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心臓は未だかえらず  作者: みなべゆうり
後日談&番外編

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神の御声

『バルシュミーデの子どもは呪われている』


 そんな噂が立ち始めたのはいつだったか。

 そして人々が口を閉ざしたのはいつだったか。

 誰もが忘れていた古い噂は、三十年以上の時を経て再び皆の脳裏によみがえる。



 公爵家の次男が初めて父親に頬を叩かれたのは、飼い猫が死んだときだった。

 裂けるような痛みに耐え兼ね尻餅をつけば、泣きじゃくる兄とそれを慰める母の姿が視界に映る。何をそんなに悲しんでいるのかと首をひねる少年に、父親である公爵は再び怒声を浴びせた。


『あの子の愛猫と知っていただろう。何故殺した』

『殺していません』


 少年の淡々とした返事に、その場にいた皆が言葉を失う。彼らがつと視線を移した先、ぐったりと倒れ伏した子猫。ついさっきまで元気に庭を走り回っていた愛らしい子猫は──他でもない、少年の容赦のない暴行によって命を落としたばかりだった。

 家族と使用人の前で堂々と行われた残酷な所業に白を切るつもりなのか、それとも生物の死を正しく認識できていないのか。血を分けた息子に怖気立ったのは公爵だけではなかったのだろう、長男を抱いた母親がゆっくりと後ずさる。


『──僕は兄上と同じように遊んでいただけです。どうして怒るのですか?』




 幼少期に起きた小さな事件は、家族の間に大きな隔たりを生んだ。

 愛猫を殺された長男は弟と顔を合わせたがらず、母親と共に別邸へ移ることとなった。公爵も初めは少年の内面を改善すべく教育に取り組んだが、やがて聖宮と別邸を行き来する生活に落ち着いた。

 それも仕方のないことで、少年はどれだけ命の重さを説かれても理解を示さなかったのだ。公爵はこれを精神の未成熟と捉え、乳母と数名の使用人に指導と監視を一任した。

 ──要は匙を投げたのである。

 しかしこういった問題はしばしば時間が解決することがあるのも確かで、公爵はそれに懸けたのだろう。幼い次男が心優しい少年に戻ることを祈り、別邸での穏やかな団欒に彼は逃避した。


 あのとき少年と真正面から向き合っていれば、バルシュミーデ公爵家はこのような破滅を迎えなかっただろうと、空になった屋敷を見て人々はかぶりを振る。




 屋敷の者たちから不気味がられ恐れられ、静かな孤独を味わうこととなった少年は、やがて一人で街へ繰り出すようになった。

 暇つぶし、もとい監視の行き届かぬ場での憂さ晴らしと言うべきか。路地裏で見付けたネズミをいたぶっては捨て、生ゴミに群がる虫を一つ一つ潰して回る。それが少年にとっての「遊び」だった。

 その日も少年がいつものように遊んでいると、小さな背中に見知らぬ男が声を掛ける。


『君、教会へ来ないか』


 少年は何も答えなかったが、男は沈黙を了承と捉えた。汚れたままの手を洗う暇もなく、連れていかれた先は静寂に包まれた礼拝堂だった。

 男は天空神を模した石像の前に少年を立たせると、自分はさっさと奥の部屋へ消えてしまう。


 ──ここで懺悔でもしろと言うのだろうか。父と同じように。


 少年は途端に白けた気分になった。どうせまたふわふわとした曖昧な道徳とやらを説かれるのだろう。今度は良心に訴えかけるのではなく、神の教えを盾にして。

 帰ろう。誰も迎えてくれない屋敷なれど、住み慣れた場所の方がまだ落ち着く。少年は鼓膜を圧迫されるような空間から脱出しようと、外へ続く扉に手をかけた。


『知りたいことがあるのだろう?』


 どこからか声が聞こえる。そしてそれは間違いなく少年に向けられたものだ。


『己が何故周囲に受け入れられないのか。何故、受け入れられないものを持って生まれたのか』


 ──何故、誰にも愛されないのか。


 少年は扉から手を離す。

 振り返れば案の定、白い石像がひたとこちらを見詰めていた。


『お前には使命がある。お前こそが我が手足なのだ。醜き心を持って生まれたのではない。邪悪なる血族を絶やすため、要らぬ情を削ぎ落として生まれただけのこと』

『父上は僕を呪われた子どもだと仰った』

『戯れ事を。加護を呪いなどと』


 神は総てを愛す。お前さえも。


 その言葉を聞いたときは既に、石像の前に舞い戻っていた。神の扁平な顔をじっと仰ぎ見た少年は、静かに尋ねる。


『僕が神に仕える身だと?』

『そうだ。そして私こそがお前を救う()である』


 少年は涙した。久しく与えられなかった他者からの慈愛は温かく、甘やかだった。


『カレンの子よ。私の元でよく励みなさい。お前にはその資格がある』

『はい。はい、主よ。あなた様のために尽くすことをお許しください』

『お前は既に我が使徒である。我らと共に、更新された世界へ渡るのだ』


『はい』


 うっとりとした顔で笑う少年に、扉の隙間から覗いていた男はひとつ身震いをした。




 ◇◇◇




「……私こそが悪魔だと、あの娘に言われたのですよ」


 両の脚を鉄枷で戒めた男は、低く笑って呟いた。

 鉄格子の向こう、簡素な木椅子に腰掛けたクラウスは、悠然と脚を組んだまま瞼を持ち上げる。俯けた顔はそのままに、瞳をそちらへ向けてみれば、みすぼらしい男が牢屋に寝そべっていた。

 つい先程まで毒でのたうち回っていたが、今日も生き延びたらしい。運が良いのか悪いのか──クラウスは溜め息をつく。


「私は主の御声をこの耳で聞いたと言うのに……」

「だとしたら貴公はとうに狂っていただけだ。その主とやらも同様にな」


 ぎ、と軋む音が木霊する。

 意味もなく笑う男を一瞥し、クラウスは薄暗い廊下を引き返したのだった。




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