2-9
寂れた教会には、一枚の絵画があった。
千年以上も昔、闘争の時代と呼ばれる神々の戦を描いたものだ。
光の神々と聖霊を引き連れた天空神は、清浄なる火をもってして暗黒を打ち祓う。
人々に悪を囁き、あらゆる欲求への誘惑を行う悪しき影の神々は、決戦の地にて敗北を喫した。
ゆえにこの大陸において、光の神々は正義であり真理であった。
いかなる者へも平等に救いは訪れ、各々の幸福を享受することができるだろうと、慈悲深きシスターは穏やかに説く。
「──グレン、本当に出て行ってしまうのですか」
聖書を読むときと同じ声音で、シスターが言う。
彼女は年老いた。共に過ごした期間は短くとも、相応に成長した少年は彼女がいかに高齢だったのか気付いてしまった。皺だらけの手に哀れみと、寂しさを感じてしまった。
「……一人でがんばるから。浮いたお金は他のやつらに使ってよ」
「グレン……もう少しだけ待ってみませんか? 彼はきっと帰ってきます。天空神は決して、罪なき子どもに無意味な試練など与えません」
「そう言ってもう三年経っただろ!」
つい声を荒げてから、はっと口を噤む。
シスターの顔を見る勇気もなく、少年は教会を飛び出した。引き止める声を無視して、霧雨の中を走り抜ける。
雨は嫌いだった。何が祝福の細雨だ。昔から雨は、少年にとって悪い印象しか持たせない。名も知らぬ神から同情されているようで、惨めな怒りが込み上げてくる。
「何だ坊主、家出か?」
「奉公なら雇ってあげようか」
「あたしじゃない、あの子どもが盗んだ! 本当さ!」
「黙って大人の言うことに従ってな」
「魔術が使える子どもか。分かった、二倍の値で買おう」
「この恩知らず!!」
雨はいつまで経っても止まなかった。聖なる雨はささくれた少年の心を癒すどころか、溢れるほどにまで水を注ぎ、芯を冷やし続けるだけだった。
最愛の人から見捨てられ、恩人の手を振り払った自分に、もはや寄辺は与えられない。
それが分かった瞬間、ようやく少年は体が軽くなった気がした。
◇◇◇
「──あ、やっと起きましたねグレン」
目覚めるや否や、薔薇色の瞳に迎えられる。木漏れ日を反射する双眸は、紅玉の輝きよりも多彩な光を宿して。
寝ぼけ眼に彼女の笑顔を凝視していると、モニカが小首をかしげた。
「もしかして疲れてしまいました? 昨日、私を庇って無茶なことしましたものねぇ」
木々のざわめきに馴染む、穏やかな声。
伸ばされた白い指先は彼の金髪をくすぐり、冷えた頬をまるで労わるように摩る。シスターの手とは違う、瑞々しさを備えた手のひら。
じんわりと伝染する体温が、再び瞼を重くさせ──。
「起きましたか?」
「……はなせ」
むぎゅ、と鼻を摘まれたまま、ようやく意識が覚醒したグレンは間抜けな声で訴える。
寝ぼけていたとはいえ忌々しいモニカの顔を長いこと見詰めてしまったのが悔しく、彼は強めに自分の頬を引っ叩いておいた。
昨晩、焚火から少し離れた林の中で見付けた大樹の空洞。周りの音を遮断してくれる場所は、どれだけ狭かろうが汚れていようが、グレンにとっては居心地がいい。適当に集めて作った木の葉の寝床から体を起こし、彼は軽く頭を振った。
「全くもう、何処に行ったのかと思ったらこんなところで寝ていたなんて……何で教えてくれないのですっ? 私、こういう如何にも旅っぽいことは大歓迎ですよ!」
「朝からうるせぇな勝手にやってろ」
ばさっと木の葉に飛び込むモニカを後目に、グレンはさっさと焚火のほうへ向かおうとした。が、林の入り口には既に準備を終えたヒルデが立っていた。
彼女は二つに束ねた髪を整えると、こちらの視線に気付いて慌ただしく姿勢を正す。
「あっ、お、おはようございますグレン殿」
「……殺人鬼はどこ行った?」
「彼なら先程一人で発たれました」
子ブタのブランシュを連れて、またどこかを彷徨いに行ったと。頼むから子ブタのことで癇癪を起こすのは止めて欲しいが、これは一向に叶わない願いなのだろう。
とは言え物騒な存在が消えたことにグレンが安堵していると、ヒルデがおずおずと口を開いた。
「あの、グレン殿。モニカ殿から北へ向かうと伺ったのですが……私も同行させていただけませんか」
「北っつってもベラスケスには行かねぇぞ」
「え? どうしてですか? グレン」
ひょいと会話に割り込んできたモニカを一瞥し、彼は溜息交じりに北方を見遣る。
「カイメラがうようよいるのと、あの国の魔術師は狩られるからな」
「狩られる……?」
「数十年前から贋物が爆発的に増えたのは知ってるだろ。あれはベラスケス王国の狂王が、魔術師を捕えまくって強制労働させてたって話だ」
モニカの持つ贋物“隷属の箱”がそれに該当するかは分からないが、ベラスケス王国がカイメラ実験のために贋物を大量生産しているというのは紛れもない事実。ゆえにグレンを含めた魔術師は、しっかりと身の安全が保障されない限りはかの国に足を踏み入れない。
──捕まれば最後、己の命を供物に魔術を行使させられるのは目に見えているから。
贋物に掛けられた大抵の魔術は、呪いと同じだ。
聖霊の力を借りるだけの単純な奇跡ではなく、自分以外の第三者を害すための呪い。聖霊はそのような人間の愚かな営みを決して許さず、償いとしてその命を要求するのだ。
「そーいうわけだから俺は絶対に立ち寄りたくな…………」
懇切丁寧にベラスケス王国の危険度を教えたグレンだったが、目の前の少女は真っ青になるばかり。今にも倒れそうな顔色につい閉口すれば、ヒルデはぽつりと告げたのだった。
「私の同行人、ま、魔術師だと……思うのですが……」




