視界に流れる銀の川を追えば、変わらずに樹冠を見上げる瞳がそこにあった。
「……グレン。やはりあなたを護衛に選んで正解でした」
グレンの視線が寄越されることを待っていたのか、やがてモニカは拘束が解かれた手を持ち上げる。
それを楠の屋根の向こう、うっすらと棚引く雲と星くずの群れにかざして。
「私とあなたは似ていますよ。とても。この旅が終われば、私たちはただの貴族と盗賊に戻りますが……」
五指を広げ、ゆるく握り締める。乱れた銀糸が風に揺られ、白い面がこちらを見遣った。
鼻先が触れ合うほどの距離で顔を見合わせ、モニカは穏やかに微笑んだ。
「それまでは仲良くしましょうね。似た者同士、適切な距離感を保てると思いませんか?」
「……気色悪いこと言うな。俺とお前が似てる? 生まれも育ちも何もかも違うだろうが」
「ええ」
ぐっと片手をつき、グレンは億劫な動きで体を起こす。投げやりな言葉に返って来たのは静かな肯定と、すいと差し出された細い腕。
「不思議ですね」
自分で言ったくせに。そう言外に詰ったグレンは彼女の手を引き起こすことなく、ベンチから立ち上がった。
「あら、起こしてくれると思ったのに」
「一人で起きて屋敷に帰れ」
「誰かに圧し掛かられて体の節々が痛くてですね……とてもあの階段を上れそうにありません……どうしましょう、ここで寝たら風邪を引いてしまいますね。最近の風邪はこじらせると命の危険も」
「うるっせぇな!」
くるりと踵を返したグレンは、ベンチで大の字になって文句を垂れるモニカを肩に担ぎ上げ、不本意ながらも彼女を屋敷まで運んだのだった。
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